MySelf InterView 「Time & Money」 『少年の完成』より

MySelf InterView 「Time  & Money」『少年の完成』より



私ほど生涯かけて「Time & Money」を貴重に使った者もさうはゐないだらうと自負していゐる。

私が最も優先して思ひ考へたのは、私の「Time」であった。
科學文明の時代に生まれあはせた私は、何の疑ひもなく唯物論者となり無神論者となってゐた。
私といふ存在は生まれて死んでいく有機的な生命體であり、生前に私は存在せず、死後にも存在しない。一回限りの現象である。
この地球上に生命ある間だけが私といふ身心の存在である、「私は時間なのだ」と覺悟するやうに思った。
人生といふ束の間の幻影のやうな時間、しかも生老病死の痛苦に充ち満ちた人生といふ時間、人生を歩き始めた私はたちまちさうした想念に取り憑かれてしまった。
生年不滿百、常懷千載憂。晝短苦夜長、何不秉燭遊。爲樂當及時、何能待來茲。愚者愛惜費、但爲後世嗤。仙人王子喬、難可與等期。
たかだか百年の命に過ぎぬのに、常に千年の憂ひを懷き。昼の短さと夜の長さに苦しむくらゐなら、どうして燭を手にして遊ばないのか。樂しみのための時を待ってもしやうがない。時を待つは愚者と後世は嘲笑するだらう。我々は不老長壽の仙人ではないのだから。
と、古代中國の無名氏は詠じて、私を焚きつけた。たしかにさう感じ思はれた。
しかし、遊び暮らすにはカネが要る。どう節儉しても、生を養ふにはそれなりの經費がかかる。
だから、食うために皆(職業となって)働いてゐるのだ。これが人生の現實だ。そんなことは解りきってゐる。
だが、私は私の時間を賣り渡したくなかった。

Time is money.」と、新世界アメリカの精神的師父となった Benjamin Franklin 170690 は言った。清教徒の勤勉精神がこの金科玉条となり、以後のアメリカの繁榮の原動力になった。

時はカネなり。然り。マルクスだって似たやうなことを言ってゐる。人は働かなければならぬ生物なのだ。私は悔しくなってしまふ。
人竝みの、あるいはそれ以上の生活を求めて、稼ぎのいい職業に就くためにいい學校に入り、時間の大半を職業に注ぎ込み、還暦定年となって、老後の時間をヨボヨボと過ごす ‥‥ そんな人生など(たった一度切りの人生として)生きるに價するのか、やり直しはきかないんだぞ、二度目の人生なんてないんだぞ、この一度切りの人生をまるごと私のものとして生きたいんだ、私は敗北直前の猛々しさで絶叫せんばかりであった。

時はカネなり。然り。だが、カネは時になるだらうか。
私が云ひたいことは、二十歳の時間と六十歳の時間が等價であり得るかといふことだ。
老衰化してから得た自由など(それまでの人生の習慣もあり)むしろ持てあます重荷のやうなものでしかないのではないか。
Old is gold, Old is cold.  
と少年の時に私が自作した對句が、私の密語のタマシヒのやうになって「Time is money」に對決していった。

古來より、人を人間=社界的動物へと訓育するために、たとへば「アリとキリギリス」のやうな寓話を作って、勤勉の徳を説いてきた。
暑い最中、汗水垂らして働きまはるアリを善とし、それを高目か横目か知らないけれど遊び怠けてゐるキリギリスに惡役を演じさせ、勤勉の徳を説く。だが、アリのなかでの働き者と怠け者の比較對照ならば解らないでもないが、アリとキリギリスとを比較對照させるといふのは(元々はアリとセミだったらしいが、いづれにしろ)「ミシン台の上のカヘルとハサミ」のシュウルレアリズムの手法に近く、現実的あまりにも現実的な「勤勉」といふ德と説くにはあまりにもふさはしくない、と云ふよりはっきりと不適切である。
アリがその本性として地上を汗水垂らして(なんかゐないだらう)這いずり囘って働いてゐるのと同じくらゐ、キリギリスはその本性として木陰で音樂を奏でてゐるのであり、けっして怠惰なわけではない。

問題はたゞ、冬になってキリギリスがアリに泣きついた点だけである。
だが、これも敵役をキリギリスにしたことがが祟ってゐる。キリギリスは冬が來るまへにすべて死んでしまふのである。
しかもだ、この寓話にたいする批判を續ければ、眞冬に泣きついてきたキリギリスにたいし、アリは「あんたは夏の間ずっと歌ってばかりゐたんだから、冬は踊ってゐれば」と、勤勉な者にありがちな嫌味を云って、追ひ拂ったのである。これはいかがなものか。これでは、夏のアリの「勤勉」よりも冬のアリの「吝嗇」のはうが印象に強烈となってしまふだらう。 Wikipedia English で讀むと、やはり Ant の「それ見たことか」の嘲笑的対応は、紀元後の西洋世界を席卷したキリスト教のチャリティ精神とあまりにも齟齬してゐて、改變あるいは改竄が種々樣々おこなはれてきたらしい。その最新にして最惡の例が、「Time is money」のフランクリン精神を受け繼ぐウオルトディズニイの映画で、アリから食ひ物をもらったキリギリスはお礼にヴァイオリンを弾いてやった、といふものであるだらう。これでは、イソップの「寓話」性などどっかに吹っ飛ばし、あまったるい&ウソっぽいだけの情話でしかない。

勤勉の德を説くのが目的の寓話なのだから、イソップなどに拘らなければいいのに(と裸の王様の指摘するやうに)私などには思はれてしまふのだが、さうした智慧は浮かんでこないらしい。昔からの話にこだわって、それを時代に合はせて無理算段していくからキミョウな話となっていく。閑話休題。

要するに、泣きつかなければいいのだらう。
行けるところまで行って「見るべきほどのことは見たり」と嗤って嘯ける覺悟と度胸が備はればいいのだらう。そんなものは、生きていくうちにおのづと備はってくるさ、と最後にはナゲヤリに、成行任せとなって、
タマシヒはたとへば狂句、キリギリス
{このキリギリスはイソップのキリギリスではなく、芭蕉の「むざんやな、かぶとの下のきりぎりす」のキリギリスです。
と辭世のごとくに呟いて、この現代社界から思ひ切りOB、アウトオブバウンドしていった。

それから、ほんたうに束の間のやうにたちまち時間は過ぎて、夢見るごとくに私は還暦を過ぎてしまった。

還暦まで(この年齡まで生きてゐられるとは思ってもみなかった)で區切れば、私の無謀なる實驗といふより冒險といったはうがいい人生行路は、曲がりなりにも成功裏と云っていい結果となった。
結局、私は一度として職業に就かなかった。時間を賣り渡すことなく、望みどほりにまるごと自分のためにだけ費やした。
だが、これによって私が得たものは、たゞ少年の奇妙なる立志の完遂といふ事實だけでしかないやうな氣もする。たゞたゞ時間を浪費、無駄遣ひしただけのことではなかったか、と反省や後悔はおのづと湧いてくる。しかし、それは成功した者の口にするゼイタクのやうなものかも知れない。
{いや、粗衣粗食、節約の德を身に付けた。それになにより、生來の厭世家、嫌人屋であった私にはかうしたかたちでしか圓滿な人生は送れなかっただらうから、天涯孤獨に過ごさせることのできたこの人生を自画自賛すべきであらう。


還暦を過ぎて、思ふことはやはり、時はカネでは買へないといふことだ。いや、さうではない。
二十歳の時間の内容と六十歳のそれとを比べてみてもしやうがない、やうに思ふ。
それに、職業も持った人生と持たなかった人生とを比べてみても。

しかし、あるいは、この先にほんとうの結末がドンデン返しに待ってゐるのかも知れない。
人生六十年ではなかった、日本人の平均壽命は八十年の時代となってゐる。
この先、二十年も三十年も生きて行かなければならないとしたら、 ‥‥
まあしかし、この先も今まで同様、成行任せに、棺桶に片足突っ込んだ恰好となって、
今度は、獨創的な「死」の計画と実行に熱中していくさ、と強がるしかない。


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