「葬式無用」「直葬」「行路死亡人」、筆に随って。


「葬式無用、戒名不用」から「直葬」を突き拔けて「行路死亡人」に到ってしまった随筆

葬式無用、戒名不用」は葬式できる人、戒名を買ふことのできる人が口にできるコトバであった。今の私には無論そんな「死に金」はない。そのコトバ自体が私には「無用、不用」であった。

特に Memento mori の意識はないのだが、私はよく墓地に行く。。
公園なんかよりも清掃感があり、私の好きな菊の花があり、嫌ひでもない線香の香りが時に漂ひ、第一靜寂で、それらに包まれて、風雨に古びていく墓石、そこに刻まれた戒名や忌日など見てゐると或種永遠へと溶けこんでいく感覺がある。
奈良に來てからも、遭遇した墓地には必ず立ち寄ってしまふ。
この歴史ある土地でも、墓場の荒廢が私には目立った。いや、古都の歴史あるがゆゑに保守的な住民に今までどうにか保たれてきたものが、こゝに來て一擧に崩れだしてゐるのを私は目の當たりにしてゐるのかも知れなかった。
古い墓を一ヶ所に積みあげ片付けてあるのは(そんな古墓のピラミッドがあちこちにあった)、新しい墓を作るためであったのだらう。だが、新しくなった墓も、墓參りがなくなったといふ感じで雜草に取り卷かれ、風雨に玩ばれ、新しさを殘したまゝに荒廢してゐる有樣は、捨てられた古墓以上に、あはれといふもおろか、感慨を催させる光景であった。
そんな光景がどこの墓場にも見られた。
日本人はもうほんたうに昔の日本人とは變ってしまったのではないか。自分の事は棚に、頻りにさう思はれた。
葬式代がやたらと高い。葬儀の「松竹梅」の格差といふより段差、それから墓石も、「居士」號の相場は、と坊主丸儲けの葬儀屋ボッタクリの現状が、冠婚葬祭の格式ないし華美にはこだわる日本人にもガマンならなくなったのだらうか(それとも葬儀代にも苦勞するほどになってきたのか)、葬儀なし火葬だけの「直葬」なるものが増えてきてゐるらしい。
業者用語のやうだから「直送」のニュアンスなのであらう。いっそのこと、露骨に「素葬」とか「貧葬」とか、と造語してみたが、より一層居たたまれなくなる語感であった。
天涯孤獨、親もなければ子もない、それに私の厭人癖はおよそ徹底してゐたので(他に大きな理由もあり)元々少なかった友人との交際も絶った。そして、今や望みどほりに、ほんたうにほんたうの天涯孤獨の身の上となった。
(孤獨だと生きられない人がゐるやうに、孤獨でないと生きられない人もゐるのです。

死ねば、引き取り手のない私の骨などは、無縁墓地にでも放り込まれるのがオチだらうが、死後永生となっての他者との雑居は私には居たたまれないだらう。だから、
天涯孤獨の者、灰も殘らぬほどに燒きつくしてください」と記したメモを忍ばせておくことにきめた(まだ實行はしてゐないが)。
ほんたうは「鳥葬」とか、鳥に突つかれて、鳥に吸収されながら、あこがれの「タマシヒの白鳥」になりゆくのが私の死後の理想であるが、姥捨山の死の谷でつくねんとして死を待つのもやりきれないものだらう。
孤獨なる私の死は当然のごとく孤独死とならざるを得ない。
私は、私の死そのものよりも、死んでしまった私の體、遺體=遺された體となった私のはうを思ひ考へてしまふ。
死んだ後の事などどうにもならない/できないのは訣りきってゐるのだが、できることなら他人の手を煩はせたくない。私のはかないダンディズムである。遺體となって不樣に轉がってゐるだけしかない私がどうにもやりきれないのである。

私の體同様に私の持ち物、この處分にもまた思ひ惱まされる。
人間「本來無一物」とできるだけ「斷捨離(じつにイヤな響きのコトバだ)」してきたのだが、わが身心の維持のためには必要不可欠な物が我樂多と、まだ隨分とある。
生前は必要不可欠ながら死後は誰の目にも觸れさせたくない物の處分、
どうせ、思ひどほりにいかないのは訣りきってゐるのに、それでも「飛ぶ鳥、後を濁さず」のダンディズムが働いてしまふのである。
今回、この記事のために調べていくうち「行路死亡人」といふ語に遭遇した。
やまとまほろばの旅人」を氣取ってゐる私などには、芭蕉の「旅に病んで夢は枯野を驅け巡る」を想起させて、「これだ!」と膝を叩かせるものがあった。で、Wikipedia で調べてみると
「直葬」などの業界語ではなく、れっきとした法律用語であるらしい。
「行旅死亡人は該当する法律である行旅病人及行旅死亡人取扱法により、死亡推定日時や発見された場所、所持品や外見などの特徴などが市町村長名義にて、詳細に官報に公告として掲載される。云々、
檢討に價する情報だと今は思ってゐる。


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