「エピキュリアンにしてストイック」わが美學と存在論;『少年の完成』


「エピキュリアンにしてストイック」わが美學と存在論;『少年の完成』

アベノミックスのおかげか、株式市場が絶好調である。最近の高騰ぶりは日本經濟の實態と乖離を強め、バブル的になってゐるやうに感じられる。いづれイキ馬の目を抜く世界のことだから、ババを引かぬやう(もうさういふところに來てゐる)せいぜいお氣を付けあれ(と一應長いだけが取り得の株式市場の經驗の持主として申しあげて時候の挨拶とし、さて ―― 私の「語る」ことと言へば、私に關聯した事となるしかない。


親のスネはたいしたことはなかったが、時代のスネは囓りがひがあった。
私はほんたうにいい時代に、日本史上、いや世界史上稀に見る好景氣、繁栄の時代に生まれあはせたのであったのだと思ふ。この右肩上がりの、驚異の高度經濟成長を續ける日本經濟に(株式投資といふ方法で)私は寄生した。
無論、私に株式運用の才能があったわけではない。時代が空前絶後に好景氣だっただけの話だ。
私は定期預金するより、国債を買うよりもマシだらうといふだけの判斷で株を買った。そして、定期預金のやうに国債のやうに、平生は株価を調べることも忘れた。時々、株のことがマスコミの話題になると思ひだしては売買した。ニュウスで暴騰と聞けば売り、暴落と聞けば買った。それで、倍々となる感じで金額が増えていった。生まれついてのヘソ曲りのおかげか、人が容易にできない事が簡單にできた。
それが結果的に「安い時に買って、高い時に得る」といふ株式運用の王道に適ってゐただけの話である。しかし、これも「時の運」に巡り合はせたおかげであった。
株も騰がれば、土地も上がった。ゴルフ会員権の相場も暴騰した。持ってゐる財産がすべて高騰した。
日本中がカネまみれのアワ踊りに浮かれた。そして、それが何の前兆もなく、花吹雪の幕を切り落とすやうにして時代は一變した。
私がすべて合はせれば「億」持ちの資産家だと氣付いたのは、それらがアワアワ、粟泡と、バブルとなって彈けた後になってからであった。棚から牡丹餅を食ひ損ねたことも夢から夢へと云った感じで實感はなかった。今度はうまくやらう、と私は日本經濟の先行きを信じて疑はなかった。だが、日本經濟は再興しなかった。
暴落のニュウスは聞いても暴騰のニュウスを聞くことは稀になった。
私は塩漬けにした、身の細った株を必要におうじて切り売りしては生活の糧としてきた。別段、不足は感じなかった。
思へば、(自分から云ふのは口幅ったいが「禁欲」をわが美學と存在論として生活してゐたので)榮華の時代も贅澤と云へば本やレコウドなどの費用くらゐなもので、落ち目の經濟状態となってできなくなった(と云ふよりしなくなったのは)それくらゐのもので、零落とか歎息することもなくわが生活を「淡々坦々」と營んでいった。

禁欲的である事が男性としての「美學と存在論」の第一条件だと自分自身に定義したのであった。華美は肥滿と同様、醜惡であった。かうして、エピキュリアンな私はストイックに生きた。おかげで(と私は思ふのだが)、わが生は清潔なる快樂にみちたものとなった。この現代人には素寒貧の乞食同様の生活にしか見えないだらうが。

『少年の完成』

生活資金はジリ貧に殘り少なくなってきたが同様に私の人生の時間も殘り少なくなってきて、これも計算どほり?、經濟状態がプラスマイナスゼロとなったところが、カネの切れ目がエンの切れ目、この世とおさらばする時だと念じてはゐる。べつにもう何時死んでもかまはないつもりなのだが、この生が老病によって不快なるものにならないうちは、たった一度の人生なのだから、せいぜい思ひ殘すことのないやうに、行けるところまで行ってやらうとは思ってゐるのだが、一應の覺悟は付けておくつもりで。


結果的に、かうして私は時代のスネを囓って、わが人生を思ひどほりに過ごすことができた。時代の好運に惠まれ、それを果敢に活かし得た自分もなんだか譽めてやりたくなる。私にあたへられたこの地上の時間をまるごと自分だけのために使ひ(まあこれには色々樣々批判はあるだらうけれど、そんな人間社界の絆の事など識ったことではない。人間らしく生きるといふことに嫌惡を抱き、坊主が遁世出家するやうに、私はたゞひたすら人間の世界から逃避して生きたかったのだから)、
カネに追はれることもなく、追ひまはすこともなく、貧乏もせず贅澤もせず、好きな事だけにウツツを抜かし、夢見るやうにおもひどほりの人生を過ごすことができたのだから。
自慢話のやうになってしまった。



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