「思想の花束」、珈琲のかをりとともに、五月の朝に

「思想の花束」、珈琲のかをりとともに、五月の朝に

{今日は日曜日。朝は五月に晴れて、寒くもなく暑くもなく、私は食後、かつて紹介した「最も簡便なる」淹れ方で珈琲を書室に香らせ、明窗のもとなる淨机に向った。さて、今日は何を作らうか。わが稀少にして貴重なる讀者諸氏の知情意に少しでもお役に立ちさうなもの、と心地よき氣候に心優しき氣分となって、老賢者ぶって「思想の花束」を作って進ぜることとした。


Miracles happen to those who belive in them.
鰯の頭も信心から(昔、節分の夜に鰯の頭を柊の枝に刺して門口に飾ると、鰯の臭気が邪鬼を追い拂ふと信じられた)。
=「竹箒も五百羅漢」

Never up, never in.

He that would the daughter win must with the mother first begin.
=將を得んと欲すれば、先づ馬を射よ。杜甫071270『前出塞』

Never up, never in.

Better be the head of a cat than the tail of a lion. 
Better be first in a village than second at Rome.
=鶏口となるも牛後となるなかれ。『史記』蘇秦列傳
=芋頭でも頭は頭。鯛の尾っぽよりも鰯の頭(やっぱり、日本人は志が低劣!と慨歎したくなります、ね。

Never up, never in.

乾坤一擲=Alea jacta est
戰地より「 Veni, vidi, vici 」(來た、見た、勝った)といふ史上最短とされる報告書をロウマに書き送り、凱旋の途中、ルビコン川を渡るに際して、「 Alea jacta est !」(サイコロは投げられた)と全軍に怒鳴って、ロウマに進軍、ここでもおそらく「 Veni, vidi, vici 」とうそぶきつゝ、共和制のロウマを掌中に収め、終身獨裁者となり、「わが發言は法律とみなされるべきだ」などと驕り高ぶりながら、内心には「思ひがけぬ死、突然の死こそ望ましい」と臆病を抱へ、そのとほりに彼が最も愛した男の肅清暗殺の刃を受けて「Et tu, Brute !?」(ブルウタス、おまへもか)と叫んで、息絶えた政治家にして軍人であり文人でもあったガイウス・ユリウス・カエサルがまさに「カエサル(皇帝)」にならんとして云ひ放った野望野心の激語。「サイコロは投げられた」などと譯したのでは間が延びてしまふ。漢字四文字簡潔に「乾坤一擲」と譯さなければ、古代ロウマの文人にして軍人の、一世一代、人生を賭けた瞬間の霸氣は轟いてこない。どうもやっぱり日本語は悠長で、まあそれはそれはそれでいいところも多々あるのだが、英雄を生みだすチカラタカラに欠けてゐた(それも考へやうでは日本語のチカラタカラ、長所であったのかも知れないが)。
英語では「The die is cast.」と云ふらしいが、映画のやうにロウマ人が英語を話してゐたら、このカエサルの命を賭けた宣言も「死へ投げだされる」やうな暗澹たるニュアンスを帶びてしまひ、兵士たちの意氣は盛りあがらなかったのではないかと想像される。
なほ、こゝで私が簡略だけを求めて記したカエサルは(セクスピアのドラマ、またアメリカのシネマ同様、それ以上に)史實に即してはおりません事、お斷りしておきます。

Never up, never in.

勝てば官軍、負ければ賊軍。
=He that would the daughter win must with the mother first begin.

Never up, never in.

無理が通れば道理引っこむ。
無理を通せば道理引っこむ」は誤りと云ふが、似たやうなものだらう。むしろ、私ならかう云ひたい「道理通せば無理はなくなる」。その心は、道理には無理がない(道理には無理があってはならないのだから)。
所詮、人生、結果論。無理だらうが道理だらうが「勝てば官軍、負ければ賊軍」。力は正義。刃に向ふ道理なし。無理も通れば道理となる。「大道廢れて仁義あり(『老子』にあるコトバです)」か、

Never up, never in.

斷腸の思ひ『世説新語』
内臓を斷ち切られるほどに哀切なる思ひ。中國古代、晉の武將であった桓温が蜀を攻略しようと三峡を渡った時に從者が猿の子を捕まへた。母猿は後を百里ほども追って、船に飛び乗ったが、その時命絶えた。その腹を割くと腸はズタズタに千切れてゐた。といふ故事が成句となったのであるが、どうしてこの時、死んだ猿の腹を割いたのであらうか、私が氣になったのは先づはその点であった。きっと食べるためであったと推測するしかない。ズタズタの腸を見てシメシメ、手間が省けたと思ったに違ひない。だから、この故事の最初の意味は「哀切」などと何の關係もない、むしろその逆の「棚から牡丹餅」または「エビでタイ釣る」に近いニュアンスではなかった、かと想像されてしまふのである。なぜなら、小猿はもうとっくに食ってしまってゐただらうから。私の想像が殘酷なのではない。戦場へ向ふ船上といふ現場状況がさう思はせてしまふのだ。
ちなみに、英語では、To eat one's heart out. と云ふらしい。これもちょっと、今度は「心臟を食ふ」といった字面で、「猿の斷腸」よりもさらに殘酷なる想像を誘ふ。

Never up, never in.

天網恢々、疎にして漏らさず。『魏書』
元は『老子』の「天網恢々、疎而不失」であった。私は若くして『老子』の信奉者となったが、この句はいただけなかった。「天道、是か非か」と疑惑して『史記』を作った司馬遷-14586に負けないくらゐ、私もこの『老子』の「てんもうかいかい」を疑った。そして、「天網怪々、疎にして漏らしつ」と否定的にダジャレ、「陰毛かいかい、接して漏らしつ」とまで貶めてしまった。はづかしいかぎりである。まことに以て、去勢され宦官とされても發憤して『史記』百巻を作った司馬遷にたいして合はせる顏もない。慚愧に耐えず(とはかういふふうに使はなければなりません。政事家諸氏よ)。慚愧に耐えずと「遺憾のきはみ」と同じ意味では全然ないですよ。「慚」とは自分にたいして恥ぢること、「愧」とは他人にその氣持を示す、といふ佛教用語ださうです。

Never up, never in.

天上天下、唯我獨尊。
福澤諭吉183501の「獨立自尊」とともに私の愛用するチカラタカラのコトバだが、これも今日此頃の日本人にはなはだしく「誤解」されて、しかも「嫌惡」されてゐる。生まれたての御釋迦樣が初めて口にした御言葉だといふのに。
出典は佛教の『長阿含經』(讀んだ事も目を通したこともありません)、誕生したばかりの、將來釋迦となる赤裸々なるタマシヒが、四方に七歩づゝ歩き、右手を上げて天をさし、左手は垂らして地を示し、そして「天上天下、唯我獨尊」と人間宣言をなされた。この「我」は釋尊本人ではなく、人間一般、有生一般を言ってゐるのである。そんなの、解りきってるだらう。どうして、釋迦が自分で自分を自画自賛して「私だけが獨り正しい」なんて云ひますか。ま、御釋迦樣ならさう言ってもいいのかも知れないけど。私も内心では、 ‥‥ 。でも「能ある鷹は爪を隠す」でなければいけません。諭吉の「獨立自尊」で我慢(これもちょっと現代人には誤解のある佛教用語)しておきなさい。
それにしても放埒なる超脱個人主義を横溢させて憚らない日本人がどうして「唯我獨尊」を忌み嫌ふのだらうね。「和を以て貴し」とする日本的平和主義、平均主義、平等主義のなせるシワザなのだらうか。

Never up, never in.

お昼になった。もう止めた。




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