02/13:歴史の現場に降りたちて、悲しく天をば見上げけり


Art of Heart ∈ 思考 69 空想 ∋ Word of World

Paul Klee 187940

古今東西 02/13 今日の出来事


今日もまた「生首」ふたつの記事になってしまった。實朝と公曉。二十七歳と十九歳の、伯父と從弟との。鎌倉には物珍しくも二尺ほどの大雪の中、黒々とした政事が二人の若い命に時代を演じさせた。悲しい哉。

1219/0213[建保07/0127]:實朝、甥の公曉に暗殺さる

鎌倉幕府第三代將軍、源實朝119219、鶴ヶ岡八幡宮で公曉120019に暗殺さる。即日、公曉も追討される。
・公曉(クギョウと讀まれてきたがコウギョウと呼ばれてゐたらしい)は、鎌倉將軍二代目の源頼家の二男または三男、實朝には兄の子、甥になる。
・公曉の父、源頼朝114799の後を繼いだ嫡男の將軍頼家は1203[建仁03/09]に「比企能員の變」により母方の北条氏により鎌倉を追放され、伊豆の修善寺に幽閉され、北条氏によって殺害されたのは、幼名、善哉の公曉が五歳の1204[元久01/0718]のことであった。この死について、北条氏御用達の『吾妻鏡』は簡單に死の事實を記すのみだが、同時代の京都側の證言、たとへば、慈圓115525の『愚管抄』では、「修善寺にて頼家入道をば刺し殺してけり。とみにえ取りつめざりければ、頭を押さへつけて、フグリを取りなどして殺してけりと聞こえき云々」と記してゐる。フグリとは男性器のこと。
・實朝暗殺のこの日、その前日から鎌倉は二尺ほども積もる異例の大雪が降りしきってゐた。そのなかを實朝は右大臣拜賀のために鶴岡八幡宮に詣った。夜になり、儀式終って八幡宮を出て、公卿らが立ち竝ぶ所に來た時、物影から頭巾を被った暗い影が實朝を襲撃した。正裝した實朝の下襲を踏みつけて、實朝が顛倒したところを「親の敵はかく討つ」と雄叫びして頭に斬りつけ、たちまち首打ち落とし、その首を小脇にし、その襲撃者に加勢する數人の黒い影が實朝の供の者を追ひ散らすなか、八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別當阿闍梨の公曉なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と凱歌しながら姿を消していった。逃げ惑ふ公曉らと驅けつけてきた武士に混亂する現場から姿を消した。儀式の際、數千の兵はすべて鳥居の外に控へさせて、現場には武士はゐなかった。
・實朝の首を獲物にした公曉は、鎌倉雪の下の下北谷に後見人である備中阿闍梨の宅に入り、そこで一食を所望、空腹を充たす間も實朝の首を手放すことはなかった。それから、乳母夫となる三浦義村に使を出させ、自分が今こそ征夷大將軍ぞと言ひ送った。義村は「すぐに迎への使者を送ります」と答へて、北条方の中心人物、北条義時116324に内報した。義時は迷ふことなく公曉の誅殺を評議にかけ、義村は公曉誅伐を長尾定景に命じた。
・すでに老齢の長尾定景は固辭したが、義村は許さなかった。定景は五名をしたがへて迎への使者を装って公曉のもとへ向かった。その途中、鶴ヶ岡八幡宮の裏手で、單身やってくる公曉と遭遇、定景は首尾よく、公曉の首を取った。
・義村の使者を待つ間、公曉は待ちきれなくなったのか、一人で大雪のなかを鶴ヶ岡八幡宮の裏の山に登ってゐる所で、長尾定景の討手と遭遇した。應戰しつつ義村邸の板塀の所にまで來て、弊を乘り越えようとしたところを討ち取られた。
・定景は公曉の首を北条義時のもとにもたらし、義時は首實檢をした。
・この騷動のなか、實朝の首はいつしか行方不明になってしまった。
・後世、当然の如く、義經同樣、公曉の生存説が唱へられることになる。
{公曉の實朝暗殺の背後關係についての研究は、まさに諸説紛々、歴史がいかに想像逞しい文學の世界であるかを如實に教へてくれる好例だらう。


{私は源實朝119219を扱った各種の作品を讀んでゐるが、その最初は、小林秀雄190283の『實朝』であった。冒頭に、日本の再興の歌人は尋ねられた松尾芭蕉164494が「西行上人と鎌倉右大臣」と答へたといふ話をマクラに置いて、いきなりこの實朝暗殺の事から記し始めてゐる。その部分を少しだけ引用してみよう ――
 大江廣元は、異變の到來を知ってゐたと言ふ。義時は、前の年に豫感したと言ふ。「御夢中に、藥師十二神將の内、戌神、枕上に來たりて曰く、今年は神前無事なり、明年拜賀の日は供奉せしめ給ふことなかれ者、御夢覺むるの後、尤も奇異たり、かつは其意を得ずと云々」(建保六年七月九日)。拜賀の當日、彼(義時)は「にはかに心神御違例」といふ理由で、仲章に代參させ、仲章は殺された。誰も義時の幸運を信ずる者はあるまい。公曉は、首を抱へて、雪の中を、後見備中阿闍梨の宅に走り、飯を食った。「膳を羞むるの間、猶手に御首を放たず」とあるのは、目に見えてくるやうだが、その後は怪しげになる。彼は早速、三浦義村に使を走らせ、「今、將軍の闕あり、吾、專ら東闕の長に當るなり、早く討議を廻らすべきの由」を言ひ遣る。これは殆ど豫ての計劃どほり事を運んだ人の當然の報告のやうに受け取られ、義村を信じ切った公曉の姿がよく出てゐるといへばよく出てゐる、と思ふと、急に何故公曉は義村に報告したかを訝るやうな曖昧な筆致となり、「これ義村の息男、駒若丸、門弟に列るによりて、その誼を恃まるるの故か」と書いてゐる。實朝殺害は、公曉の出來心でもなかったし、全く意外な事件でもなかった。彼は長い間、何事か畫策するところあり、はては、人々その擧動を怪しむに至った事は、當の『吾妻鏡』が記してゐる(建保六年十二月五日)。 公曉は、義村がやがて御迎へを差し上げると僞り、討手を差し向けたとは露知らず、待ちかねて義村宅に出向く途路、討手に會し、挌鬪して殺された。公曉の急使に接した義村の應對ぶりを敍したところも妙な感じのする文章である。 「義村、此事を聞き、先君の恩化を忘れざるの間、落涙數行、更に言語に及ばず、しばらくして先づ蓬屋に光臨あるべし。かつは御迎へ兵士を獻ずべきの由、之を申す」。大雪の夜の椿事に、諸人惘然としてゐるなかで、義村が演じねばならなかった芝居を描くのに『吾妻鏡』編者の頬被りをして、素知らぬ顏した文章がまことによく似合ってゐる。文章といふものは、妙な言ひ方だが、讀まうとばかりしないで、眺めてゐるといろいろな事を氣付かせるものである。書いた人の意圖なぞとはまったく關係ない意味合ひを澤山持って生き死にしてゐる事がわかる。北条氏の陰謀と『吾妻鏡』編者等の曲筆とは、多くの史家の指摘してゐるところで、その精細な研究について知らぬ僕が、今更かれこれ言ふ事はないわけであるが、たゞ、僕がこゝで言ひたいのは、特に實朝に關する『吾妻鏡』編者等の舞文潤飾は、編者の意に反し、みづからもっと深いものを暗示してゐるといふ點である。
 廣元は知ってゐたと言ふ。義時も知ってゐたと言ふ。では、何故『吾妻鏡』の編者は、實朝自身さへも自分の死をはっきり知ってゐたと書かねばならなかったのか。そればかりではない。今日の死を豫知した天才歌人の詠には似付かぬ月竝みな歌とはいへ、ともかくも一首の和歌さへ、何故、案出しなければならなかったのか。さういふ考へ方も、勿論、できるわけだらう。實朝の死には、おそらく、彼等の心を深く動かすものがあったのである。「出でていなば(主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな)」の辭世は、『大日本史』にも引かれ、今日では實朝秀歌の一つとして評釋されてゐるが、僕には實朝がそんな役者とはどうも考へられない。『吾妻鏡』編者らの、實朝の横死に禁忌の歌を手向けんとした心根を思ってみるはうが自然であり、又、この歌の裏に、幕府問注所の役人たちの無量の思ひを想像してみるのは、さらに興味あることである。
 鶴岡拜賀の夜の無慙な事件が、どんなに強く異樣な印象を当時の人々に與へたか、それを想像してみるのは難しい。それは、現代に住む僕等がどんなに誇張して考へようとも誇張しすぎるといふやうな事はまづないものと知らねばならぬ。 事件の翌日、百餘人の御家人が出家を遂げた。 ……

また、もう一つの私に印象的な「實朝」は太宰治190948の『右大臣實朝』だが、奇しくも小林が『實朝』を書いた同じ年、1943[昭和18]年に作られてゐる。大東亞戰爭に突入して二年、次第に戰況は日本が不利になっていくなか、銃後の彼等の精神もおのづと緊迫したものになってゐたのだらうか。二人とも、この時期あたりがその文藝の最高潮ではないだらうか。
この作品の大宰治は、道化のマントを脱ぎ捨てて素顔を見せてといふか、落語家が文藝基本の講談口調で語ってゐるやうな、ジャズプレイヤとなったピアニストがバッハをクラシクに弾いてやうな、といふかいっそ、ナボコフやボルヘスにでも見せてやりたいやうな、クリステヴァやデリダにも示してみせたいくらゐに、作品の形式と構造に工夫と發明を凝らして、歴史と物語とを(箱根細工に)組み合はせて、古典と挌鬪してみせた、私にとってはこれほどはない問題作にして成功作となってゐる。私はこの作品で大宰治の文藝的力量を認めた。
この『右大臣實朝』では、史實の時系列どほりに實朝の人生が史書に從つて敍述され、その死は最後に置かれてゐる。そこでは、巧みにも太宰は、自分の解釋文は加へず、史書からの拔書だけを竝べて、オチなしのサゲに作品を終らせてゐる。その斷絶感は、黒々とした闇に實朝と公曉の生首が幻影してくるやうな、強烈な印象を私に刻んだ。最後の部分 ――
 建保七年己卯。四月十二日承久元年と爲す。正月大。 七日、甲戌、戌刻、御所の近邊、前大膳大夫入道覺阿の亭以下四十餘宇燒亡す。 十五日、丙子、丑刻、大倉邊燒亡す、數十宇災す。 廿三日、甲申、晩頭雪降る、夜に入つて尺に滿つ。  廿四日、乙酉、白雪山に滿ち地に積る。 廿七日、甲午、霽、夜に入つて雪降る、積ること二尺命、今日將軍家右大臣拜賀の爲、鶴岳八幡宮に御參、酉刻御出、 行列   先づ居飼四人 次に舎人四人  次に一員  將曹菅野景盛  府生狛盛光  將監中原成能  次に殿上人 一条侍從能氏 藤兵衛佐頼經 伊豫少將實雅  右馬權頭頼茂朝臣 中宮權亮信能朝臣 一条大夫頼氏 一条少將能繼 前因幡守師憲朝臣 伊賀少將隆經朝臣 文章博士仲章朝臣 次に前駈笠持 次に前駈 藤勾當頼隆 平勾當時盛 前駿河守季時 左近大夫朝親 相模權守經定 蔵人大夫以邦 右馬助行光 蔵人大夫邦忠 左衛門大夫時廣 前伯耆守親時 前武蔵守義氏 相模守時房 蔵人大夫重綱 左馬權助範俊 右馬權助宗保 蔵人大夫有俊 前筑後守頼時 武蔵守親廣 修理權大夫惟義朝臣 右京權大夫義時朝臣 次に官人 秦兼峰 番長下毛野敦秀  次に御車、車副四人、牛童一人  次に随兵 小笠原次郎長清 小櫻威 武田五郎信光 黒糸威 伊豆左衛門尉頼定 萌黄威 隠岐左衛門尉基行 紅威 大須賀太郎道信 藤威 式部大夫泰時 小櫻威 秋田城介景盛 黒糸威 三浦小太郎時村 萌黄威 河越次郎重時 紅威 荻野次郎景員 藤威 各冑持一人、張替持一人、傍路に前行す、 次に雑色廿人 次に※[#「※」は「てへん+僉」、讀みは「け」、470-10]非違使 大夫判官景廉 次に御調度懸 佐々木五郎左衛門尉義清  次に下臈御随身 秦公氏 同兼村 播磨貞文 中臣近任 下毛野敦光 同敦氏  次に公卿 新大納言忠信 左衛門督實氏 宰相中將國道 八条三位光盛 刑部卿三位宗長  次 左衛門大夫光員 隠岐守行村 民部大夫廣綱 壱岐守清重 關左衛門尉政綱 布施左衛門尉康定 小野寺左衛門尉秀道 伊賀左衛門尉光季 天野左衛門尉政景 武藤左衛門尉頼茂 伊東左衛門尉祐時 足立左衛門尉元春 市河左衛門尉祐光 宇佐美左衛門尉祐長 後藤左衛門尉基綱 宗左衛門尉孝親 中条左衛門尉家長 佐貫左衛門尉廣綱 伊達右衛門尉爲家 江右衛門尉範親 紀右衛門尉實平 源四郎右衛門尉季氏 塩谷兵衛尉朝業 宮内兵衛尉公氏 若狭兵衛尉忠季 綱嶋兵衛尉俊久 東兵衛尉重胤 土屋兵衛尉宗長 堺兵衛尉常秀 獵野七郎光廣  路次の随兵一千騎なり、 抑も今日の勝事、兼ねて變異を示す事一に非ず、所謂、御出立の期に及びて、前大膳大夫入道參進して申して云ふ、覺阿成人の後、未だ涙の顔面に浮ぶことを知らず、而るに今昵近し奉るの處、落涙禁じ難し、是只事に非ず、定めて仔細有る可きか、東大寺供養の日、右大將軍の御出の例に任せ、御束帶の下に腹卷を著けしめ給ふ可しと云々、仲章朝臣申して云ふ、大臣大將に昇る人、未だ其式有らずと云々、仍つて之を止めらる、又公氏御鬢に候するの處、自ら御鬢一筋を拔き、記念と稱して之を賜はる、次に庭の梅を覧て禁忌の和歌を詠じ給ふ、出テイナバ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ     
(以上吾妻鏡)(以下承久軍物語に據る)
 このとき右京權大夫義時は、御劍の役を勤め給ひしが、宮の門に入給ふ折ふし、俄かに心神惱亂し、前後暗くなりしかば、文章博士仲章を呼びて御劍をゆづり、退去して己の邸に歸り給ふ、ここに不思議あり、將軍御車より降り給ふとて、細太刀の柄、御車の手形に入りたるけるを知らせ給はで、打折らせ給ふこそ、あさましけれ、然るに、仲章苦しうも候ふまじとて、木を結ひ添へてぞまゐらせける、むかし臨江王といひし人はるかの道におもむくとて、車の轅折れたりけるを、愼しまずして行きけるが、再び返ることを得ずして、他國の土と朽ちにけり、前車のくつがへるは、後車の戒しめとこそ申すに、諫め申さざる文章博士不覺なる次第也、これのみか、御車の前を黒き犬、横さまに通る事、靈鳩しきりに鳴く事、かたがたもていまいましき告げ有りけるを、驚かぬこそはかなけれ、さるほどに石階に近づかせ給ふ時、いづくよりともなく、美僧あらはれ來て、將軍を犯し奉る、はじめ一太刀は笏にて合せ給へども、次の太刀にぞ御首は落され給ひけり、文章博士仲章、因幡前司師憲も斬られけり、前後に候ひける随兵ども、こは如何なる事ぞやとて、あわて騷ぎて宮の中に馳せ込むといへども、かたきは誰とも知らず、頃は正月廿七日の戌の時の事なれば、暗さは暗し、上を下に返して、どよむ聲おびただし、かかりける所に、上宮の砌にて、阿闍梨公曉、父のかたきを討つと名乘られつるといふ事ありて、軍勢ども、すなはちかの禅師がおはします雪下の本坊を襲ふところに、ここには、おはしまさずとて兵ども歸りけり、さても別當、公曉とは、故右大將殿の御嫡孫にして金吾將軍の二男なり、御母は、賀茂の六郎重長の女にてぞおはしける、みなし児にて、おはせしを、祖母の二位の禅尼、ふびんに思召し、鶴岳八幡宮の別當職に附せらる、かねて將軍ならびに右京大夫義時を討たんとて窺ひ給ふといへども、未だ本望をとげ給はず、この拜賀の時節を、天の與へと喜びて、おぼし立つところに、義時こそ、御劍の役に定りける由聞こしめしければ、まづ一の太刀に討ち給ふところに、引かへ、仲章御劍の役を勤めし故にこそ、あへなく討たれけるとかや、ともかくに日頃の宿意を遂ぐると悦びて、すなはち將軍の御首を手に持ち、後見の備中阿闍梨が雪下の北谷の家に向はれけるが、物などまゐらせける間も、御首を放し給はず、然るに、別當の門弟に、駒若丸と申すは、三浦の平六左衛門義村が二男也、そのよしみを、おぼしけるかや、源太兵衛と申す者を御使ひにて、義村が方へ仰せ遣されけるは、右府將軍すでに薨じ給ひぬ、いま關東の長たるべき者は我なり、早く計略をめぐらすべしと示し合されければ、義村、大きに呆れ、日頃將軍家御恩厚く被り奉れば、今更いたはしく思ひ、右京大夫に參りて申合せければ、すみやかに別當阿闍梨を誅し奉るべきに定りけり、すなはち長尾の新六、雑賀の二郎以下五人の兵に仰せて、阿闍梨の在所へつかはさる、別當は、使ひの遲き事を待ちかね給ひて、義村が私宅に至らんとおぼしめして山中にかかり給ふが、その夜しも大雪降りて、道に迷うておはせし所に、長尾の六郎往き逢ひて誅し奉らんとす、別當は、早業力業、人にすぐれ給へば、左右なく討たれ給はず、積雪を蹴散らし蹴散らし、ここを先途と闘ひ給ふ、しかれども、多勢に不勢かなはねば、つひに討ちとられ給ひけり、明くれば、廿八日、將軍家の御葬禮を營まんとするところに、御首のありか知れざりければ、いかにせんと惑ふところに、きのふ御ところの御出の時、公氏御鬢に參りければ、鬢の髪を一すぢ拔かせ給ひて、御形見とて賜ひし事こそ、いまはしけれ、その一すぢの御髪を御頭の代りに用ゐて、御棺に入れ奉り、勝長壽院の傍に葬り奉る、この日、御臺所も御出家あり、御戒師は行勇僧都なり、また武蔵守親廣、左衛門大夫時廣、城介景盛以下、數百人の大名ども、ことごとく出家したり、あはれなるかな、きさらぎ二日、加藤判官大波羅に馳せつき、右府將軍御他界のよし申しければ、京中の貴賤男女聞き傳へ、東西を失ひて歎き悲しみける。
 ただ、あきれたるよりほかの事なし、京にもきこしめしおどろく、世のなか、ふつと火を消ちたるさまなり。(増鏡)
青空文庫にもあります。i

1542/0213

Catherine Howard, the fifth wife of Henry VIII of England, is executed for adultery.
Henry VIII 149147、五番目の妃とした Catherine / Katherine Howard 152142(二番目の Anne Boleyn [Queen Elizabeth I 153303 の生母]の從妹)
{これもまた Beheading ―― 原因は王妃となったキャサリンの浮気、不倫の疑惑だったさうだ。彼女は前の王妃、Anne of Cleves の侍女であったが、ヘンリのお手が付いた。キャサリンを「私の棘のない薔薇」と呼び、彼女を王妃とするためにアンを離婚した。が、周圍の者がキャサリンの男性關係を仄めかし、オセロよろしき心理状態になったのであらうか、ヘンリは疑惑を太らせていき、疑惑は曖昧なまゝ、斷頭臺へと送りこんだ。入牢中の彼女は幽霊となって出没するやうになり、一時はヘンリの祈禱室のすぐ近くまで行ったが、衛兵に掴まり、牢に戻されたとか。


1575/0213

Henry III of France is crowned at Reims and marries Louise de Lorraine-Vaudémont on the same day.

{こっちはフランスのヘンリ=アンリの事。フランス王アンリⅢ、ランスのノウトルダム大聖堂で戴冠。同日、ルイズドロレヌヴォデモンと擧式。このアンリⅢは、フランスにきた Mary Stuart (Queen of Scots) 154287 と結婚して早逝したフランソワの弟で、生母はイタリアはフィレンチェの、メディチ家出身の Catherine de Médicis 151989 、當代の女傑といふかフランス史上有數の惡女扱ひ。

1633/0213:ガリレイ、異端裁判へ

Galileo Galilei arrives in Rome for his trial before the Inquisition.
Galileo Galilei 156242、異端審問のために出頭を命じられロウマに到着

翌年、第二回異端審問所の審査で、ロウマ教皇廳から有罪の判決、終身刑を宣告される。直後にトスカナ大公國のロウマ大使館での軟禁に減刑となる。

1668/0213

スペイン、ポルトガルを獨立國として承認。

1692/0213:Massacre of Glencoe

About 78 Macdonalds at Glen Coe, Scotland are killed early in the morning for not promptly pledging allegiance to the new king, William of Orange.
グレンコの虐殺:イングランド政府内の強硬派とスコットランド内の親英勢力によってグレンコ村で起こされた虐殺事件。

1739/0213:Battle of Karnal

The army of Iranian ruler Nader Shah defeats the forces of the Mughal emperor of India, Muhammad Shah.

1820/0213[文政02/1229] 小林一茶176327『おらが春』脱稿


小林一茶176327が五十七歳の一年間の出来事に觸れて作った俳句や俳文を纏め、歿後二十五年となる1825[嘉永05] に白井一之が自家本として『おらが春」と題して刊行した。一茶自身、作品を意識して纏めてゐた物。表題は、本文の第一話に出てくる「めでたさも中くらゐなりおらが春」から一之が取って付けた。・その内容は、俳句と俳文により、前年に生まれたばかりの長女の逝去、繼子としての自分の境遇、淨土眞宗の他力本願の信仰などを書きとめた物。

`国立国会図書館デジタルコレクション - おらが春 
{昨今の私の日本文藝の讀書は專らこのサイトを利用することにしてゐる。私は古書のあの紙魚のにほひといふか、獨特の黴臭さが苦手で、(私自身はさう嫌ひではないのだが)私の鼻腔を刺戟して、苦沙弥を連發させ、讀書どころではなくなってしまふので、このディスプレイ表示の古典はおほいに助かってゐる。擴大縮小も自在だし、老眼鏡要らず、これだけでもデジタルライブラリはありがたい。



1854/0213[嘉永07/0116]

米國東インド艦隊(ペリイ司令長官)、戦艦七隻を率ゐて二度目の來航。

1862/0213[文久02/0115]:坂下門外の變

:安藤正信が水戸藩の浪士に襲撃され負傷。
・1860[安政07]に老中となるが、直後に井伊直弼181560が櫻田門外の變で暗殺されると、信正は事態を収拾すべく、直弼に罷免されてゐた久世廣周を老中に再任、圍碁二人で幕政を取り仕切るやうになった。
・安政の大獄を引き起こした井伊直弼の強硬路線を改め、穏健なる公武合體の推進に勉めた。その具体策の一つが、孝明天皇の妹の和宮親子内親王184677の14家茂185866への降嫁であった。長州藩士の長井雅樂181963の航海遠略策の承認もその一環であった。
・和宮降嫁に怨みを抱いてゐた尊皇攘夷の水戸藩浪士が江戸城坂下門外で正信を襲撃、重傷を負ったが一命は取りとめた。その直後、包帯姿でイギリス公使のRオウルコックと會見した。だが、幕閣の中から「背中に刃傷を受けるのは武士の恥辱」といふ非難がささやかれるやうになって、0411に老中罷免。その後、隱居・謹愼を命じられ、所領も減封となった。

1875/0213

明治政府『平民苗字必稱義務令』布告。平民に苗字を義務付け。

1894/0213:リュミエル兄弟、シネマトグラフの特許を取得


・パリで、兄弟の父のアントワヌは Thomas Edison 184731 が開發した『キネトスコウプ』を見て、息子二人に動画の研究を命じた。キネトスコウプを改良してスクリンに投影することで、一度に多勢が見られる『シネマトグラフ・リュミエル』を開發し、特許を取得した。
・翌年の1228、パリのグランカフェの地階で、撮影した映像を有料公開した(これが世界最初の映畫館ともされる)。リュミエル協會を立ち上げた二人は世界中にカメラマンを派遣、世界各地を撮影。かうした活動がエディソンを刺戟した。

1914/0213:Copyright

: In New York City the American Society of Composers, Authors and Publishers is established to protect the copyrighted musical compositions of its members.

1945/0213

World War II: The siege of Budapest concludes with the unconditional surrender of German and Hungarian forces to the Red Army.
ドイツソ連のブタペスト包囲戰が終結。ソ連赤軍がブタペストを占領。

1945/0213:World War II:ドレスデン無差別空爆

: Royal Air Force bombers are dispatched to Dresden, Germany to attack the city with a massive aerial bombardment.
イギリス空軍&アメリカ空軍、ドレスデンを無差別空襲、ドレスデンの85%が破壞され、二万人以上、十五万とも云はれる犠牲者が出る。

1946[昭和21]/0213:日本、憲法改正、マッカサ草案

連合國軍最高司令官司令部=GHQ、改正憲法草案=マッカサ草案を日本政府に手交。

・/0213/03、Douglas MacArthur 188064 は日本政府に憲法改正作業を任せてゐては、彼をGHQ司令官に任じた極東委員會の國際世論から天皇制の廃止を要求される懸念ありとして、早急に憲法草案を作るべきと判斷。この時、憲法改正にかんして遵守すべき三原則を、憲法草案起草の責任者に任じた民政局の局長の Courtney Whitney 189769 に命じた。
・三原則とは、①天皇は国家元首の地位である。皇位は世襲される。天皇の職務と權能は憲法に基づく。②國憲の發動たる戰爭は廢止する。日本は、紛争解決のための手段としての戰爭、さらには自己の安全を保持するための手段としての戰爭も放棄する。將來において、交戦権が日本軍に與へられることはない③封建制度の廃止。貴族の廢止。
・M草案は、0213/12に完成し、翌日、ホイットニ自身が麻布の外務大臣官邸に出向き、吉田茂187867と憲法擔當國務大臣の松本烝治に手交した。その時、「この案を受け入れなければ天皇は軍事裁判にかかることになる」とか「我々は原子力の日光浴をしてゐる」とか恫喝的言動をおこなった。同時に、Wは松本が提出してゐた憲法改正要綱=松本甲案は「自由と民主主義の文書として、最高司令官が受け入れることは全く不可能」と斷じた。
・日本政府は、GHQ草案にそって憲法改正方針を決定、日本案を作成した。

1950[昭和25]/0213

Red Purge:東京都教育庁が共産主義の教員、246人に退職を勸告。

1951[昭和26]/0213

地方公務員法、施行。

1960/0213:フランスが初の原爆實驗、

四番目の核保有國となる。
With the success of a nuclear test codenamed "Gerboise Bleue", France becomes the fourth country to possess nuclear weapons.

1983/0213

Golf:青木功が Hawaian Open で日本人初の America PGA Tour 優勝

{この時の最終日、十八番ホウル、ピンまで128yardsをチップインさせてイーグル、それで大逆轉劇となって日本人初のアメリカゴルフの優勝者となった、のだった。今でもその映像は、脳裏に殘ってゐる。
{その前の、1980年の全米OpenGolf での、Jニクラウスとの最終日にまで縺れこんだ死鬪のはうがもっと記憶に殘ってゐるが。

1989[平成02]/0213:リクルウト事件

:東京地検特捜部、リクルウト前會長の江副浩正ら四人を逮捕。

1990/0213

German reunification: An agreement is reached on a two-stage plan to reunite Germany.

1991/0213

Gulf War: Two laser-guided "smart bombs" destroy the Amiriyah shelter in Baghdad. Allied forces said the bunker was being used as a military communications outpost, but over 400 Iraqi civilians inside were killed.

1995/0213

Aワイルズの『フェルマの最終定理』の證明に誤りないことが檢證され、360年來の歴史に決着がつく。



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