「ランボからリンボ」へ、わが錯亂の記録

どうしてもコトバ遊びをやらかしてしまふ。
昨日、ラムボウの『錯亂』の事を取りあげたら、その後、Rimbaud と Limbo とが「ランボ」と「リンボ」となって、絡みあふコトバの「對のあそび」となり、さう云へば「リンボダンス」といふのがあったなとコトバ浮かび、すると、リンボはマンボを想起させ(リンボダンスの伴奏はカリプソださうですが)、マンボはダンボ、ダンボはタンボ、とフィニフィアンのたはむれが踊りだし、田圃で子象のダンボがマンボのテンポでリンボの亂歩をしてゐる光景が、ランボのリンボと重なって、脳裏に狂亂して始末に負へなくなっていく。

Je finis par trouver sacré le désordre de mon esprit. J’étais oisif, en proie à une lourde fièvre : j’enviais la félicité des bêtes, — les chenilles, qui représentent l’innocence des limbes, les taupes, le sommeil de la virginité ! Mon caractère s’aigrissait. Je disais adieu au monde dans d’espèces de romances :
俺は聖なるものの發見によってわが精神の混亂を終らせた。高熱に冒されて、俺は白痴となった:俺は動物の至福を羨んだ ―― リンボに無垢を描く毛虫、純潔に睡る土龍! 俺の性格は辛辣となった。俺は大袈裟な作り話のなかにあって人の世と訣別した。
Rimbaud が云ふとほり「私は聖なるものの發見によって精神の混亂を終らせなければなるまい」と決意し、對決的に Limbo と向き合った。


Limbo とは、日本語では「邊獄」と譯してゐるらしい。ラテン語 Limbus は「端、周邊」を意味し、中世ロウマンカトリックの神學で(公式教義ではないが)、原罪を犯したが地獄に行くほどではない者が行く所のことらしい。
Dante Alighieri 126521の『神曲』の「煉獄」のやうなものか、といつもの早合点をしたが、どうも違ふやうな氣がして、調べてみると微妙に違ってゐた。
煉獄は Purgatorium、神の恩寵と親交とを保ちながらも完全に淨化しないまゝ死んだ人が天國に入るために必要な聖性を得るための淨化の苦しみを受ける所らしい。聖書には一切言及がなく、正教會では認めない。この煉獄思想がロウマ教會に、悪名高き「免罪符」を着想させたのださうだ。つまり、地獄には一切救濟はないが、煉獄(リンボもそこに含まれる)には救濟の約束がありながらの贖罪の日々、その宙ぶらりんの状態が「免罪符」といふアイデアのタネとなったといふわけだ。宗教關係でよくある話。神學の教義などと稱してみたところで、坊主と云へども人の子、どうしてもこんなオチになってしまふ、やうだ。
さて、中世のキリスト教會の死者の「世界圖」は天國と地獄、地獄は「地獄|煉獄|父祖の邊獄|幼児の邊獄」と分けられてゐたらしい。
「幼児の邊獄」は酷いじゃないか、幼児と云へば無垢にして天使のやうなもの、それがどうして罰を受けなければならぬのかと憤然となったら、洗禮を受けないで死んだ子供の行き場處らしい。天國への救濟の前提は地上での洗禮なのださうだ。それはさうかも知れないが、ちょっとやりきれなくなって、キリスト教が不快になってくる。

まあ、信仰は「不合理ゆゑに我信ず」の世界だし、「不合理ゆゑに我信ず」といふ窮極の、人間的矛盾に滿ちた知性を私も信奉し、自家用として十二分に活用してゐるのだから、人のことは言へぬ、云ふまいといふことにしておかう。

やはり、何處の人々も、天國よりは地獄のはうにより想像力が働くらしい。
天國は眠たくなるだけだらうが、地獄は刺戟に滿ちて生前よりもむしろ生々とした感じで、文學も音樂も美術も、あらゆる種類の思想家、思考と空想の専門家たちはそれぞれ得意の知識と技術で地獄を活寫した。

私は子供の頃、惡いことをしたら地獄に落とされ辛い思ひをすると話してくれる祖母に「人は屍骸を殘してあの世に行くのに、どうして地獄では肉體ばかりを折檻するのか」といふやうなことを尋ねて、唖然とさせたことがあるが、あの世のジゴクゴクラクの事などについては私はうまれついて懐疑的、といふよりはっきりと不信であった。地獄でいくら死ぬほど辛い目にあったって、すでに死んでゐるのだし、死んでゐるのだから死の恐怖は当然あり得ないし、死の恐怖がなければ苦痛は何物でもあり得ない。それに、日々繰り返される苦痛には慣れていくだらうし、あるいはそれ以上に(修行やスポウツに打ち込んだ人には分かるだらうが)その苦痛がハイな快樂となっていきかねいはずだ。
地獄はこのやうに人間の魂にはむしろ刺戟に充滿して極楽的であり、天國の悠久なる平安は人間の魂には退屈で地獄的であらう、とまで私はわが神學的思考空想をラヂカル化させていった。その時には、私の最初の死者となった祖母はすでにあの世に逝ってしまってゐたが、だから地獄に行くことになっても決して心配しないでねと云ってやりたかったのだ。
いづれにしろ、死者を生者のやうにしか想像できないところに地獄極樂の失敗があったやうに思ふし、本來、地獄極樂はこの世での身心經驗でしかないのである。

かうしたリンボを中心とするコトバの錯亂に、夕食を味氣なく食ってしまった私はそれゆゑ腹立たしく、この惡魔を退散させるべく元凶たる Limbo を、
リンボダンスから片付けてしまおうとネットで檢索した ―― 

邊獄のLimbo と同じ綴りの Limbo =リンボダンスは(当然關係があり)、或種の「死の踊り」に屬するのだらうか、あの高さよりも低さを競ふ(身を逸らせてバーを潜るといふ、ダンスとは思えない)見世物は、高さ速さ強さを競ふ西洋的競技とは異質な感じであり、邊獄から天國への狭き門を象徴してゐる一種の「死の踊り」なのか、しかし、 ‥‥ などと想像しつゝ。
だが、まるで違ってゐた。Limbo と Limbo とは全然關係がなかったのである。 → Limbo (dance) - Wikipedia
それにしても、と私の次の興味となったのは、現代の英語圏の人たちは Limbo といふ語に「(キリスト教發の)邊獄」と「(南西諸島發の)ダンス」のいづれを想起するのだらうか、といふことであったが、これは確かめようがない。

かうしていつしか、Limbo のことはどうでもいいものになってゐた。私は Limbo の驅逐に成功してゐた。

ところが、さすがに宗教用語である。Limbo は亡靈のやうにすぐさま私のまへに立ち現れたのであった。

食後に見始めた映画は、{時間がなくなったので、後から続けます。



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