「かたる&うたふ」について折口信夫『傳承文藝論』より集語


{先に、柳田國男187562によって「かたる&はなす」を主に現代(執筆当時、1932昭和十二年)的観点から觀察してもらったが、ほゞ同時代の昭和十年に、(柳田國男の弟子筋にあたるが學風は異質な)折口信夫188753が「かたる&うたふ」について、こちらは太古からの歴史的觀点から解説してゐるので、日本語についての勉強といふつもりで、これを紹介しよう。



{先囘りに、註のやうに、「淨璢璃」や「説經節」について説明しておきます。

淨璢璃とは、三味線を伴奏楽器に太夫が詞章を語る音曲のことで、その系統に、義太夫・常磐津・清元など八流派がある。
起源。中世末期頃の御伽草子の一種『淨璢璃十二段草子』(淨璢璃御前と牛若丸の情話に藥師如來などの靈驗譚をまじへたもの)が發端、とするのが通説。その内容と形式は江戸時代の享禄年間(1528-32)にはほゞ完成したらしい。最初は、平曲・謡曲・説經節などの節付けに學び、扇拍子で伴奏したやうだが、永禄年間(1588-96)に琉球から三線が渡來、これが三味線となって、伴奏樂器に採用してから大流行となった。三味線を用ゐだしたのは上方の盲人であったが、文禄年間(1593-96)に傀儡子の伴奏として用ゐられるやうになり、さらにこれが淨璢璃節と合體して、現在にいたる淨璢璃音曲が完成していった。
1684貞享元年頃、竹本義太夫が大阪道頓堀に竹本座を興して、淨璢璃に新時代が始まる。臺本作者に近松門左衛門165325を得て、戯曲の文學性と詞章の洗練があり、義太夫節と人形淨璢璃は藝術となっていった。その義太夫節の特徴は「うたふ」要素を極端に少なくし「かたり」の重厚なる叙事性を追求した。 一方、竹本義太夫と同門の都太夫一中は京都で一中節を創始し、その弟子の宮古路豐後掾がさらに豐後節として江戸にもたらした。これは義太夫節とは對照的に、一中節の上品さを活かした柔軟で艷っぽい語り口で、江戸歌舞伎の伴奏としても用ゐられたために大流行した。特に、心中物で盛んに用ゐられたために幕府により風俗紊乱を理由に禁止となり、豐後掾は江戸所拂ひとなった(但、豐後節禁止は加東節など江戸浄瑠璃側の画策が成功したためとする説もある)。 この宮古路豐後掾に師事した常磐津文字大夫富士松薩摩掾がそれぞれ常磐津節富士松節を創始して、常磐津節は江戸歌舞伎の伴奏に用ゐられ、一方、富士松節からは鶴賀若狹掾鶴賀新内といふ名人が輩出、豐後節の傳統は江戸に根付いた。新内節は江戸時代後期には「門付(時代劇などによく出てくる)」の音曲として流行した。
また、豐後節系統は別に、江戸中期になって新たな局面を迎へる。常磐津文字大夫の門弟、富本豐前掾富本節を始め、また二代目富本豐前大夫の門下の清元延壽太夫による清元節が創始された。これらは常磐津節の艶麗な藝風をさらに「うたひ」へと洗練させた流儀で、歌舞伎のみならず、座敷音曲や町民の藝事にも用ゐられた。
{「かたり」の義太夫節系統と「うたひ」の豐後節系統、これらが町民の俗曲であり、もう一方には平曲や能樂などの武家の音曲がある。まことに多種多樣、日本は「聲」が主體の文藝の國であった。

説經節佛教の經文や教義を説いて衆生を導く「唱導」から、鎌倉時代から室町時代にかけて生成していった音曲。これが「淨璢璃」化して「説經淨璢璃」とも呼ばれたが、現在では「説經節」と呼ぶのが一般的である。江戸の寛永から寛文頃までが最盛期で、僧形の藝人が門付や街頭でササラや鉦、鞨鼓を伴奏に興行した。後には三味線を取り入れ、小屋掛けで操り人形とともに演藝するやうにもなった。また、祭文と組み合はせて「説經祭文」もできたが、題材が佛教的なものに限定されてしまふためか、次第に義太夫節に圧倒されていった。『かるかや』『しんとく丸』『をくり判官』『さんせう太夫』『ぼん天國』を「五説經」と呼ぶ。
{森鴎外186222は、この説經節の『さんせう太夫』を脚色して『山椒大夫』を小説に作った。その際、説經節の「聞かせどころ」となる拷問折檻などの部分はほとんど省略した。
{また、折口信夫188753も説經節に興味と關心を抱き、『しんとく丸』と『をくり判官』を取りあげ、それぞれそれを元に創作をおこなってゐる。






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『傳承文藝論』 1935昭和十年七月



  三 かたるといふ語

「かたる」といふ語ですが、これは日本の藝能・演藝の歴史で一番大事なことで、歴史的のテクニツクはいまだに多く使ってゐますが、そのなかで一番大事なことは「うたふ」と「かたる」とふことで、その他にいま一つ「となふ」といふことがあります。「となふ」といふことは「したがへる」といふことです。御承知のとほり、殉死の殉といふ字は「しがたふ」といふことです。普通、人の歩く時に踉いてくる時は「徇」といふ字を書いて、これを古い訓では「となふ」と讀んでゐます。だから、素讀の時には、何々を唱へるといふことは「となへごと」によって人を「したがへる」、あるいは、精靈を「したがへる」といふことです。
ところが、「かたりもの」すなはち物語が敍事詩になってまゐりますと、今度はこれは「となふ」とは言はないで「かたる」と言ひます。今でも義太夫を「かたる」といふのはそれです。
常磐津・清元などは「かたる」か「うたふ」か、内容は淨璢璃だけれども、うたふ方から言へば「うたふ」らしくも思はれます。が、清元などは「かたる」といふのがよいやうです。
ところが、長唄を「うたふ」、小唄を「うたふ」、歌澤を「うたふ」などと言ひます如く「うたふ」といふはうは節囘しが早いでせう。つまり、難しく言へば、抒情的なものを唄ふ場合には「うたふ」と言ひ、敍事的なものを唄ふ時には「かたる」とかう言ってゐます。しかしながら、これは昔からある區別で、大昔何時頃起こったとも言へないほど古い昔からある區別です。
「うたふ」といふことは「うつたへる」といふことと同じです。どうぞ私の言ふことをお聽きくださいましと云ってクドクドと自分の心持ちを哀訴する。すなはち、今の語では「うつたへる」と言ひます。裁判所に訴へるといふのも、その意味の變ってきたものです。
それとまう一つ、敍事詩を唱へる、つまり「かたる」といふこともほゞ意味は解ります。「となへごと」の持ってゐる内容に相手を同感させる、といふことです。時代がずっと遡りますが、平安朝の末、鎌倉の初めあたりにはさういふ使ひ方がはっきり出てまゐります。親鸞上人の遺文をみますと、自分が法然に「かたらはれまつつた」といふやうに書いてあります。つまり、法然上人に「だまされて」私は淨土信仰に入ったのだけれども、これがかへって幸福だ、世間からは騙されたと思ってゐるかも知れぬが幸福だと思ふ、とかういふことです。だから、宗教熱の盛んな時は、さういふことの感激を持たない人が見ると騙されたと云ひますが、そこへ入ってゐる人は騙されたとは思ってゐない譯です。
「かたらふ」といふことは「だます」といふことにも使ってゐるが、後になると人を騙して物を取りあげることまで「騙り」と言ひます。無頼漢が「かたり」をするなど、とかういふふうに段々變化していくのです。だから、「かたる」といふことは「話をする」といふことが元の意味ではなくて「相手の魂をこちらにかぶれさせる、感染させる」といふことなのです。それが次第に分化してきたのです。
「うたふ」「かたる」は、ひとつは「うったへる」、ひとつは「相手をば詞で征服する」といふことですから、相對的になってゐるのです。かやうにして日本の文學といふものは段々文學にならなければならないやうに進んでまゐりました。しかし、それは文字の形を取らないで進んできたのです。
歴史のうへから見ますと、日本にも早くから文字が入ってゐます。が、それは中央のことで、また、支那大陸や朝鮮半島に近い地方にはもっと早くから支那の學問が入ってゐたに違ひないでせうが、文字が入ったところで、それでぢかに今まで口に傳へられてゐたもの、語られてゐたもの、唱へられてゐたものを書き寫すといふことはしないのです。
なぜかいふと、書き寫すといふと誰でも見ることができます。つまり、書かれるといふことは神秘性を失ふといふことなのです。だから、書かないでそのまゝ口傳へしてゐたわけです。この方法がずっと續いて、神秘だとは思はなくなった後世にまでもずっと續いてゐたのです。書いたのではな駄目だ、口で傳へなければ駄目だ、かう思って近代まで傳へてゐるわけです。けれども、口ばかりでは頼りないから、こっそり書いて置くといふやうな考へで、一方何でも彼でもこっそり書いてゐたのです。一番最初にそれを露骨に書き寫したのが淨璢璃でせう。
義太夫淨璢璃の奥付を見ると、大抵誰々冩本と書いてあるのは、つまり、誰々が唱った本の、これが疑ひのない臺本だとふことをしめしてゐるのです。さうして、そこに誓ひのやうな詞があって、「祕事はまつ毛」などいふことが書いてあります。人間の神秘の隠し事などといふものは睫毛と同じことだ、目の前にあることだけれども訣らない、それを明かして説ききかせるといふやうな、この態度を露骨に見せてゐます。
謠ひなどは別ですが、淨璢璃などといふものは、当然口で語らなければならなかったのです。
江戸時代は、淨璢璃・説經・祭文・念佛、すはなち語られ歌はれてゐたそれがみな正本を持たないのが本道だったが、それがぼつぼつ臺本を持ってきた。勿論、義太夫淨璢璃よりまへにいろいろの正本はあるけれども、それは内密にやってゐたやうです。
宗教的な色合ひがまだ感ぜられてゐる文學は、書かれないで語られることがだいたい原則だと思ってゐた、さういふ精神がずっと後まで續いてゐます。まして、いくら文字が入ったところで、それは問題ではなかったのだが、段々世の中が變ってきて「となへごと」その他にたいする信仰が變化してくると、今度は書いても差し支へがなくなってきたのです。そして、できるだけ書くけれども、できるだけ古い語を失はないやうにといふ試みをいたします。
『古事記』あるいは『日本紀』などに古い語の入ってゐるのは、この理由です。ことに『古事記』には、古い語・古い文章などがそのまゝそっくり入ってゐて、讀み違ひをしないやうに、間違って發音しないやうにアクセントの印の付いてゐる部分もあるくらゐです。間違って發音したり、間違った讀み方をすると神の罰を受けるとかう信じてゐたのです。