「江戸時代の傳承文藝」について、折口信夫『傳承文藝論』より集語


{「かたる&うたふ」で紹介した折口信夫188753の『傳承文藝論』の最終章「江戸時代の傳承文藝」によって、江戸文學の底流(それはもっと古い時代、太古の時代まで通じてゐる。そして、この現代にも通じてゐる)をなしてゐた「聲」の文藝、「淨璢璃」「説經」「祭文」「念佛」についての基本的な解説を紹介しよう。

明治維新の文明開化の時、落語の三遊亭園朝183900の速記本が二葉亭四迷186409に影響し、「言文一致」の『浮雲』といふ小説を書かせ、日本の文學刷新の契機となったのは有名な事實である。
その後の日本文學、その主流は内容や形式よりもその語り口のはうを重視する「聲」、しかも生々しくも「肉聲」を競ふ文藝となっていった。それぞれが個性を際立たせた「文章=聲」であり、本質的に告白的な私小説でありつづけた。



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『傳承文藝論』 1935昭和十年七月


七 江戸時代の傳承文藝

つまり、江戸時代の文學といふけれども、江戸の傳承文藝として「淨璢璃」「説經」「祭文」「念佛」、この四つが非常に大事なものです。 
そのなかの「念佛」といふのは、種類がいろいろありますけれども「比丘尼歌念佛」と申しまして、この歌念佛の文句をば小説にし、あるいは淨璢璃に飜譯したものがかなりあります。これは、立派に口承文藝・傳承文藝のの、ほんたうに文學に入っていったものです。たとへば、『お夏清十郎』の物語といふものを西鶴も作ってゐますし、近松も作ってゐます。その後も屡々蒸し返され、今でも蒸し返されてゐますが、これは熊野の觀世音比丘尼が物語った物語にちがひないのです。眞實の事實だといふので、五十年忌の歌念佛といふやうなものを書いてゐますが、清十郎が獄門に掛かったのは何時だといふやうなことを云って歩いて、清十郎歌念佛といふやうな清十郎を記念する意味の題目を唱へたのだと思ひます。 
さういふふうに、昔の形が繰り返して出てくる。この形といふものは、日本の國ができていったか、まだできてゐなかったか分からない時代 ―― できてゐるといふのはをかしいのですが、國の基礎がほんたうに定まってゐたか定まってゐなかったか分からぬ前からの形なのです。そして、その形を何時でも繰り返してゐるのです。
今でも「祭文」といふものがありますが、おそらくあの祭文といふものが、今の「浪花節」の基礎になってゐるでせう。祭文といふ語自身に變な聯想がくっついてゐまして、祭文のことを「日本左衞門」と云ひます。日本左衞門といふのは、沼津の利兵衛といふ大泥棒といふことになってゐます。当時の祭文語りといふ者はあちらこちらを流浪するから、それで日本左衞門と稱する祭文節があるのだといふやうな、何だか解らぬやうな説があるくらゐです。とにかく、祭文といふのは山伏が方々を歩く時に唱へたので(山伏といふのは修驗道のごく末輩の者たちが錫杖を鳴らしながら人の家の門に立って物乞ひをする)、それが不眞面目な者ならば、人の家の息子や娘のことなどを唱へるわけです。かうしたところから『新版歌祭文』といふやうな淨瑠璃もでき、それからさらに『お染久松』といふやうな小説にもなってきたわけです。
 
それから「説經」といふものは非常に古いものです。説經の本を質すと、平安朝の末までは遡れると思ひます。まだ確かに考へてゐませんが、ほゞ説經といふのはお經の意味を敷衍して、それに適切な物語を嵌めていく、つまり、過去現在未來にわたって、適切な実例をばお經の文句のなかに入れていくわけです。つまり、修身の講話のやうなお經の文句を説く時に、例話を當て嵌めていくことが「説經」なのです。だから、平安朝あたりの説教師といふものは、非常に辯舌を練ったものらしいのです。ところが、それが次第次第に藝能化していったわけです。
それから「淨瑠璃」といふものは「説經」の女の語り物を云ったのです。つまり説經で女の語るものが淨璢璃だったらしいのでして、つまり、女語りがおもしろいから説經よりも淨璢璃が段々盛んになってきたのです。たゞ、室町をまう少し下って、織田豊臣といふ時代になって、その時代に出てきた『淨璢璃十二段草紙』といふもの、これは牛若丸の愛人、淨璢璃姫のことを作った物語ですが、これは『義經記』の裏を云ったやうなものです。この淨璢璃姫のことを書いたものが非常に盛んであったので、それから淨璢璃が始まったと申しますけれども、私はさうは思ひません。もっと昔から淨璢璃といふものがあって、女が藥師如來の功徳を説いたもので、さういふ物語が「淨璢璃」で、それが段々進んできた時に、牛若丸のことを綴って、その愛人をば淨璢璃姫としたのだと考へます。で、淨璢璃姫は三河の鳳來寺の峯の藥師樣の申し子だといふふうに傳へられてゐますが、それが段々進んできて、結局姫の名前を淨璢璃姫と命名するやうになり、それの物語が非常に盛んにおこなはれたので、淨璢璃といふ名前が固定してしまったのだ、とかう私は思ひます。それで、この説經と淨璢璃とが、竝びながら江戸へ入ってきた。だから、民間の語り物の柱はどうしても説經と淨璢璃、それのまう一段低いのが祭文と念佛、といふやうな種類のものになるのです。そして、それらのものが昔の物語を傳へてゐるわけです。
ところが、我々はかういふふうにも考へます。すなはち、それらのものの傳へてゐるのは、ごく近代のものだらうと思ふけれども、存外昔に種があって、それが時代時代に順應するやうに、主人公の名前を變へ、事件をば潤色したりして、變化してきて元の形を失ってしまってきてゐるのだ、とかうも言はれると思ひます。だから、結局、江戸時代の四つの語り物を掴まへて考へましても、その根本に遡りますと、話の種類が非常に簡単になるのではないか、と思ひます。 
この度の話は大變纏まりのない話でしたが、たゞあるいはかういふふうな考へ方をなされなかった方もたくさんあるかと思ひまして、必要な方面、および多少でも興味と暗示とをあたへもうすことができればよいと考へて、纏まらないのを覺悟のうへで申しあげました。傳承文藝としては、この他にもまだいろいろなものがあります。けれども、この度の催しにたいしての傳承文藝といふものは先づそれくらゐで話はつきるかと思ひます。