「國語の將來」をよんで「世界の未來」をおもふ:『思考と空想』

「國語の將來」をよんで「世界の未來」をおもふ:『思考と空想』


{柳田國男187562が、1938昭和十三年に折口信夫188753が奉職してゐた國學院大學で講演し、翌年出版した『國語の將來』をその全集本で讀んでゐる。

柳田國男187562『國語の將來』「國語の成長といふこと」

 國語といふコトバは、それ自身新しい漢語である。これにあたる語は、古い日本語のなかにはないやうに思ふ。コトバはたゞ國語の一部分、その一つ一つの言ひ表はし方の名であったのを、何時の頃よりか全體のものをもその名で呼ぶことになったのは、成長であった。もとは「ことのは」とも云ってゐたのをみると、多分は草や木の葉に例へたもので、それが年々に繁り榮えては、やがてまた散り失はれ、ふたたびその跡からおほよそは同じ形のものが次々に芽を吹き伸びていくことを最初から承知し、また宛にしてゐたやうに思はれる。
 文學はこれに對立して、少しづゝ古い形のものを保存させようとしてゐた。さうして、記録と文字とはそれを助けたのであるが、しかも大勢はこれがために餘り動かされてはゐない。たとへば、今日、誰の文章、誰の演説のなかからでも、かりに千なら千のコトバを拾ひ集めて、竝べて分類してみるとすると、百年以前にも使ってゐたものは半分よりもずっと少なく、『古事記』や『萬葉集』の頃からあったといふコトバは見つけだすにも骨が折れるくらゐであらう。すなはち、コトバは生まれ替はってゐるのである。新しいものと考へ方とが多くの新しいコトバを必要としたといふことも無論あらうが、國語變化は決してそれだけには止まってをらぬ。食ふとか寢るとか、子とか母とかいふ昔ながらの區域までも、古い「ことのは」はもう古代のまゝでは殘ってをらぬのである。


{讀みながら、おのづと自分の國語感、コトバ觀への思ひ考へが強くなっていく。
{以下は、讀書しながら、おのづと書き始めたゐたもので、ほんたうの「書きっぱなし(推敲するとこの何倍もの量になってしまふ)、讀みっぱなし」してください。



コトバはイキモノだ。流行モノだ。流行っては廢れゆく、一種のアメーバ的イキモノだ。
さうした流動物だからこそ、或程度以上の持續力を持たせるためには、記号を用ゐて定着しなければならなかった。記号表現によって、コトバは枠を得て、意味を安定させ、標準化、普遍化が可能になった。
コトバは「話す」に「書く、讀む」が加はって、人間にとってのもっとも肝心な道具、思想=思考と空想との道具となった。

コトバは人の集まる所に自然發生的に生まれては新陳代謝、亡んでいった。
人々は互ひに「通じあふ」ためにコトバを用ゐると同時に「通じあはない」ためにもコトバを工夫した。
「通じあはない」とは、内には解るが外には解らないといふことで、自他を明確にするために、自分たちの世界を結界するためにコトバを用ゐた。かうして、隠語から方言、そして、各國の言語が成立したのであった。
ゆゑに「バベルの塔」の話は眞っ赤なウソ、多言語化は神樣がさうしたのではなく、人間がさうしたのだ。

近現代に入って、コトバをマスコミが管理、操作するやうになった。
マスコミで日本語の標準語ができあがっていった。方言は驅逐されていった。
新聞、ラヂオにテレビが加はったことで、日本語は目に見えて低劣化していった。
マスコミは日常茶飯の洗腦裝置である。日本語はたちまち彼等に占領されてしまった。
マスコミはコトバの生殺與奪の權力を持った。
そのための惡魔の天使にされたのがマンガとアニメだらう。
日本人はマンガとアニメに席卷された。それから、それをもとにしたゲイム。
口移しにあたへられる流動食に、日本人の咀嚼する能力、自分自身で思ひ考へる習慣は失はれていった。

讀む・書くといふ文化的習慣は日本人から衰退していった。


マスコミはコトバの番人となった。コトバ狩りの兵士となった。
かうして、コトバは管理され、現實にそぐはなくなっていった。
差別語、禁句、等々、發音から文章まですべて彼等が管理する
天声人語めかして、コトバはツルギ、まことに以てペンは劍より強し。
マスコミは所詮、權力の侍女「キレイキタナイ、キタナイキレイ」の魔女たち、


インターネットの時代となって、人々はコトバを取り戻し、つゝあるのだらうか。
だが、インターネットにはインターネットの統制機關がある。
たとへば、インターネット用のあらゆる種類のアメリカ發の ハード&ソフトは無意識的にせよ、アメリカ文化の mission を担ってゐる。 新世界からの旧世界への宣教師、文化的なる侵略者なのである。アメリカは旧世界からエクソダスして作られた New World であり、本質的に旧世界に對立してゐる。彼等は旧世界からの離脱者、落伍者であった。その怨念、ルサンチマンがアメリカの無意識のなかに蟠ってゐる。云々
インターネットはアメリカが仕掛けた全世界への覇権的挑戰なのである。そして、コカコーラ以上の成功を収めた。
彼等のブンカのうちに採り籠められていってしまふ。

インターネットによって日本語にもたらされてゐる弊害、致命的なほどの ――
たとへば、檢索上位の場所を確保せんがために、ウエッブページの形式はステレオタイプ化し、用語も表現も管理された=規制したものになってゐる。かくして、檢索大手の思ひのまゝに操作されることとなっていく。
SNSは隣組的相互監視を自分自身でやるやうになり、サエズリの字数制限の短文主義は刹那的、感情的表現を專らとさせ、冷靜なる立論記事を冗長なものに感じさせるやうになった。今では、本氣に三行以上は長すぎると日本人は感じ思ふやうになってゐる。文章をまともに讀む、そして作る習慣はかうして失はれていく。
まとめ、まとめのまとめ、まとめのまとめのまとめ、 ‥‥ 延々とこんなバカげたことが至極マヂメにおこなはれてゐるのだ。この「王樣の裸」ぶりを私はどうしても指摘したくなる。
かうして、ネットの情報は冗長となっていく。幾重にもしかけれられた階段状の迷路となっていく。それも計算のうちかも知れぬ。
インターネットは情報のゴミ捨て場、ゴミのなかにはタカラも混じり、クソミソ玉石混淆の「夢の島」状態、それを Big Data とか稱しての Data mining 、檢索力を競ふ發掘作業が最新のビジネスとなってゐる。 ←今、こゝ。

情報は氾濫し、過多となり過剩となり、檢索といふ便利に慣れて選別する習慣も能力も失はれ、
ニュウスの類は、類似した内容の=ほとんど見出しだけの記事の無數の羅列となってゐる。どれを見ても、性急、亂雜な情報の報告だけ。互ひに互ひの引用と剽竊による同工異曲の記事ばかり、讀めば讀むほど理解よりも混亂がもたらされるだけの。
マスコミに代はるにこれらミニコミによる、かうした砂塵の蜃氣樓のなかで、我々はコトバとイメジを散亂させながら「響きと怒り」の文盲状態となっていく。洗腦の窮極の状態

オープンワアルド、ビジネスビジネスと動き働いてゐるうちに、何時の間にかと云おうか(おのづからと云ったはうがいいか)、現実よりも露骨に現実的な、ヴァーチャルリアリティのディストピアを人類は出現させたのであった。
インターネット、バベルの塔!
この人類の手は、握りしめるものをすべて黄金に變へやうとして(下手な錬金術師のやうに)ミソをクソにしてしまふ(とんだミダス王)。
人間の手にかかると、あらゆるユウトピアの思想=思考と空想とはたちまち「ゴクラクヂゴク」のディストピアと化してしまふ。思想に罪があるわけではない、元凶はすべて人間、その性質にある。

二十年前、インターネットがこの地球を被ひだした時、それはユウトピアへの夢想であった。
それが、たちまち、イロとカネ、現實以上の現實性で幾重もの蜘蛛の糸となってこの地上を覆ってしまった。
グルグル卷の蜘蛛の糸のなかに閉ぢ込められ、(自分としては)子宮的な繭のなかに閉じ籠り、現實と非現實との境界を暈かした、まさしくヴァーチャルリアリティの世界、時間は永遠性を帶びて、ユメかウツツかマボロシか、 ‥‥



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