柳田國男の「山人」と折口信夫の「まれびと」


柳田國男187562の「山人」と折口信夫188753の「まれびと」


 「願はくはこれを語りて平地人を戰慄せしめよ」と、彼の學問的出發點の記念碑となる『遠野物語』の序文で若き(当時三十六歳)柳田國男187562は息卷いたが、その百篇あまりの小話は、平地人であるはずの私を殆ど「戰慄せしめ」なかった。もう時代が違ひすぎてゐたせゐにちがひない。
それらを讀み終った後、その讀後感と序文の「願はくは」の違和感が、さらにこの一文をしに印象づけた。こんな昔の小話集にしてはあまりにも大仰な口吻、しかもその後には「この書のごときは陳渉呉廣のみ」と續くのである。「陳渉呉廣」とは、つまり秦の始皇帝の後の中國「關羽や劉邦」が出るまへに天下をめざしてゐた武將で、云はばこの書はこれから以後の私の作品なり研究の「前座」のやうなものだ、といふ意味らしい。自費の處女出版(この本の前に一册出してはゐるが)にしても、鄙びた『遠野物語』とはあまりにも不釣り合ひな、意氣込みの強い文章が奇妙に印象に殘って、『遠野物語』と云へばこの一文を思ひ出してしまふ始末であった。

柳田國男は文學的な趣味と才能を十二分に持ってゐたが、學問の道に進むと決めるとそれを嚴しく自制した。

若き柳田は日本の漂泊民の歴史を「山人」と定義して、その實在性を疑はなかったやうだが、やがて、書簡のやりとりのなかで南方熊楠186741に批判されたせゐもあったのか、1926大正十五年(=昭和元年)に出版した『山の人生』を最後に「山人」について口を噤み、以後は「平地人」を日本「常民」として、その方面へとその研究の對象を轉向させたのであった。
この轉向の原因が何であったか、本人が固く口を噤んで死んでしまったのだから推測するしかない。(略)

だが、柳田の「山人」は折口の「まれびと」の契機になった、のではないかと私は直感した。

時期はぴったり符合する。

1929昭和四年「まれびと」論は初めて發表された。折口信夫188753は「客人」を「まらうど」と訓じ、本來それが神と同義語であり、常世の國から來訪することなどを記紀や民間傳承から推測した。折口の「まれびと(稀人/客人)」とは、定期的によその世界から來訪してくる「もの」であり、これを迎へて手厚く歡待するのが日本人の信仰であり祭祀であった。
日本人のやうな閉鎖的農耕社界においては、漂泊者は異人(Stranger, Outsider)であり、日常性の侵犯であり、村として結界された時、異質なものの侵入はすなはち平和への侵犯であった。しかし同時に祝祭的氣分をもたらす存在であった。勿論、その祝祭的氣分はおおいに畏怖的なものであったらう。
そして、やがて「まらうど」は村の祭式となっていった。異人の來訪は、村に「ハレ」の時間をもたらす者として歡待されるやうになり、「ほかひびと」や藝能者の遊行が云はば職業として成立し得るやうになり、さうしたなかから「貴種流離短」などの物語が發生していった。

この折口の「まれびと」のオリジナルイメヂとなったのは、柳田の初期の持論であった「山人」、「平地民を震撼せしめる」山人ではなかったかと推測されたのであった。


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柳田國男187562『遠野物語』

{最後の最後になって、ちょっとだけ恐くなった「山姥」の話。

一一七 

 昔々これも或所にトトとガガと、娘の嫁に行く支度を買ひに町へ出で行くとて戸を鎖し、誰が來ても明けるなよ、はアと答へたれば出でたり。晝の頃ヤマハハ來たりて娘を取りて食ひ、娘の皮を被り、娘になりておる。夕方、二人の親歸りて、オリコヒメ居たかと門の口より呼べば、「あ、いたます、早かったなし」と答へ、二親は買ひきたりしいろいろの支度の物を見せて、娘の悦ぶ顏を見たり。次の日、夜の明けたる時、家の鷄羽ばたきして「糠屋の隅っ子見ろじゃ、けけろ」と啼く。はて常に變りたある鷄の啼きやうかなと二親は思ひたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハハのオリコヒメを馬に乘せ、今や引き出さんとする時また鶏啼く。その聲は「オリコヒメを載せねえでヤマハハ載せた、けけろ」と聞ゆ。これを繰り返して歌ひしかば、二親も初めて心づき、ヤマハハを馬より引き下ろして殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまたありたり。 ○額屋は物置なり。

柳田國男187562『山の人生』1926

{こんな文章を讀むと当時の文學は何をやってゐたのだと思はれてくる。

一 山に埋もれたる人生あること 

 今では記憶してゐる者が私のほかに一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景氣であつた年に、西美濃の山の中で炭を燒く五十ばかりの男が子供を二人まで鉞で切り殺したことがあつた。
 女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あつた。そこへ、どうした事情であつたか、同じ歳くらゐの小娘を貰つてきて、山の炭燒小屋で一緒に育ててゐた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまつた。何としても炭は賣れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかつた。最後の日にも空手で戻つてきて、飢ゑきつてゐる小さい者の顏を見るのが辛さに、すつと小屋の奥へ入つて晝寢をしてしまつた。
 目が覺めてみると、小屋の口いつぱいに夕日が射してゐた。秋の末のことであつたといふ。二人の子供がその日當たりの處にしゃがんで、しきりに何かをしてゐるので、傍へ行つてみたら、一生懸命に仕事に使ふ大きな斧を研いでゐた。おとう、これでわしたちを殺してくれと云つたさうである。さうして、入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寢たさうである。それを見るとくらくらとして、前後の考へもなく二人の首を打ち落してしまつた。それで、自分は死ぬことができなくて、やがて捕らへられて牢に入れられた。
 この親父がもう六十近くなつてから特赦を受けて世の中へ出てきたのである。さうして、それからどうなつたか、すぐにまた分らなくなつてしまつた。私は仔細あつてたゞ一度、この一件書類を讀んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつつあるのであらう。

 また、同じ頃、美濃とは遙かに隔つた九州の或町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服してゐた三十あまりの女性が同じやうな悲しい運命のもとに生きてゐた。或山奥の村に生まれ、男を持つたが、親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還つてみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでゐて、笑ひ嘲る人ばかり多かつた。すごすごと再び浮世に出て行かうとしたが、男のはうは病身者でとても働ける見込みはなかつた。
 大きな瀧の上の小徑を親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身體を帶で一つに縛りつけて、高い木の隙間から淵を目掛けて飛込んだ。數時間のうちに、女房が自然と正氣に還つた時には、夫も死ねなかつたものとみえて濡れた衣服で岸に上がつて、傍の老樹の枝に首を吊つてみづから縊れてをり、赤ん坊は瀧壺の上の枝に引つ掛かつて死んでゐたといふ話である。
 かうして、女一人だけが意味もなしに生き殘つてしまつた。死ぬ考へもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕があつたのである。この哀れな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えてゐる。多分はどこかの村の隅にまだ抜殻のやうな存在を續けてゐることであらう。

 我々が空想で描いてみる世界よりも隱れた現實のはうがはるかに物深い。また、我々をして考へしめる。これは、今自分の説かうとする問題と直接の關係はないのだが、こんな機會でないと思ひ出すこともなく、また何人も耳を貸さうとはしまいから、序文の代はりに書き遺しておくのである。