02/18:歴史とは「軍書に悲し、佐賀の亂

Art of Heart ∈ 思考 69 空想 ∋ Word of World

古今東西 02/18 この日の出来事

1229/0218:第六回十字軍

The Sixth Crusade: Frederick II, Holy Roman Emperor signs a ten-year truce with al-Kamil, regaining Jerusalem, Nazareth, and Bethlehem with neither military engagements nor support from the papacy.
第六回十字軍 1228~9:神聖ロウマ皇帝兼シチリア王の Friedrich II 119450

神聖ロウマ帝國章

Friedrich II 119450 : 學藝を好み、近代的感覚を持った君主として、私が愛讀した Jacob Burckhardt 181897 は「王座上の最初の近代人」と讀んだ。中世史上、最も進歩的精神の持主と云ふのが定評。十字軍で關係のできたイスラム教國アイユウブ朝ノアル=カアミルもフリイドリヒに魅惑された一人であった。
Fは教皇廳や北イタリアの都市國家とは對立し、ロウマ教皇からは二度の破門を受けた。政治面ではイタリア統一に苦心したが、その悲願は達成されなかった。また、彼のイタリア重点の政策は本領のドイツに混亂をもたらした。

◇Kreuzzug(十字軍) 1228~29
:1222、エルサレム王の一行が神聖ロウマ帝國の領土内に上陸する。フリイドリヒは使節團を派遣、イスラエル王一行とともにロウマに向かった。ロウマでは、東方對策が議論され、その議論の最中、フリイドリヒはイスラエル王のブリエンヌの娘、ヨランドと結婚、結婚後二年以内に十字軍に參加する取り決めが交はされる。
:1225/1109、最初の妃を1222に亡くしてゐたFはヨランドが成人すると結婚した。同時に、その父ブリエンヌのイスラエル王位とヨランドが有する権利を譲渡させた。
:1227、フリイドリヒの遠征は實行に移される氣配なく、教皇グレゴリウスIXは破門をちらつかせて迫った。
:1228、四万の兵を率ゐてエルサレムへ出征。だが、途中で疫病流行、F自身も罹病。ためにイスラエルに達することなく引き返した。歸國したFwo教皇は破門する。
:Fは破門のまゝ第六回となる十字軍を組織し、再びエルサレムへ向かふ。が、途中でキプロス王國の政爭に介入する。ロウマ教皇廳は破門のまゝ出征したFに批判的であった。現地の將兵もFにたいし非協力的であった。かへって、エルサレムを統治するアイユウブ朝のスルタン、アル=カアミルは、今までのヨウロパ人とは異なる興味と關心とでイスラム文化を理解しようとするFに興味を持った。二人は書簡を交はし、そのなかでエルサレム問題の交渉もおこなはれた。かうして、一滴の血を流すことなく、1229/0211、二人のあひだに『ヤッファ条約』が締結され、十年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレム返還することになった。お互ひに宗教的寛容を約束し、いくつかの條件が加へられた。
:が、この平和的解決を喜んだのは、フリイドリヒのドイツ騎士団だけで、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は不快感を示した。エルサレム入城したFはエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した教皇配下の司祭らは破門されたFの戴冠を拒絶、1129/0318、フリイドリヒはみづからの手で戴冠した。


:平和理のエルサレム奪回は、キリスト教側では評價は低かった。「イスラム教側はこれほど弱氣なら、旧エルサレム王國すべてを取り戻せたのではないか」「最初から馴れ合ひではないか。十字軍の目的は、イスラム教徒との戦闘であるはずだ」「城壁もないエルサレムを奪還したところで、その維持は困難だ」といった惡口がなされた。
:かうしたなか、ロウマ教皇は破門皇帝(フリイドリヒ)にたいする十字軍を宣言、實行に移したために、フリイドリヒは取り急ぎ、歸國の途に就き、シチリアへ歸って行った。

{この記事のためには、このくらゐでいいだらう。まったく、このロウマ教會といふのはとんでもないな。まるでまさに「凡庸なる惡の巣窟」、譽められるやうな事は何一つやってゐない。惡いことばかりやってゐる。どうして、こんな組織をヨウロパは戰數百年間もありがたがって戴いてゐたんだらう。ま、多分、ヨウロパ人は、それなら日本人はどうして天皇といふ制度をもっと長い間戴きつづけたのかと反問してくるだらうが。


1478/0218

George, Duke of Clarence, convicted of treason against his older brother Edward IV of England, is executed in private at the Tower of London.

1637/0218

Eighty Years' War: Off the coast of Cornwall, England, a Spanish fleet intercepts an important Anglo-Dutch merchant convoy of 44 vessels escorted by six warships, destroying or capturing 20 of them.

1772/0218[安政07/0115]

田沼意次171988、老中、就任。元は旗本、後に大名。遠江相樂藩、初代藩主。

:紀州藩士から旗本になった田沼意行の嫡男として江戸の本郷弓町に誕生。
:父は藩士と云っても足輕だったが、部屋住み時代の徳川吉宗168451に氣に入られ、吉宗が八代将軍となると幕臣となり、小身旗本に取り立てられた。吉宗は將軍就任には自分の紀州藩の家臣を多く登用し、特に勘定方とお側役には紀州藩の者を用ゐた。
:幕臣二代目となる意次は吉宗の後繼となる09徳川家重171261の西丸小姓として抜擢された。
:1745、家重の將軍就任にともなひ本丸に仕へ、1748一千四百石、1755には三千石を加増され、その後、家重により1758寶暦08に起きた美濃國郡上藩の百姓一揆=郡上一揆の裁きにあたらせるために、御側御用取次から一万石の大名に取り立てられた。
:1716の家重逝去の後も、世子の家治からの信任も厚く、その後も昇進は順調に續き、1767には板倉勝清の後任として側用人に昇進、五千石の加増。さらには從四位下に叙階し、二萬石の相良領主となって、1769には侍從に昇り、老中格となる。
:1772安永01には相良藩五萬七千石の大名となり、老中を兼任、史上稀に見る出世昇進であった。
:この頃から、意次を中心とした幕閣は幕政改革に着手、田沼時代と呼ばれる一時代の主人公になる。惡化する幕府の財政立て直しのために重傷主義的性急くを採用(株仲間の結成、胴座などの專賣制度、鑛山の開發、蝦夷地の開拓計画、俵物などの專賣による海外貿易の擴大、印旛沼の干拓事業、等々の政策)、結果、幕府の財政は改善に向かった。だが、贈収賄など人心の腐敗も目に付くやうになった。都市部の繁榮とは裏腹に田舍では困窮する農民が田畑を放棄し、景氣のいい都會へ流入し、荒廢する農村に天明の飢饉や疫病流行が襲來した。この對策に意次は失敗する。一氣に世相は惡化した。農村では一氣や打ち壞しが頻發、田沼政治への不滿と憤懣は沸騰していった。
:意次は開明な感性と知性を持ち、海外との貿易に熱心であり、また奇人の噂高い平賀源内172879などとも親交し、蘭學を保護し、身分に囚はれない實力主義で人材登用したが、かういふこと全體が舊守的な幕府閣僚の反感を買っていった。

:1784、嫡男で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政信に暗殺された。この事が切っ掛けとなって、意次の權勢の凋落が始まる。
:1786天明六年八月二十五日、將軍家治が逝去。その死の直前から、意次は家治の勘氣を蒙り、側近から遠ざけられ、失脚した。無論、その背後には反田沼の策謀もあったらう。八月二十七日、老中辭任、雁間詰に降格。閏十月五日には、家治時代の加増分の二萬石沒收、さらに大阪の蔵屋敷の財産沒收と江戸邸の明け渡しも命じられた。さらにさらに、蟄居を命じられ、二度目の減封も受ける。相良城は打ち壞し、城内の金穀は沒收。嫡男は殺され、他の三人の男子は養子に出し、後を繼がせた龍助は陸奥一萬石と辛うじて大名格で家督を継いだ。昇進同樣にその凋落もめざましいものであった。
{しかし、この直滑降、垂直の凋落の原因が何であったのか、たんなる亡君の勘氣だけが原因とは思はれない。
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 田沼意次171988の評價 :

{田沼意次171988はその人物と業績についての評価が一定しないといふ点で、代表的で象徴的な實例かも知れない。有名な歴史家や小説家の著作の出るたびに、二轉三轉、大逆轉してしまふ。どだい、生きた人間の生涯などそんなもので、見方によって樣變はりするのはあたりまへだが、彼等は歴史上の人物を時代を睨みながら、舞臺上の人物のやうに明確な性格づけをしないと芝居が、つまりは物語が掛けないのだ。田沼意次のキャラを立てるには、田沼の一部分をフレイムアップして、善かれ惡しかれカリカチャを造形していかなければならない。小説家ならいざ知らず、歴史家までがさうやってしまふ。さうして、それが彼の實像だと主張する。そんな物をいくつか集めれば、實像に迫れるだらうと思ふかも知れないが、キャラ立てされたそれらは一人物に綜合しがたく、人間といふより怪物と化してしまふ。江戸時代中期でも然り、ましてもっと過去の人物となると、近現代の絵描きが描いたやうな手前勝手な想像を驅使して描いた肖像畫のやうなものだらう。極端に云へば、私は歴史の事實については基本的にさう認識してゐる。所詮は物語なのだ。史實なる物を適當に繋げあはせて捻りだされた。

1814/0218

Napoleonic Wars: The Battle of Montereau.

1861/0218

Jefferson Davis is inaugurated as the provisional President of the Confederate States of America.

1874[明治07]/0218:佐賀の亂:佐賀城の戰

佐賀藩の不平憤懣の士族が叛亂軍となって、佐賀城を使った佐賀縣廳に籠城した佐賀縣令岩村高俊184506の軍と激戦、敗走させる。叛亂軍が勝利したのはこの時だけ。
佐賀の亂は、1874[明治07]二月の一日に始まり、三月一日までに平定された(この時期頻發することになる)士族叛亂の嚆矢であった。九州の僻地での大規模な叛亂であったが、文明開化の電信や汽船の活用により明治政府により鎭壓された。

『皇国一新見聞誌 佐賀の事件』
{この際、佐賀の亂の一部始終を概略しておく。
:明治六年の政變で敗れて下野した參議の江藤新平183474を首魁にいただく征韓黨と、前侍從で秋田縣權令の島義勇182274や副島義高182774[島義勇の弟]を戴く憂國党が混成して叛亂軍となった。
:そもそもは、江藤も島も、激發する佐賀藩の士族を宥めるために佐賀に戻ったのであった。だが、縣權令の巖村の強硬な態度もあり、ともに決起することにした。だが、その主旨を異にする二つの黨派は混じりあはず、二つのまゝに一緒に行動してゐるにすぎなかった。また、佐賀士族のなかには中立黨を立て、政府軍に加勢する者も少なくなかった。江藤の「佐賀が決起すれば薩摩の西郷をはじめとして全國の不滿士族が決起するはず」の目論見は、最初から裏切られた。
:佐賀の亂での叛亂軍の總數は詳しくは解ってゐないが、約一万千人ほどになるが、明治五年の版籍奉還の際に提出された時の藩士の總數が一万四千人程度だから、この一万千人のすべてが叛亂軍に參加したわけではあるまい。明治07、鎭壓にあたった西郷從道184302に提出された「降伏叛徒概計」には6327人とあり、このくらゐが實數であらうと『近世日本國民史』で徳富蘇峰186357は記してゐる。が、この數字のなかには參加せずに降伏した數も含まれてゐるとして、征韓党が千五百人、憂國党が三千五百人とする本もある。
:征韓党の主宰は前參議の江藤新平183474、城下の與賀町にある延命院に本據し、若年の下級士族が中心を成してゐた。
:憂國党は佐賀城下南にある寶琳院を根據地とし、家格の高い壯年の者が多かった。主謀に侍從で前の秋田縣權令の島義勇182274を戴いた。
:この佐賀の亂が、明治に入って最初の大規模な内戰であった。政府は1873制定の徴兵令による國民軍を軍隊に編成した。
:内務卿大久保利通183078は佐賀藩の暴動に隣藩の福岡藩が刺戟されるのを懸念して、福岡県參事に 佐賀討伐のための福岡藩士の徴募を指示した。これにより福岡の士族三千六百が福岡城に集結、政府軍への參加を志願した。大久保の知謀であった。
:江藤は明治六年の政變でともに下野した板垣退助183719・副島義高182774・後藤象二郎183897らの説得などを受け流し、太政官布告の「前參議は東京に滯在すべし」を無視して佐賀に戻った。江藤と同じ佐賀藩出身の參議大木喬任183299は、江藤出發の報に、佐賀出身の官吏三人を派遣し強引にでも江藤を連れ戻さうとしたが、彼等が横濱に着いた時には江藤の乗った船はすでに港を離れてゐた。
:佐賀は不穏な狀況となってゐた。そんななか、1874/0201、憂國黨に屬する士族が官金預かりを業とする小野組に押し掛ける事件が起こった。事件は電信で内務省に通知され、0204政府は熊本鎭臺の司令長官、谷干城183711に鎭壓を命じた。佐賀の亂の發端である。
:そんななか、元侍從の島義勇182274は三条實美183791の依頼により、沸騰する佐賀状勢の鎮撫のために佐賀に向かったが、偶々同乘してゐた岩村高俊184506の横柄無禮な態度に憤慨し、この巖村が兵を率ゐて佐賀城に入ると聽いて、父祖の地を死守しなければならぬといふ決意に固まった。佐賀に入るとそれまで不仲だった江藤と面談、共に立つことを誓った。
:/0209、大久保内務卿は佐賀における軍事・行政・司法の三権を文官でありながら一手に掌握、すべての事項を決済した。大久保はみづから東京から引きつれた軍隊に大阪の鎭臺の部隊なども動員し、0220に博多に到着するとそこでも兵を集める一方、本體を指揮する野津鎭雄を朝日山に向かはせ、博多の本陣には山田顯義184492を置いた。
:中央政府からの鎭壓命令を受けた熊本鎭臺には佐賀出身の者も多く、動揺が擴がってゐた。司令官の谷は援軍を待っての進軍のつもりであったが、新しく縣令となった巖村の督促もあり、0214、駐屯する大隊のなから、第十一大隊を二分し、左半大隊を海路から、右半大隊を陸路から佐賀へ向かはせた。
:0215、海路軍に護衛されて巖村らが佐賀城に入ると、江藤らは政府の眞意を探るべく山中一郎を派遣した。巖村は「答へる必要はない」と答へたのにたいして、同日の夜、県庁となった佐賀城に籠もった鎭臺部隊と交戦、三分の一を死亡させる大損害をあたへ敗走させた。佐賀の亂における政府軍の死者はこの時の戦闘が大部分であった。
:佐賀城を失った政府軍だったが、熊本には大久保率ゐる大軍がゐた。これに長崎にも手を囘し、佐賀を包圍するかたちで迫っていった。
:叛亂軍は、征韓黨が長崎街道沿ひを、筑後川沿ひを憂國黨が受け持つことを決め、征韓黨は朝日山に向かひ0222政府軍を迎撃した。憂國黨は福岡の本隊との合流をめざす熊本鎭臺の部隊を迎撃した。
{以下、時間切れ、後に囘す。どうせ、誰も讀んでゐないやうだから。
:朝日山の戰。
:寒津川・田手川の戰。https://is.gd/xJKCP3
:江藤新平183474のその後、その死まで。

江藤捕縛を報じた東京日日新聞の記事

{結局、不滿憤懣の士族の決起は、士族(所屬してゐた藩の意識を捨てきれない)の決起にすぎなかった。日本といふ觀念は彼等にはなかった。だから、すぐ近くで同じ不滿憤懣を持ちながら、連帶することもなく、次々と散發して徴兵令で作られた日本軍の最初の餌食となって終ってしまったのだ。云はば、取り殘されてしまった者たちの集團自決のやうなものであった。これらの事件を同じ九州で見てゐた西郷の氣持もそんなものではなかった、とその後の彼の、自分の戰爭にたいする態度を見てゐると憶測されてくるのである。
佐賀県権令としても、Dキーンの「無能で横柄な岩村の抜擢は、最悪の選択だったと言える」との厳しい評がある。キーンの『明治天皇』によれば、岩村は佐賀藩士島義勇の前で佐賀藩士を侮辱し、彼を反乱側へと追いやったとしている。もっとも木戸孝允は、この人選は大久保利通の佐賀を決起に追い込むための策略(すなわち岩村の性格ならば、必ずや佐賀士族を侮辱し憤らさせるような事態を起こすであろうことを見越したもの)であると看破し、後に大久保に対する人格批判への根拠として久米邦武に洩らしている。{これらも後世の理解への「目眩まし」みたいなもので、

1885/0218

Mark Twain 183510 published `Huckleberry Finn` in the United States.

Ernest Hemingway 189961 said "All modern American literature comes from Huck Finn, and hailed it as the best book we've had" &「すべてのアメリカン作家は、この作品に由來する。この作品以前にアメリカ文學とアメリカの作家は存在しなかった。この作品の後に、これに匹敵できる作品は出てこない。」
{外側からアメリカ文學を見ると、アメリカの文學は狂氣の文學だ、Edgar Allan Poe 180949に始まり、この現代にいたるまで狂氣を帶びてゐないアメリカン作家は存在しない。私が讀んだアメリカ文學の印象はまづ第一にさういふことであった。ま、私が讀んだアメリカ文學が偏向したものであったのかも知れない。私に云はせれば、アメリカ文學を代表し象徴するのは、Herman Melville 181991 の ` Mody-Dick 白鯨`1851 だらう。エイハブ船長の狂氣と行動こそがアメリカ人のミッション性を帶びたフロンティアスピリットを體現してゐる、だらう。そして、『白鯨』に雙璧とするとしたら、やはりNathaniel Hawthorne 180464 の`The Scarlet Letter 緋文字`1850 だらう。ちなみに、『白鯨』はホウソンに獻げられてゐる。

1908/0218

日本からの移民を制限する『日米紳士協定』締結。
{ちょいと讀んでみると、なかなか複雜な狀況があったやうだ。從順でよく働き、集團してしまふ日本人は、アメリカ人には一種無氣味な存在だったのだらう。この協定は最近までずっと續けられてゐた。

1930/0218

While studying photographs taken in January, Clyde Tombaugh discovers Pluto=冥王星、發見。

1932/0218

The Empire of Japan declares a puppet state of Manzhouguo (the obsolete Chinese name for Manchuria) independent from the Republic of China and installed former Chinese Emperor Aisin=Gioro Puyi as Chief Executive of the State.
東北最高行政委員會、滿洲の中國國民政府からの獨立を宣言。0301に滿洲國を建國。

1935[昭和10]/0218:天皇機關説問題:

貴族院本會議で、菊池武夫議員が美濃部達吉187348議員の天皇機關説を避難。

1938/0218:WWⅡ:南京事件

Second Sino-Japanese War: During the Nanking Massacre the Nanking Safety Zone International Committee is renamed "Nanking International Rescue Committee" and the safety zone in place for refugees falls apart.

1938[昭和13]/0218:石川達三『生きてゐる兵隊』發禁

石川達三190585の南京從軍記『生きてゐる兵隊』を掲載した『中央公論』三月號を發禁處分。作者の石川と編集者および發行人が新聞紙法第41条(安寧秩序紊亂)要義で起訴され、石川は禁錮四ヶ月、執行猶豫三年の判決を受ける。

南京事件の記述、
# 1946年5月9日の読売新聞のインタビュー記事で石川は、「入場式におくれて正月私が南京へ着いたとき、街上は死体累々大変なものだった」と自らが見聞した虐殺現場の様子を詳細に語っており、その記事が掲載された直後の11日の国際検察局の尋問では、「南京で起こったある事件を、私の本ではそれを他の戦線で起こった事として書きました」と述べている[1]。一方、逝去3ヶ月前にインタビューを申し込んだ阿羅健一によると、闘病中を理由にインタビューは断られたが、「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」との返事をもらっているという。
{こゝにも、歴史と物語との重ねあひがおこなはれ、日々新たに歴史は書き換へれていってゐるわけだ。「南京事件の歴史」の現在にいたってゐるその歴史をみれば、私が言はんとしてゐることは理解できると思ふ。歴史は物語である。L'histoire est l'histoire.

1942/0218:World War II:

The Imperial Japanese Army begins the systematic extermination of perceived hostile elements among the Chinese in Singapore.

1943/0218:WWⅡ: ゲッペルス『總力戰』演説


Joseph Goebbels delivers his Sportpalast speech.
ナチスドイツ、宣傳相 Joseph Goebbels 189745、「總力戰」を演説で宣言。
https://is.gd/E0SAag
&

1943/0218:WWⅡ:ドイツ學生『白い薔薇』運動

The Nazis arrest the members of the `Weiße Rose (White Rose )` movement.
Weiße Rose=白い薔薇 https://is.gd/yJ6QUH

{同じ日にドイツで演じられた、この『白い薔薇』の若者の草の根の平和希求の運動ととゲッペルスが厭戰氣分が蔓延り始めたドイツ國民に鞭をふるった『總力戰』の演説と、歴史は一對にして思ひ考へよとアドヴァイスしてゐるかのやうだ。

1947/0218

First Indochina War: The French gain complete control of Hanoi after forcing the Viet Minh to withdraw to mountains.
東南アジアのフランス軍、ヴェトミンを退却させハノイを完全な支配下に、
{このフランスが占據した東南アジアが、性愛の秘境としてエマニエル夫人を引き寄せるといふわけだ。

1952[昭和32]/0218

陣屋事件:將棋王將戰で升田幸三が木村義雄との對極を拒否 https://is.gd/6wOX8K

1955/0218

Operation Teapot: Teapot test shot "Wasp" is successfully detonated at the Nevada Test Site with a yield of 1.2 kilotons. Wasp is the first of fourteen shots in the Teapot series.


1969[昭和44]/0218

日大鬪爭:機動隊導入で日本大學の全學封鎖を解除。

1983/0218

Thirteen people die and one is seriously injured in the Wah Mee massacre in Seattle. It is said to be the largest robbery-motivated mass-murder in U.S. history.

1991/0218

The IRA explodes bombs in the early morning at Paddington station and Victoria station in London.

2001/0218

FBI agent Robert Hanssen is arrested for spying for the Soviet Union. He is ultimately convicted and sentenced to life imprisonment.





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