鷗外『阿部一族』と漱石『こころ』、「殉死」といふ主題

日本の名文{森鴎外186222『阿部一族』1913 と 夏目漱石186716『こころ』1914


明治天皇185212の崩御は1912明治四十五年七月三十日であった。寶算六十一歳(滿五十九歳)。同年(改元されて大正元年)九月十三日、東京青山の帝國陸軍練兵場(神宮外苑)で「大葬之禮」が執行され、靈柩は列車によって東海道本線を經由して京都の伏見桃山陵に運ばれ、九月十四日、埋葬された。
大葬之禮の當日、午後八時頃、乃木希典は自邸居室において妻靜子とともに、明治天皇の御眞影にむかひ正座し、日本軍刀によって割腹、妻の自害を見屆けた後、劍先で首を刺して絶命、殉死した。 辭世は、希典が二首

神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる
うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我はゆくなり
 靜子一首

出でましてかへります日のなしときくけふの御幸にあふぞかなしき


殉死当日の乃木夫妻
明治天皇の崩御と乃木夫妻の殉死は当時の日本人に大きな感動と反動とを呼んだ。文學界では、新世代にぞくする志賀直哉188371芥川龍之介189227たちは冷淡な反應をしめしたが、明治の子であった森鴎外186222夏目漱石186716は維新といふ偉大な時代の終焉を眞摯に受けとめて、それぞれ「殉死」を主題にして、彼等のそれぞれの代表作と呼んでもよい作品を作った。

{この二つの小説、鷗外の『阿部一族』と漱石の『こころ』をとりあげて『對のあそび』にしようと讀み始めたが、思はず讀み耽って時を忘れてしまった。ためにブログを作る時間はなくなり、ために「殉死」にかんした部分を引用して、御茶を濁すことにする。






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森鴎外186222『阿部一族』1913

 殉死にはいつどうして極まつたともなく、自然に掟が出來てゐる。どれ程殿樣を大切に思へばと云つて、誰でも勝手に殉死が出來るものでは無い。泰平の世の江戸參勤のお供、いざ戰爭と云ふ時の陣中へのお供と同じ事で、死天の山三途の川のお供をするにも是非殿樣のお許を得なくてはならない。その許もないのに死んでは、それは犬死にである。武士は名聞が大切だから、犬死はしない。敵陣に飛び込んで討死をするのは立派ではあるが、軍令に背いて拔駈をして死んでは功にはならない。それが犬死であると同じ事で、お許の無いに殉死しては、これも犬死である。偶にさう云ふ人で犬死にならないのは、値遇を得た君臣の間に默契があつて、お許はなくてもお許があつたのと變らぬのである。佛涅槃の後に起つた大乘の教は、佛のお許はなかつたが、過現未を通じて知らぬ事の無い佛は、さう云ふ教が出て來るものだと知つて懸許して置いたものだとしてある。お許が無いのに殉死の出來るのは、金口で説かれると同じやうに、大乘の教を説くやうなものであらう。
 そんならどうしてお許を得るかと云ふと、此度殉死した人々の中の内藤長十郎元續が願つた手段などが好い例である。長十郎は平生忠利の机廻りの用を勤めて、格別の御懇意を蒙つたもので、病牀を離れずに介抱をしてゐた。最早本復は覺束ないと、忠利が悟つた時、長十郎に「末期が近うなつたら、あの不二と書いてある大文字の懸物を枕許に懸けてくれ」と言ひ附けて置いた。三月十七日に容態が次第に重くなつて、忠利が「あの懸物を懸けえ」と云つた。長十郎はそれを懸けた。忠利はそれを一目見て、暫く瞑目してゐた。それから忠利が「足がだるい」と云つた。長十郎は掻卷の裾を徐かにまくつて、忠利の足をさすりながら、忠利の顏をぢつと見ると、忠利もぢつと見返した。
「長十郎お願がござりまする。」
「なんぢや。」
「御病氣はいかにも御重體のやうにはお見受申しまするが、神佛の加護良藥の功驗で、一日も早う御全快遊ばすやうにと、祈願いたしてをりまする。それでも萬一と申すことがござりまする。若しもの事がござりましたら、どうぞ長十郎奴にお供を仰せ附けられますやうに。」
 かう云ひながら長十郎は忠利の足をそつと持ち上げて、自分の額に押し當てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでゐた。
「それはいかんぞよ。」かう云つて忠利は今まで長十郎と顏を見合せてゐたのに、半分寢返りをするやうに脇を向いた。
「どうぞさう仰やらずに。」長十郎は又忠利の足を戴いた。
「いかんいかん。」顏を背向けた儘で云つた。
列座の者の中から、「弱輩の身を以て推參ぢや、控へたら好からう」と云つたものがある。長十郎は當年十七歳である。
「どうぞ。」咽に支へたやうな聲で云つて、長十郎は三度目に戴いた足をいつまでも額に當てて放さずにゐた。
「情の剛い奴ぢやな。」聲はおこつて叱るやうであつたが、忠利は此詞と倶に二度頷いた。
 長十郎は「はつ」と云つて、兩手で忠利の足を抱へた儘、床の背後に俯伏して、暫く動かずにゐた。その時長十郎が心の中には、非常な難所を通つて往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたやうな、力の弛みと心の落着きとが滿ち溢れて、その外の事は何も意識に上らず、備後疊の上に涙の飜れるのも知らなかつた。

夏目漱石186716『こころ』1914


 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな氣がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可からうと調戲ひました。
 「私は殉死といふ言葉を殆んど忘れてゐました。平生使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答へました。私の答も無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持がしたのです。
 それから約一ケ月程經ちました。御大葬の夜私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻に殉死だ殉死だと云ひました。
 私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪られて以來、申し譯のために死なう死なうと思つて、つい今日迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月を勘定して見ました。西南戰爭は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死なう死なうと思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだらうと考へました。
 それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の敍述で己れを盡した積です。