「葬式無用、戒名不用」から「直葬」に到るはずの随筆、その一

「葬式無用、戒名不用」~「直葬」{のつもりが白洲次郎の事になつてしまつた。

妻の白洲正子に「遺言のやうなもの書いといてちょうだいよ」と云はれて、白洲次郎は半紙にサラサラと書いて渡したのが「葬式無用、戒名不用」だった、と正子自身がどこかで書いてゐた。
それを讀んで、あまりにも見事なる對句表現に(私もわが死生觀において同様の主旨のことを簡潔に表現すべく思ひ考へてゐたので)先を越された口惜しさを今でも鮮明に覺えてゐる。
ところが、この對句は次郎の發明ではなく、次郎の親父の遺書のなかにそっくりあったさうだ。この次郎の父親が次郎以上に破天荒な生き方をした怪人物で{こゝでは長くなってしまふので止めておきます。

『明恵』『西行』、それに『十一面觀音』などを讀んで先づは白洲正子を識った私は、それからその夫である白洲次郎190285の事を識り、次郎と同年生まれの小林秀雄190283(娘が白洲の息子と結婚して姻戚關係になった)が「彼奴は天才だ」と云ったのも識って、次郎の事を調べてみたことがあった。

なるほど、昭和の坂本龍馬と云ってもいいほど、いやそれ以上の活躍と殊勲とを敗戰後の日本の復興に立てたが、己の役割を果たすとサッサと出處進退してみせて、そのすがすがしさに昭和時代に稀なる英雄であったと私は評價した。

あまりにもおもしろい(或種、昭和といふ時代を象徴させるにもっとも適當な)夫婦と思はれたので、次郎と正子を主人公にして『正子と次郎の昭和年代記』といふタイトルで、テレビの連續ドラマにでも仕立ててやらうかと構想までしたことがあったので、二人については生まれてから死ぬまで、かなり詳しく識ってゐる(今ではいい加減になってゐるが)。
ケンブリッジに留學させられた惡童の次郎が、親父の昭和恐慌による破産で歸國、新聞記者になった頃、伯爵(と云っても幕末の人斬り志士で維新後に軍人となった樺山資紀の受爵による)の娘、樺山正子に熱烈に戀情して、昭和四年、強引に結婚に漕ぎつけ、式は京都で挙げ、破産しながらも親父がプレゼントしてくれたランチアラムダに乘って、新婚旅行の初夜は奈良ホテルに泊まった。
その頃、小林秀雄は中原中也の愛人を奪ったはいいがその女から逃げ出して、志賀直哉を頼って奈良に來て、奈良ホテルのすぐ近くにある江戸三の離れに一人悶々と燻ってゐた。{これも長くなるので、今日は止しておきます。

戰爭が始まると二人は東京を疎開し、今の町田市の農家を買って改築「武相莊(ぶあいそう)」と名付け、戦後もずっとそこに Country Life した。
敗戦直後、次郎の活躍が始まる。吉田茂のグルウプに属してゐた彼は、外務大臣となった吉田の懇請で「終戰連絡中央事務局」の参与となった。英國仕込みの流暢な英語とマナー、日本人らしかぬ長身とによってアメリカ進駐軍を相手にほとんど孤軍奮鬪を演じてみせた。その時の有名なエピソウドとして、昭和天皇から元帥マッカーサーへのクリスマスプレゼントを次郎が届けた時「その辺にでも置いていってくれ」と云はれたのに激怒して「仮にも天皇からの贈り物をその辺に置いてけとは何事か」と怒鳴り、そのまゝ持ち歸らうとしてマッカーサーを慌てさせた、といふ(眞僞は不明らしいが、いかにも次郎らしい逸話であり、逸話とはさうしたものだ)。
憲法改正についても次郎は深く係はった。
GHQによる憲法改正案の飜譯作業のために一週間缶詰となって、自宅に還った時に河上徹太郎に「監禁されて強姦されたらアイノコが生まれたイ!」と捨て台詞し、また、その時の折衝攻防について(彼が官僚のなかで一番目をかけてゐたといふ)宮澤喜一に「自分は必要以上にやってゐるんだ。占領軍の言ひなりになったのではない、といふ事を國民に見せるために敢へて極端に行動してゐるんだ。爲政者があれほど抵抗したといふことが殘らないと後で國民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる。」と遠慮深謀を明かして見せた。

昭和二十三年、次郎は今度は商工省に設立された貿易庁の初代長官となった。そこで彼は日本人らしからぬ恐るべき豪腕、組織を破壞/創造する辣腕を振るって、母屋の商工省を通商産業省(今の経済産業省)に改組し、その驚異の爲事ぶりは「白洲三百人力」と讚へ恐れられた。
そして、
戦後日本のために彼が公的に係はった最後の仕事は、1951昭和二十六年のサンフランシスコでの講和會議への全權團顧問としての随行であった。主役である吉田茂首相のために彼は裏方となって演出した。最初、吉田の演説は英語だったが、次郎は次郎自身の証言によれば「講和會議とは對等な關係であるのに、それをアメリカに相談して、アメリカのコトバで演説するバカがどこにゐるか」と怒鳴って、徹夜して日本語に書き直させた。和紙に毛筆で書かれた草稿を讀みあげる日本の首相を見て、アメリカは「吉田のトイレットペーパー」と傳へ、朝日新聞は「不思議な卷物の勸進帳」と(比喩したのか揶揄したのか)報じた。
そして翌年、キッパリさっぱりと官界から身を引いた次郎に政界への誘ひは多かったがすべて斷り、さっそうと歴史の表舞臺から姿を消していった。
その次郎に代はるやうにして、今度は「韋駄天お正」と徒名された正子が登場してくる。
{白洲夫婦を紹介するのが今回の目的ではなかった。前回の「オチ」、「墓も作れない男が作った墓碑銘」のことを承けて、近頃ニュウスワアドとなってゐる「直葬」などについて「當事者」としての忌憚なき私見を陰々滅々、述べるつもりであったのが、「葬式無用、戒名不用」の「マクラ」が思はぬ長さになってしまった。ま、紙面に限りがあるわけでもなく、讀者の事などハナから無視してゐる(つもりなのだが、やはり氣になります)のだから、延々と、それこそトイレットペーパーの巻紙に書きつけるやうに書きたいだけ書けばいいのだが、他の爲事もあるしで、後から續ける事を約束して、一旦、今日はこゝまで。

その代はり、白洲次郎の言動で私の氣に入ったものを、集め並べておきます。こっちのはうが、生死についての私の皮肉れた見解よりも何倍も、何十倍も何百倍も讀者諸氏のチカラタカラとなるだらう。面倒になってきたので、WikipediaJapn の引き寫しに近く(順序は變へてあります)。
「我々日本人は戦争に負けたが、奴隷になったわけではない」 
「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事實を都合よく誤魔化したところで何になる。後年その誤魔化しが事實と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」(『プリンシプルのない日本』より)「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法ができ上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マッカーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」(『プリンシプルのない日本』より)プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでも云ふのか。…西洋人とつきあふには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶對に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号) 
「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』より)
「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人には嫌はれるやうに積極的に努力しないと良い仕事はできないぜ」(東北電力会長時代にダム建設を請け負っていた前田建設工業社長・前田又兵衛へ) 
「地位が上がれば役得ではなく、役損といふものがあるんだよ」(犬丸一郎が帝国ホテルの社長に就任するにあたって。 
「ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃない。三年くらゐ軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃に着るんだ」(三宅一生にアドヴァイスして) 
「一緒にゐないことだね」(晩年、夫婦圓滿の祕訣を訊かれて) 
今の日本の若い人に一番足りないのは勇氣だ。そういふことを言ったら損するってことばかり考えてゐる



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