1211/1228 「奈良炎上(『平家物語』による)」:『やまとまほろば』寧樂篇


1211/1228「南都燒亡(『平家物語』による)」『やまとまほろば』寧樂篇

{「聲」の文化の日本語の美、その精華の一つ『平家物語』のなかから「奈良炎上」の段を紹介。


1180治承四年1211、父の相國平清盛により、その五男で二十三歳の平重衡は總大將を命じられて、近江の園城寺を攻撃、燒き拂ひ、二十五日には南都奈良へ向かった。
興福寺衆徒は奈良坂と般若寺に防護の逆茂木など巡らせたが、河内方面から進撃してきた重衡率ゐる四萬の軍勢は、一日の攻防で興福寺側の防禦を突破し、南都に攻め入り、重衡の命により火を放った。折からの風に南都は火の海となり、東大寺興福寺は堂塔伽藍一宇もあまさず消盡、東大寺の大佛も燒け落ちた。
『平家物語』では、重衡が陣中で燈りを求めたのを火攻めの命令と勘違ひして民家に火を放ち、それが折からの強風に煽られて瞬く間に南都を焼尽させたとするが、園城寺の事もあり事前の計画であった可能性が強い。この時、東大寺は二月堂三月堂、正倉院などを除く伽藍が燒け落ち、興福寺はほゞすべての堂塔を燒亡した。
1183壽永二年0609、鎌倉に捕囚となってゐた重衡は南都衆徒の要求により引き渡され、0623木津川の汀で斬首、奈良坂の般若寺門前で梟首された。享年二十九。
夫人の輔子はうち捨てられた遺體と南都大衆から首も貰ひ受け、荼毘に付し、遺骨を高野山に葬り、日野に墓を建てた。
燒け落ちた大佛はその後重源112106によって再興され、1195建久六年に落慶法要がおこなはれた。その後、戰國時代には、松永久秀151077によって再び燒亡、再興がなったのは江戸時代に入ってからであった。
張本人にされた平重衡についての同時代の人物評價は(文武兩道のうへ美男子でもあった)ときはめて良好なもので、唯一の汚点と云ってもいいのが、園城寺や南都の燒討であった。

平重衡115785 清盛五男、生母は平時子。当時の公家の日記『玉葉』には「武勇の器量に堪ふる」と評され、その容姿は牡丹に譬へられた。1179治承三年、二十三歳で左近衛中將。『建禮門院右京大夫集』『平家公達草紙』によれば、「なまめかしくきよらかな」容姿の重衡は氣の利いた心遣ひのできる若者で、いつも笑談やら恐い話で女房たちをたのしませ、無聊の高倉天皇を慰めるために強盗のマネなどしたといふ。都落ちの際には、交際のあった式子内親王115401の御所を武者姿で惜別に訪れた。平家の中心的存在として奮戰したが、一ノ谷で馬を射られて梶原景時に捕まり、鎌倉に移された重衡については鎌倉幕府方の史書『吾妻鏡』が褒めちぎってゐる。



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『平家物語』卷五「奈良炎上」

都には又「高倉宮、園城寺へ入御の時、南都の大衆同心して、剰へ御迎へに參る条、これ以て朝敵なり。されば、南都をも三井寺をも攻めらるべし」といふほどこそありけれ、奈良の大衆、夥しく蜂起す。攝政殿より、存知の旨あらば幾度も奏聞にこそ及ばめと仰せくだされけれども一切用ゐ奉らず。右官[ただしくは有官、公職を以て勸學院の別当に補せられた者で藤原氏の寺社の事務を司る]の別當忠成を御使にくだされければ、「しや、乘物より取って引き落せ。髻motodori切れ」と騒動する間、忠成色を失って逃げ上る。
次に、右衞門佐親雅を下さる。これをも「髻切れ」と大衆ひしめきければ、取る物もとりあへず逃げ上る。その時は勸學院の雜色二人が髻切られにけり。
 
又、南都には大いなる毬丁gittyuuの玉を作って、これは平小國の頭と名付けて「打て、踏め」なんどぞ申しける。「詞の漏らしやすきは禍ひを招くなかだちなり。詞の愼まざるは敗れを取る道なり」と云へり。この入道相國と申すは、かけまくも忝く當今の外祖にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所爲とぞ見えたりける。 
入道小國、かやうの事ども傳へ聞き給ひて、いかでかよしと思はるべき。かつがつ[早速]南都の狼藉を鎭めんとて、備中國住人瀬尾太郎兼康、大和國の検非處に補せらる。
兼康、五百餘騎で南都へ發向す。「相構ひて[十分注意して]、衆徒は狼藉を致すとも汝等は致すべからず。物の具なせそ。弓箭な帶しそ」とて向けられたりけるに、大衆かかる内儀をば知らず、兼康が餘勢六十餘人搦めとって、一々に皆首を切って猿澤の池の端にぞ懸け並べたる。
 
入道相國、おほきに怒って「さらば南都を攻めよや」とて、大將軍には頭中將重衡、副將軍には中宮亮通盛[教盛の子]、都合其勢四萬餘騎で南都へ發向す。
[興福寺の]大衆も老少きらはず七千餘人、甲の緒を締め、奈良阪・般若寺二ヶ所、道を掘りきって掘ほり、掻楯kaidateかき、逆茂木引いて待ちかけたり。
平家は四萬餘騎を二手にわかって、奈良阪般若寺二ヶ所の城郭に押寄せて、大衆は皆徒歩立ち打物なり。官軍は馬にて驅けまはしかけまはし、あそこここに追っかけ追っかけ、差しつめ引きつめ散々に射ければ禦ぐところの大衆、數を盡ゐて討たれけり。
卯刻に矢合はせして一日戰ひくらす。夜に入りて奈良阪般若寺二ヶ所の城郭ともに破れぬ。
 
落行く衆徒の中に、坂四郎永覺yaukakuといふ惡僧あり。打物持っても弓矢を取っても、力の強さも七大寺十五大寺に勝れたり。萌葱縅の腹卷の上に黒糸縅の鎧を重ねてぞ着たりける。帽子甲に五枚甲の緒を締めて、左右の手には茅の葉のやうに反ったる白柄の大長刀、黒漆の大太刀持つまゝに、同宿十餘人、前後に立って轉外の門よりうって出たり。これぞ暫く支へたる。多くの官兵、馬の足流れて討たれけり。されども、官軍は大勢にて入れ替へ入れ替へ攻めければ、永覺が前後左右に禦ぐところの同宿皆討たれぬ。永覺たゞ一人猛ければ後あらはになりければ、南をさいて落ちぞ行く。 
夜戰になつて暗さは暗し、大將軍頭中將重衡、般若寺の門の前にうっ立って「火を出せ」と云ふほどこそありけれ。平家の勢の中に播磨國住人福井庄の下司、二郎大夫友方といふ者、楯を割り松明にして在家に火をぞかけたりける。
十二月二十八日の夜なりければ、風は烈しし、火元は一つなりけれども吹きまくる風に多くの伽藍に吹きかけたり。
 
恥をも思ひ名をも惜しむほどの者は奈良坂にて討死し、般若寺にして討たれにけり。行歩gyaubuに適へる者は吉野十津川の方へ落ち行く。歩みも得ぬ老僧や世の常なる修學者、稚兒ども、女童部は大佛殿・山階寺の内へ我先にとぞ逃げ行きける。大佛殿の二階の上には千餘人登りあがり、敵の續くを登せじと橋をば引いてんげり。猛火はまさしう押しかけたり。おめき叫ぶ聲、焦熱大焦熱無間阿毘の炎の底の罪人もこれには過ぎじとぞ見えし。 
興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします佛法最初の釋迦の像、西金堂におはします自然湧出の觀世音、瑠璃を並べし四面の廊、朱丹をまじへし二階の樓、九輪空に輝きし二基の塔、たちまちに煙となるこそ悲しけれ。 
東大寺は住在不滅、實報寂光の生身の御佛とおぼしめしなぞらへて、聖武皇帝、手づから磨きたて給ひし金銅十六丈の盧遮那佛、烏瑟[佛頭上の肉]高く現れて中空の雲に隠れ、白毫新たに拜まれたまひし滿月の尊容も御髪は燒け落ちて大地にあり、御身はわきあひて[一つに溶けて]山の如し。八萬四千の相好は、秋の月はやく五重の雲におぼれ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしく十惡の風に漂ふ。煙は中天に充ち満ち、炎は虚空に隙もなし。目の當たりに見奉る者、さらに眼をあてず。遙かに傳へ聞く人は肝魂を失へり。 
法相三論の法門聖教、すべて一卷殘らず。わが朝は云ふに及ばず、天竺震旦にもこれほどの法滅あるべしとも覺えず。優填uden大王の紫磨金simagonを磨き、毘須羯磨が赤栴檀を刻んじも僅かに等身の御佛なり。いはんや、これは南閻浮提のうちには唯一無雙の御佛、永く朽損の期あるべしとも覺えざりしに、今、毒縁の塵にまじはって久しく悲しみを殘し給へり。梵尺四王、龍神八部、冥官冥衆も驚き騷ぎ給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日の大明神、如何なる事をか思しけん。されば、春日野の露も色變り、三笠山の嵐の音、恨むる樣にぞ聞えける。 
炎の中にて燒け死ぬる人數を記いたりければ、大佛殿の二階の上には一千七百餘人、山階寺には八百餘人、或御堂には五百餘人、或御堂には三百餘人、具に記いたりければ、三千五百餘人なり。戰場にして討たるゝ大衆千餘人、少々は般若寺の門の前に切り懸け、少々は持たせて都へ上り給ふ。 
二十九日、頭中將、南都亡ぼして北京へ歸り入らる。入道相國ばかりぞ憤り晴れて悦ばれける。中宮一院上皇攝政殿以下の人々は「惡僧をこそ亡ぼすとも伽藍を破滅すべしや」とぞ御歎きありける。
衆徒の首ども、もとは大路をわたして獄門の木に懸けらるべしと聞えしかども、東大寺興福寺の亡びぬる淺ましさに沙汰にも及ばず。あそこここの溝や堀にぞ捨て置きける。
 
聖武皇帝宸筆の御記文には「我寺興福せば天下も興福し、吾寺衰微せば天下も衰微すべし」とあそばされたり。されば、天下の衰微せん事も疑ひなしとぞ見えたりける。 
淺ましかりつる年も暮れ、治承も五年になりにけり。