ゲンジツとゲイジツと。精神の勝利(感)のための心理的方法について

 ゲンジツとゲイジツと。精神の勝利(感)のための心理的方法『比喩と揶揄』


「精神的勝利法」について、魯迅188136の『阿Q正傳』1921をテキストとしよう ――

中國が辛亥革命の頃、そのド田舍の底辺で生きる阿Qなる(つまり名前のわからない)男がゐた。彼は何も所有しない。カネもなければ家もなく、容姿も醜く、名前すら持たない。村人のイヂメケヂメの対象で野良犬に變らぬ扱ひを受けてゐる。だが、異樣に自負心強く、かつその維持法も「精神勝利法」といふ獨自の工夫を捻出するほどで、村人のイヂメケヂメを受けると「昔はオマヘ等よりずっとオレは偉かったんだ」とイヌの遠吠えに怒鳴り返し、このやうに何事も手前勝手に都合よく解釋して、ゲンジツを變樣させて、自分の精神を勝利へと導いていく。時には、この勝利感に泥醉しては大失態を演じ、いよいよ村の嫌惡者となって進退きはまった時、革命黨の軍の接近のことを耳にして、革命家になりすまして村人に報復を始めるが、 ‥‥

{精神にチカラタカラを保持しつづけるために、私は阿Qをゲイジツ家と想定したうへで、その「精神勝利法」を推擧する。實質的に、不遇なるゲイジツ家なる者がゲンジツのなかで己の志を維持しつづけるには「ほんたうはオレのはうが全然偉いんだ」と自分に言ひ聞かせる、これ以上の、といふよりこれ以外の方法はないであらう。「願はくは我に艱難辛苦(正しくは七難八苦らしい)を與へたまへ」と山中鹿之助よろしく月に吠え、雄々しくゲンジツへと立ち向かっていくタマシヒ(これを私はゲイジツ的と命名しよう)、自己欺瞞の最たるものであるが、精神力とはまあかういった類の「ダマシ」によるチカラタカラなのである。そして、事實、この阿Q的「精神勝利法」によって冷酷非情なるゲンジツに對決し、時に打ち勝った大ゲイジツがこのあくどきあざときゲンジツに何物にも代え難い錬金としてもたらされたのである。勿論、そのゲイジツ家のゲンジツは多く悲慘なるまゝであったらうが。いづれ、ゲイジツなどなきゃなくてもどうでもいいやと思ってゐるゲンジツ家ばかりなのだらうが、それではこの人間世界はほんたうにゲンジツだけの、人間といふケダモノだけの世界になってしまふだらう(そして、現実さうなってゐる)。
{ちなみに、この阿Qが利用としようとした革命軍の思想的指導者は孫文186625であったが、この人のゲンジツもかなり阿Q的なものであった。が、不思議なことに孫文は(司馬遼太郎によれば)「負けつづけながら大きく」なっていき、遂には中國革命の父とまでなったのであった。阿Q的「精神勝利法」を孫文はゲンジツにおいて實踐、勝利させてみせたと云ってよいであらう。だが、
{孫文は日本人とも關係が深く、その不遇時代を支へたのは日本の(遲れてきた)革命家、宮崎滔天187122山田良政186800などであった。彼等が孫文を援助したのは、維新革命の理想が日本では十全に実現されなかった事への自省と反發にあったとする解釋もある。孫文自身も「日本の維新は中國革命の原因であり、日本の維新の結果であり、兩者は元々一つに繋がる東亜の復興を達成せんがためのものである」と言ってゐる。だが、この理念も中國革命そのものも忽ち日本同様、中國のゲンジツ家に侵蝕されてしまふのである。

「阿Q」的精神勝利法をもっと筋金入りのものにするには「ドンキホウテ」的精神勝利法といふものが考へられるであらう。
ドンキホウテの精神とは、私流に端的に定義すれば「負けたと云はぬかぎりは負けたのではない」といふものである。もうゲンジツ完全無視の、生死など突き拔けた特攻的精神である。これ以上に強い精神状態は(すくなくとも私には)考へられない。阿Qがキチガヒ状態なら、ドンキホウテはキチガヒにハモノの状態であり、ゲンジツはこれに調子を合はせていくか、さもなくば病院あるいはあの世へと送りこむしかない。それで事が一件落着とすめば問題ないのだが、ドンキホウテの狂氣の物語がいまだに強烈な影響力を持ってゐるところから判斷しても、どうやらかうした精神力なるものは人間性の本質深くに係はってゐるやうで、ゲンジツ的な利害得失の感覺で判斷、處理しようとすると「角を矯めて牛を殺す」といふ破目にならぬともかぎらない。

「ドンキホウテ」をあげれば「ハムレット」をあげなければなるまい。
これは失はれた自分のゲンジツ(王權)を取り戻さうとして、狂氣=ゲイジツを武器にゲンジツ對決していく精神の演劇であるが、彼が本物のキチガヒにはなりきれず、狂氣を裝はなければならなかったといふ点に彼の行動力のアキレス腱があったやうに思はれる。中途半端なのだ。もっと「關節外し」をやるべき時に「外れてしまった關節を、自分が直さなければならないとは」と云ってるやうでは、行動力は突破の破壊力を減殺させてしまふ。事實、彼はあちこちで躊躇を繰り返すのである。だから、むしろハムレットの場合「精神勝利法」といふより「精神敗北法」と呼んだはうがいいのかも知れない。敗北法が勝利法に劣ってゐるわけではない。敗北法には敗北法、獨特の價値があるのである。熱中できない、キチガヒにならうとすればするだけ逆に冷々と醒めていってしまふハムレットは王權鬪爭をおこなひつゝ王權そのものに幻滅していく。自己同一化させていく対象を喪失していくのである。何者からも切り離されていき、まるっきりの孤獨となっていく、さうしたなかでの自己劇化にこの「精神敗北法」がきはめて有効なのだ。

「ドンキホウテ」「ハムレット」と續ければ、次はギョエテの「ファウスト」か。
時よ止まれ、汝はうつくしい。わが地上の日々の事績は永遠に滅びることはない。さう豫感できる幸福感で私は今最高の瞬間を味あふのだ」と勝利感に酔ってファウストは歌ひあげる。
要するに、ゲンジツを夢想のチカラによって變樣させるといふ或意味、阿Q的精神勝利法であり、その取り得は対象が外のゲンジツではなく内のゲンジツ、自分自身の内觀にむけられてゐる点くらゐであり、ま、その分、最も安直な精神勝利法であり、私をはじめゲイジツ志向の者たちの常套的方法であって、ゲンジツ對決といふよりゲンジツ回避による勝利方法である。いかに自分をゲンジツから隔離して「涅槃寂靜」「即身成佛」していくか、血の気の失せた「精神の貴族」用の精神勝利法であり、これを日和見的に外界に持ちだし、素朴粗暴に振舞はせれば「阿Q」的精神勝利法となる。

さて、この後「ドンファン」的、「ラスコリイニコフ」的、と續けてもいいのだが、面倒臭くなった。

さて、この現代人における「精神勝利法」とは如何なるものであらうか ――

現代人は先づ以てゲンジツに對する精神を持たなければなるまい。
現実にたいするに現実では、そのチカラタカラは高が知れてゐる。多分、その時には、日本人では平均やら平等などの教へ込まれた後生大事な價値觀のもと「寄らば大樹」「長い物には巻かれろ」のゲンジツ一点張りの志向しか發生しない。周圍と比較して多いか少ないかの差異によって自分の人生の成功失敗を評價して自足せざるを得ないゲンジツに打ち負かされ、それに太刀打ちする氣力も武器も持ってゐない。これでは、人畜無害だけが取り得で、阿Q以下と云はざるを得まい。最初から與へられたゲンジツだけがその世界感なのである。かうした場合、ゲンジツを乘り越えても、また似たようなゲンジツに對面するだけのことだ。失敗は無論のこと、成功も疲勞感をもたらすだけのことであらう。
成功とはまさしく性交のやうなものだ。勝利感、征服感はたしかにある。ま、殆どの人はこの勝利感なり征服感で充足できる/してしまふのであらうが。だが、この勝利感は(百人切り、千人切りと云ふやうに)量的なものでしかなく、質的なものとはなり得ない。そして、その先に待ってゐるのは「ドンファン」的虚脱感、云ってしまへば(なんたる徒勞であったことかといふ)惡質なる「精神敗北法」の實踐となるしかないのである。ゲンジツ對ゲンジツの合はせ鏡の状態では不可避的にさうなってしまはざるをえないのである。

ゲンジツに對峙ないし對決しうる精神、それは(すでにヒントはあたへてある)ゲイジツ的態度である。この精神のチカラタカラを持つ事によって、現実は相對化され、經驗體驗は飛躍的に精神的なものとなり、そこで初めて精神の勝利とか敗北とかが云々できるやうになる。

では、どうすればゲイジツが獲得できるのか ――
それは、自分自身で苦惱して、工夫して取り組んでいくしかあるまい、といふ他ない。師匠なんか求めてはいけない。今の日本に師匠足りうるやうな精神の持主など一人もゐない。たんなる専門知識の持主がゐるばかりだ。
それに、今の日本では、他人の體や心に觸れることは()恐ろしい事件に卷き込まれかねないからね。氣を付けなければならない。私は説得してゐるのではない、呈示してゐるだけだよ。



↑ Art of Heart ――――――――― 思考 69 空想 ――――――――― Word of World ↓