宮本ノマド武藏の『獨行道』:日本人への遺言


宮本ノマド武藏の『獨行道』:日本人への遺言


その數日後に控へてゐた死を豫感したのか、宮本武藏158445はその三年ほど前に纏めた『五輪書』の内容を要約するやうにして『獨行道』を遺書のごとくに認sitataめた。
一、世々の道を背く事なし。

一、身に愉しみをたくまず。

一、よろづに依枯の心なし。

一、身をあさく思ひ、世をふかく思ふ。

一、一生の間、欲心思はず。

一、我、事において後悔をせず。

一、善悪に他を嫉む心なし。

一、いづれの道にも別れを悲しまず。

一、自他共に怨みかこつ心なし。

一、戀慕の道、思ひよる心なし。

一、物毎に數奇好む事なし。
一、私宅において望む心なし。

一、身ひとつに美食を好まず。

一、末々代物なる古き道具を所持せず。

一、わが身にいたり物いみする事なし。

一、兵具は格別、餘の道具嗜まず。

一、道においては死を厭はず思ふ。

一、老身に財宝所領もちゆる心なし。

一、佛神は貴し。佛神を頼まず。

一、身を捨てても名利は捨てず。

一、常に兵法の道を離れず。

{晩年、死を間際にして、これほどの煩惱を抱へてゐたとは …… 讀んでゐて、すべて逆の心境を武藏に思ってしまったのは、私の皮肉れた根性なるがゆゑだらうか。しかし、かうも「なし、せず」の連續では、どうしても「痩せ我慢の強がり」に聞こえてくるのは致し方ない。どうも、やはり、文字よりも繪のはうがいいやうだ。



武藏は生まれついての一匹狼であった。ノマド的体質の持主であった。


時代は彼に味方した。さもなくば、亂暴者の村の嫌はれ者となって、村八分的境遇になりながら、鬱憤だけの人生を送ることになってゐたであらう。
時代は「下剋上」の戰亂の時代であった。しかし、この千載一遇の時に、彼はやゝ遅れて(生まれて)しまった。
戰國時代の花形、織田信長153482が飼犬の明智光秀152882の謀叛によって「人生五十年、夢幻のごとく」終らされたのは、武藏の誕生の二年前の事であった。
すでに、天下は羽柴秀吉153798の掌中に握りしめられていく収束期に入ってゐた。
だが、全國津々浦々の男どもはその頃になってやうやく「大名」を夢見だしたのかも知れない。

かうした「遲れてきた青年」どもが抱いた錦の夢に武藏も取り憑かれて、刀二本を持って故郷を捨て、天下めざして浮かれ出ていった。
播州を離れた武蔵は二十歳になった頃、剣客となって京都に姿を現した。
そこで、武藏同様の「大望」を抱く兵法者たちと数回決鬪し、そのいづれにも勝った。箔は付いた。
だが、時代は「」から「鐵砲」に移ってゐた。

難波のことは夢のまた夢」と稀代の天下人らしからぬ辭世を殘して死んだ關白秀吉の後、淀君さまに手渡された天下に、虎視眈々となった狸爺の徳川家康154316は老巧なる(まるでストリップのやうに淀君に一枚一枚その着物を脱がせていくやうな)いやらしい戰略&戰術を用ゐ、その仕上げとなる1614慶長十九年冬に始まり翌年の夏に終る大阪の陣に、壯年の武藏の姿があった。
卅を過ぎた頃の男盛り働き盛り。おそらくはこの戰が殘された最後の「功名」機會と思ひ決め、死に物狂ひの阿修羅となって獅子奮迅せんことを誓って、武藏は現地に臨んだことであらう。
武藏は徳川方の水野勝成の客將となったゐた。

その時の活躍のおかげか、武藏は兵法者としての名聲を得たらしく、姫路城主の本田忠刻に傭はれ、町割りなどの文化行政に携はった。そして、水野家の家臣からもらった養子を、忠刻に出仕させた。そして、武蔵自身は尾張をはじめとして行脚の者となってゐたらしい。

1626寛永三年には、またも養子を播磨の地侍からもらひ、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠眞に出仕させてゐる。
この時も、武蔵自身は徳川の手に収まりゆく天下を兵法指南を肩書に歩き囘ってゐたらしいが、切支丹騷動が島原の亂となった時に、すでに五十歳の老骨の身でありながら、小倉城主となってゐた小笠原忠眞に從つて出陣してゐる。その時の彼の戰績は、敵の投石に足を負傷し、思ふ存分の働きはできなかったらしい。

その後はまたも主人を變へ、今度は熊本城主の細川忠利の客分として破格の待遇で招かれ、それに應じた。客分としての武藏の爲事は、藩士の劍術指南のやうであった。

晩年を意識した武藏は、その熊本の地、金峰山にある岩戸の靈巌洞に籠もり『五輪書』となる、兵法者としての自分の人生行路を振り返って集大成する書き物を作り、そして、その死の數日前には『五輪書』を要約したやうな内容の『獨行道』を遺書のごとくに作って、六十年ほどの(時代とともに波瀾の多かった)その人生を閉ぢた。



ま、故郷を離れなかった一生と比べれば立派な出世であったらうがが、本人には後悔の強く殘る人生ではなかったか。
私はどうしても彼の同時代者の、しかも同業の武術者兵法者であった柳生宗矩157146と宮本武藏158445を見比べてしまふのである。



宗矩も生まれは武藏と似たり寄ったりの境遇であった。ところが、親父の石舟齋が家康に「無刀取り」を披露して賞讃され、宗矩は家康に仕へることになった。たったそれだけの偶然の切っ掛けが、宗矩の人生を一國一城の大名へと歩ませた。
1600慶長五年の關ヶ原の戰では、軍功をあげて、故地大和柳生に二千石を得、さらに翌年には二代將軍秀忠の劍術指南役となって加増、合はせて三千石の大身旗本となった。武藏も參戰した大阪の役には秀忠の側近として從軍した。
宗矩の出世に最も力を貸したのは彼の「劍術」であった。秀忠に引き續き、彼は次の將軍家光の剣術指南となり、さらなる加増を受け、敍位も得て但馬守となり、初代の幕府惣目付(大目付)に就任、老中や大名の監察にあたった。
1636寛永十三年、さらなる加増によって一萬石の大臺に乘り、下剋上「上がり雙六」大名にまで登り詰めた。彼が戰國時代「下剋上」の最後の體現者であった。

宗矩もまた(『五輪書』と並び称される)『兵法家傳書』を、禪僧の澤庵宗彭157346のチカラタカラを借りて作った。このなかで、彼は劍禪一致の境地を説き、「殺人刀と活人劍」などの巧みな信条を立てて武術の武道化を試み、江戸時代の「侍」文化の基盤を作った。

何から何まで武藏を上囘る宗矩の人生であった。それは武藏が思ひ描いた人生であったにちがひない。
その大成功のまへでは自分の成功など小さすぎて、後悔しないではゐられぬものでしかなかった。
戰へば、自分が勝つ。決鬪する機會さへあったら、と地團汰踏むやうに思ったかも知れない。
彼等二人は、若い時に顏を合はせてゐた可能性がある。場所は奈良。興福寺の大乘院に坊主でありながら鎗の事ばかりに熱中して刃先を十文字にした鑓を發明した胤榮152107がゐた。その名聲を聞いて、武藏は奈良の地に來た。 ‥‥


だが、おそらく、武藏は(たとへ宗矩のやうな機會があっても宗矩のやうには)大名出世できなかったであらう。
武藏は宗矩のやうな人間のタイプではなかった。彼は日本人には稀な、今で云ふ「ノマド」型の人間であった。日本人的な組織には住み込んでいけない、生來の異端者であった。組織に馴染めず、組織から弾き出されるより前にみづから彈き出る、さうしないではゐられなくなる「腰の落ち着かぬ」彷徨者であった。
一方、宗矩はいかにも日本人的な(おそらく陰濕陰險なる)組織者であった。それが彼の劍術指南より以上に徳川政體の組織作りに役立った。
日本人が、農耕民族である日本人による組織&社界で「砂漠を点々として生きていく、ノマド」のやうな職業でありつづけることは至難であるだらう。ノマド的職業であるだらう藝術家にして藝能家にしても、いかにも日本人的にそれぞれの「タコツボ」を作ってチマチマ、キュウキュウとしてゐる國柄なのである。
せいぜいのところ、武藏が演じたやうな(才能の割には)成功とも失敗ともつかぬ程度の人生で終ることになるだらう。
云ふは易く、行ふは難い」生き方なのである。殊に、履歴に一点の汚れも許さぬがごとき日本人の社界においては。

本來、外向的といふより内向的な日本人の「ノマド」的生き方とは、 ―― さう「ニート」になっていくしかないのではないか、日本の現實が圖らずも示して見せてゐるやうに。「ニート」じゃ食っていけない?
なら「ニートがニードになればいいだけじゃないか」と私は呟く。簡單さうに、




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