「お雇ひ外國人、ベルツの事」、日本人のために


「お雇ひ外國人、ベルツの事」日本人のために:『日本への國粹』のために


鈴木大拙187066は、日本文化を持って海外に出て行った。そして、一生掛けて世界中に日本の禪宗佛教文化を流布した。
逆に、明治維新の日本を早急に文明開化させるために、高給をエサに日本に呼び集めた通稱「お雇ひ外國人」たち、彼等の多くは日本の風土と文化に慣れ親しんでいくにつれ、この世界に類例のない歴史と文化を持つ日本が西洋文明によって滅ぼされていくことに懸念と愛惜とを持った。

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「日本近代法の父」となったボアソナド182510(1873明治五年、來日)
明治天皇や西郷隆盛を描いたキヨソネ183398(1875明治八年、紙幣制作の技術者として來日。日本美術の蒐集家となる)
Boys, be ambitious  ( like this old man )」と鼓舞したクラーク182686(1876明治九年、札幌農學校教頭)
鹿鳴館などを設計したコンドル185220(1877明治十年、來日)
藥師寺の東塔を「凍れる音樂」と評したとされるフェノロサ185308(1878明治十一年、來日。東京帝大で哲學とともに政治學から經濟學まで講義、それを聽いた者に岡倉天心坪内逍遥がゐた。美術は専門ではなかったが、日本の美術に魅惑され、天心とともに廢佛毀釋の吹き荒れる古刹の社寺を訪ね、多くの日本美術を救ひだし、また二人で東京美術學校(東京藝大)を設立した。
哲學と音樂を教へたケーベル184823(1893明治二十六年來日、東京帝大教授、夏目漱石もその講義を受けた)
『怪談』小泉八雲ことラフカディオ・ハーン185004(1890明治二十三年來日、翌年日本人女性と結婚、日本で死亡。交遊のあった同じ「お雇ひ外國人」のチェンバレン185035(日英事典を作った)は、彼を評して「幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅した」と言った。
明治維新のために雇はれた彼等の多くが(明治維新の立て役者たちと同じ年頃の)若者たちであった。

この「お雇ひ外國人」のうちの一人に、ベルツ、Erwin von Bälz 185913 がゐる。ドイツ、プロイセンに生まれ、ライプチッヒで醫師となり、1876明治九年、二十七歳の時に來日、東京醫學校(現在の東京大學醫學部)の教師になった。專門は内科であった。以後、日本人女性を妻とし、天皇家の侍醫ともなり、二十七年の長きに渡り日本に滯在し、1905明治三十八年、夫人ととも離日した。その生涯をほゞすべて日本の近代化のために捧げてくれた恩人である。



日本滯在中の彼はその日記に、当時の日本について醫師らしい臨床的な觀察力と他國者の客觀性とで文明開化に直面した日本人について批判的に分析してゐる。
懸命に、そして賢明に西洋を受容する明治日本にたいして、感心しながらも、その急激な變身によって失はれていく(世界でも貴重な獨自性を持った)日本文化を愛惜し、西洋文明に浮かれて日本なるものを全否定する日本人を憂慮する。昔から有名な部分だが、引用しておかう。
不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去について何も識りたくないのだ。それどころか、教養ある知識人たちは日本文化について恥じてさへゐる。「なにもかもすべてが野蠻であった」「明治維新の我々には過去の歴史など存在しない。我々の歴史は今始まったのだ」とさへ云ふ日本人すらゐる。このやうな現象が急激な變化にによってもたらされたのは理解できるとしても、私には大變不快なものであった。日本人自身がこのやうに自國の固有の文化を輕視するやうであれば、外國人は却ってかうした日本人を信頼しなくなるだらう。それよりなにより、現在の日本にとって必要なことは、先づは日本文化の財産について冷靜に檢討し、これを現在と將來へと殊更愼重となって適應させていくべき時だらうに。

彼は專門の醫者として、「日本人そのもの」についても強い興味と關心を持った。
來日して東京に在住したベルツが日光見物に行った時、その距離110km、彼が利用した「足」は馬で、それを六度乘り換へて、十四時間かかって到着した。二度目に行った時には、人力車を使ったが、前回の馬の時より半時間余計にかかっただけであった。しかも、人力車はたゞ一人の車夫が引き續けた。
この日本人の體力にベルツは驚いた。訊けば、食事は「玄米と梅干、味噌大根の千切りとタクワンだけ」と云ふ。普段も穀物中心の粗食であった。西洋的な榮養學に詳しいベルツはこれをフシギに思ひ、簡單な實驗を試みた。

二十二歳と二十五歳の車夫を雇ひ、一人には従来の日本食、もう一人には肉付きの西洋的食事を攝らせ、毎日、80kgの荷物を40km、運ばせた。三日もして、西洋的食事の車夫は走れなくなり「日本の食事にしてくれ」と云った。日本の食事に戻すとまた走れるやうになった。
この結果に、ベルツは日本食のよさを確信した。
{だが、私のやうな素人でも反論してしまひたくなるのだが ―― 同じ時代の中國には「苦力」があり、日本の車夫と同じくらゐの體力はあったらうが、彼等は中国式の粗食であったはずだし、また、ヒマラヤ登山の荷役となったチベット人の體力も驚異的なものであったし(その食事は地元の粗食のはずだ)、西洋でも古代のガレー船の漕ぎ手にしたって同様だらう。つまり、それぞれその風土のなかでできあがっていった食事と彼等の職業とが驚異の「チカラタカラ」となってゐたのであって、日本食自體にその原因があったといふわけではあるまい。それに、同じ和食を取ってゐる他の日本人に共通してかうした驚異の體力があったわけでもないだらうし。と云ひながら、私自身は玄米の和食主義なのであります。

ベルツは日本食に惚れこみ、母國ドイツにも菜食中心の食事を持ちこもうとさへした。そして、日本食の優位性を明治政府にも説いたが、明治政府は西洋の榮養學理論を信用し、フォイトの「歐米人並に體を大きくする榮養學」のはうを採用した。明治以來、日本人の日本否定、自己否定はおよそ徹底したものであった。
また、
ベルツは鹿鳴館での日本女性の衣裝を「コルセットは日本人には合はないから、和服にしたはうがいい」と進言したが、これも明治政府は採用しなかった。
さうしたあげく、急激に變りゆく日本人を見てベルツは呟く「これからの日本の女性は、これまでの日本女性が持ってゐた優しさ淑やかさを失っていくのだらう

ベルツの妻ハナ

1902明治三十五年、東京帝大を退官する時、ベルツはかう日本の後進に忠告した。
日本人は西洋の學問の成り立ちとその本質について大いに誤解してゐるやうに思はれます。日本人は學問を、年間に一定量の爲事をこなし、それを簡單に他所に運んで、動かせる機械のやうに考へてゐるやうです。だが、それは誤りだ。西洋の學問世界は機械ではなく、一つの有機體であり、あらゆる有機體同様、花を咲かせ實を付けるためには一定の氣候、一定の風土を必要とするのです
この二年後、1905明治三十八年、ベルツは夫人ともどもドイツへと歸國した。
この離日の原因は、前年二月に始まった日露戰爭の状況下、日本政府から外國人にたいするスパイ容疑へのベルツの反發であったのかも知れない。
「恩を仇で返すとはかういふことじゃないか」と私は日本人として、日本人を恥づかしく思ふ。



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