児童虐待について:イヴァン・カラマゾフvsフョウドル・ドストエフスキイ:作品と作家について

児童虐待について:イヴァン・カラマゾフvsフョウドル・ドストエフスキイ:作品と作家について

> 絶望にも燒けつくやうな強烈な快感があるものだ。殊に、もはやどこにも行き場のなくなった自分を意識する時などには。
> 謙虚な愛には暴虐などよりずっと恐ろしい力がある。

などと、サド∞マゾ的な嗜虐と被虐の入り交じった近代人の複雜怪奇な心情の最初の解剖者となったドストエフスキイ、 ―― 作家とその作品、その乖離といふか落差とでも云った思ひをさせられたのは、小林秀雄190283の『ドストエフスキイの生活』によってであった。この『ドストエフスキイの生活』をガイドブックにするやうにして、私はドストエフスキイを讀破していった。どうしてこんな破廉恥漢がこんな高度な文學作品を作りだせるのだらうとフシギに思った。そして、作家と作品の乖離なり落差は彼の最後の作品となった『カラマゾフの兄弟』で、私にとって最大となった。




 『カラマゾフの兄弟』の次男、懷疑派のイヴァンは純情な信仰者である弟のアリーシャを惱ませるやうに「児童虐待」の例など持ち出しながら、人間について、また神についての懷疑不信を熱弁する。

「人間の多くは一種の特別な資質を備えているものなんだ。それは幼児虐待の嗜好だよ。子供のか弱さが迫害者の心を駆り立てるのさ。逃げ場もなく頼るべき人もいない子供の天使のような信じやすい心、これが迫害者のいまわしい血を燃え上がらせるんだ。もちろん、どんな人間の中にもケダモノが潜んでいる。怒りやすいケダモノ、痛めつけられるイケニエの悲鳴に性的快感を催すけだもの、放蕩の末に痛風だの肝臓病などという病気を背負い込んだケダモノ、などがね」
「小さな女の子を両親が虐待した話がある。五歳の女の子を教養豊かな両親はありとあらゆる手段で痛めつけたんだ。理由なぞ自分でも分からないまま、殴る、鞭を打つ、足蹴にするといった始末で女の子の全身をアザだらけにしたものだ。その上、この上なく念のいった方法に行きついた。真冬の寒い日に、女の子を一晩中便所に閉じ込めたんだよ。それも女の子がウンコを知らせなかったという理由でね。その罰に顔中にもらしたウンコをなすりつけたり、ウンコを食べさせたりするんだ。実の母親がそんなことをするんだ。しかも、この母親は子供の呻きき声が聞こえてくるというのに、ぬくぬくと寝ていられるんだからな。自分がどんな目に合わされているか理解もできない子供が、真っ暗な寒い便所の中で悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽけな拳で叩き、涙を流しながら神様に「守ってください」と泣いて頼んでいるというのにな。お前にはこんなばかな話が理解できるかい?」
「俺は、やがて鹿とライオンが寄り添って寝そべるようになる日や、切り殺された者が自分を殺したヤツと抱擁するところをこの目で見てみたいんだよ。なんのためにすべてがこんなふうになってきたかを悟るとき、俺はその場にいあわせたい。地上のあらゆる宗教はこうした願望の上に創造されているんだし、俺もそれを信じている。しかし、それにしても虐げられた子供はどうなるんだ。その時になって俺たちはどうしてやればいいんだ。たとえ、苦しみによって永遠の調和を買うために、すべての人が苦しまなければならぬとしても、その場合、それが子供に一体何の関係があるんだ」
「憎しみあう人たちが、主よ、あなたは正しいと叫びあい抱擁しあうことが本当に起こるかもしれない。しかし、俺はそれを全面的に拒否する。なぜなら、そんな調和は、臭い便所で涙を流しながら神様に祈った子供の涙にさえ値しないからだ。あの子の涙が償われずじまいだからさ。その子供を虐待した人々を赦すことはできない。この世界中に赦す権利を持っているような存在がはたしているんだろうか」
「人を幸福にし、最後には人々に平和と安らぎを与える目的で、人類の運命という建物を作ると仮定してごらん。ただそのためにはどうしても必然的に、せいぜいたった一人かそこらのちっぽけな存在を、例えば例の小さな拳で胸を叩いて泣いた子供を苦しめなくてはならない、そして、その子の償われぬ涙のうえに建物の土台を据えねばならないとしたら、おまえはそういう条件で建築家になることを承諾するだろうか。答えてくれ。嘘をつかずに」
「いいえ、承諾しないでしょうね」アリョーシャが低い声で言った。
「それじゃ、お前に建物を作ってもらう人たちが、幼い受難者のいわれなき血のうえに築かれた自分たちの幸福を受け入れた後、永久に幸福であり続けるなんて考えをおまえは認めることはできるだろうか」
「いいえ、認めることはできません、兄さん」アリョーシャは言った。「兄さんは今、赦す権利をもっているような存在があるのだろうかといったでしょう。でもそういう存在はあるんですよ。その人(キリスト)ならすべてを赦すことはできます。その人自身、あらゆるもののために罪なき自己の血を捧げたんですからね」
 
 かうしたイヴァン・カラマゾフの熱弁を讀みながら、もう一方では、以下のやうな小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』にある引用文を私は讀んでゐた。

 この潔癖な哲學者[ストラアホフ]は、ドストエフスキイの性格の「奇妙な分裂」にはよほど手を燒いたらしい。彼はトルストイに宛てた手紙で次のやうに書いてゐる。
「拙著『ドストエフスキイ傳』お受け取りくださったと思ひます。お暇の折、御一讀、御意見をお漏らしくだされば幸甚に存じますが、これについて一言、私から申しあげておきたい事があります。私はこの傳記を執筆しながら、胸中に湧きあがる嫌悪の情と戰ひました。どうかしてこの嫌な感情に打ち勝ちたいと努めました。(略)ドストエフスキイは、意地の惡い、嫉妬深い、癖の惡い男でした。苛立たしい昂奮のうちに一生を過ごしてしまったと思へば、滑稽でもあり哀れでもあるが、あの意地の惡さと利口さとを思へば、その氣にもなりません。(略)スイスにゐた時、私は、彼が、下男を虐待する樣を目の當たりに見ましたが、下男は堪へかねて「私だって人間だ」と大聲を出しました。(略)これと似たやうな場面は絶えず繰り返されました。それといふのも、彼には自分の意地の惡さを抑へつける力がなかったからです。彼は、まるで女のやうに、突然見當外れな事をしまりなく喋りだす。さういふ時には、私は大抵默ってゐましたが、ひどく面罵してやった事も二度ほどあります。さういふ次第ですから、何の惡意もない相手を怒らせてしまふやうな事も無論幾度もありました。一番やりきれないのは、彼がさういふ事をみづから愉しんでゐたし、人を嘲っても決して終ひまで云ひ切らなかった事です。彼は好んで下劣な行爲をしては、人に自慢しました。或日、ヴィスコヴァトフが來て話した事ですが、或女の家庭教師の手引きで、或少女に浴室で暴行を加へた話を彼は自慢さうに語ったさうです。動物のやうな肉欲を持ちながら、女の美にかんして彼が何の趣味も感情も持ってゐなかった事に御注意願ひたい。彼の小説を讀めば解る事です。作中人物で、彼に一番近い人物は『地下室の手記』の主人公、『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、『惡靈』のスタブロウギンです。(略)かういふ考へから逃れられもせず妥協もできないのが私は辛いのです。私は腹でも立ててゐるのでせうか、嫉妬を感じてでもゐるか、何か含むところがあるとでも云ふのか、けっしてそんな事はありません。この重苦しい思ひ出を考へ、それがひょっとしたら美しい思ひ出であり得たかも知れぬとも思ひ、私はたゞ泣きだしたい氣持でゐるのです。 私は貴方の言葉を思ひ出します。私達を知りすぎてゐる人達は、私達を愛する事ができぬものだ、と。しかし、さうとばかりは限りません。長い間付き合ってゐるうちには、一切を許してしまへるやうな人柄を相手に見付けだす事もできるのです。心からの善意の動きとか、悔悟の一瞬とかいふものは、すべてを水に流すものです。フェオドロ・ミハイロヴィッチ[ドストエフスキイ]に就いて、さういふ思ひ出でもあったら、私は彼を許したでせうし、彼にたいして私は愉快な男にもなれたでせう。頭で作りあげた愛、文學のうへの愛しか持たぬ人間を偉人だと人に信じさせる事は一體なんといふ嫌な事でせうか」(一八八三年十二月)

ドストエフスキイの生涯を通じての浪費癖と賭博癖、そのために始終金を無心してゐる彼の破廉恥ぶりをこの傳記のなかで散々讀んできたから、この傳記作者のドストエフスキイにたいする見方が一方的で辛辣なものとは思へなかった。
近代人といふ複雜怪奇な精神を、その作品とともにその作者によって乘算されたかのやうな濃密さで、これが私の「ドストエフスキイ體驗」となったのであった。

最近、「児童ポルノ禁止法案」と「表現の自由」との關係が議論となってゐるやうなので、それを論じてみようといふつもりで始めたのだが、ドストエフスキイをマクラにしてゐるうちに、これは一筋繩ではいかないかなと思はれてきて、一旦、ホコを収めることにした。


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