『崇徳院』と『千早振る』、私の落語。日本の話藝について



日本人の「聲」の文化、話藝の傳統について

私の幼少時、テレビはまだ一般家庭にまでは普及してゐなかった。私が物心つく頃の、茶の間のメディアの主役はラヂオであった。
日本人の親によって日本の國に生まれたのだから当然だが、日本語を覺え慣れ習ひゆく過程にあった私は、ラヂオから聞こえてくる話藝、落語やら講談浪曲などに聽き入った。それは話藝といふよりも或種の音樂的な體驗のやうでもあった(やうに思ふ)。
そして、やがて、私の好みは落語へ一邊倒になっていった。その頃、落語が百花齊放のたわわなる黄金期にあったせゐかも知れない。志ん生、文樂、圓生、金馬に正藏、それに三木助などなどまさにキラ星のごとく、
さらに、私の落語の好みは古典落語へと限定されていった。
さうやって、私は明治維新以後の時代よりも先に江戸時代に、しかも庶民の側から親しんでいった(やうであった)。

・はっつぁんくまさんたちの抱腹絶倒なる長屋咄
・若旦那たちの演じる郭噺、私が愛聽した落語での三大名人藝をあげれば、五代目古今亭志ん生の『唐茄子屋政談』八代目桂文楽の『明烏』『船德』とどっちを撰ぼうか迷ったが)と三代目桂三木助の『へっつい幽霊』であるが、これらの話の主人公は皆色戀沙汰の「若ダンナ」たちの話であった。
・人情話に怪談物、これはあんまり好まなかったが、音聲だけの情話や怪談のはうが却って情趣が深いことをその後の演劇やら映画の經驗で感じ思ったりもした。
それから、
・歌舞伎浄瑠璃などをおもしろおかしく噛み碎いたうへに聲色kowairo付きの解説めいたのやら名役者の藝談めいたのやら、{これらが實際の淨璢璃や歌舞伎の鑑賞におおいに役立った。
これらの古典落語は江戸時代についての一種の百科全書的、江戸時代へのタイムトラベルであった。
そして、江戸時代はそれ以前の日本に直結してゐた。

そんな落語のネタのなかに『崇徳院』とか『千早振る』とか、日本の古典文學を題材にしたものがあった。

『崇徳院』のはうは、『百人一首』の崇徳院の歌「瀬を早み岩にせかるる瀧川の 割れても末にあはむとぞ思ふ」をネタに、若旦那の純情なる戀の病とその周圍の騷動ぶりを描いたもので、話のなかの「せをはやみ」の連呼でたちまち私はこの和歌を覺え、ついでに『百人一首』、そして(ずっと後になってだが)崇徳院111964(その當時、天皇は院と云った)の出生からその配流先での崩御にいたるまでの異常に充ち満ちた生涯の事、その死後、怨霊なった崇徳院を慰撫鎭魂する西行111890の事などを識っていった。

『千早振る』は(『無學者』と無粹に呼ばれることもある)、これも『百人一首』にある在原業平082580の歌「ちはやふる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」を、知ったか振りの隱居が奇妙奇天烈、頓珍漢に歌「物語」化して語釋してみせるといふもので、私はこの落語によって一度で「ちはやふる」の歌を覚えてしまった。その代はり、歌自身よりもこの落語のはうが強烈に先に出てくるといふ弊害にいまだに惱まされてゐる。
ちなみに、この「物知り」隱居が矢繼ぎ早の質問に苦し紛れにやってみせた和歌の「無茶苦茶な物語」化は、古代から現代になっても「記憶法」の王道でありつづける強烈に非現實化させたストリイやイメジ」による記憶術に奇妙なほど合致してゐることに、後年私は氣が付いた。

かうした落語のおかげで、私は日本の古典に生々として親しんでいくことができたのであった。

まことにもって、日本人は聲の文化、話藝の文化であったと私は思ふ。
それは、日本人の「言靈」やら「眞言」への信仰へと直結してゐる。


このことを以下、箇条書きに簡單、一応(うろ覺えを吐きだすやうに)歴史的に列記していけば、

・祝詞norito壽詞yogoto、これらを折口信夫は日本文學の起源とする。

・天皇の詔勅。これを奈良朝時代を記録した『續日本紀』では、漢文表記のなかに天皇の詔勅だけ「萬葉仮名」表記にして、その肉聲「言靈」を響かせた。

・空海077435の「眞言」思想

・讀經の藝能化として聲明

・和漢「朗詠」集、

・法然113312の念佛信仰

・『平家物語』に『太平記』、いづれも話藝、「語り」物であった。

・能曲と狂言、は云ふまでもなく、

・庶民に觸れ囘った説教節やら浄瑠璃

・そして、江戸時代はかうした語り謠ふ「聲」の文化のそれこそ「百家爭鳴」であった。

落語もこの江戸時代に生まれた。江戸っ子チャキチャキの話藝であったのだらう。(あるいは、それとも發祥は關西だったのか、よく知りません。
幕末から維新にかけての時代に落語界稀代の名人、三遊亭園朝が出て、その話藝が速記本となり、當時の「言文一致」を摸索する文學界に大いに影響したさうだから、或意味、現代のブンガクなんぞラクゴの私生兒程度のものなのかも知れない。
あの文豪、永井荷風も落語家になった時があった。

落語、講談、浪曲、三つ巴の時代が明治大正昭和と續き、
明治時代の革命家として有名な頭山滿、ではなかった宮崎滔天は(身過ぎ世過ぎに?)浪曲家でもあった。
あの名人志ん生も若い時代は講談もやったが、どっちも賣れず、貧窮の下積み時代が長く續いた。

講談が滅び、浪曲が亡び、そして、テレビが落語をダメにした。テレビによって落語は話藝ではなくなった。
視聽覺裝置であるテレビは林家三平のやうな徒花を咲かせ、さうした傾向のうちにたゞ饒舌なる毒舌(にもなってゐない)とそれを誤魔化すかのやうなギャグの藝でしかなくなった。

茶の間のラヂオがテレビと移り、それがすっかり馴染んだ頃、私は何時しか落語を聞かなくなってゐた。

かうして、かくも多種多樣に豐饒であった日本人の「聲」の文化、語り謠ひの話藝は日本から(ことごとく)ほろんでいった、ほろぼされてしまった ―― 日本人自身によって。

{ありがたい事に、今、 YouTube でこれら一九六〇年前後の落語の大半が聽けるやうになってゐる。「落語、志ん生」とでも檢索すれば、たちまち遺産の寶の山の前に坐ってゐるのだから、私などには夢のやうだ。



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{戰前の日本映画にはたくさん、戀愛情話に藝事を絡ませたものがあったはずだ!と YouTube で探してみると、日本映画の名匠の一人とされる成瀬巳喜男が1936年に作った『桃中軒雲右衞門』があった。これは「浪曲」の代名詞ともなってゐる開祖?桃中軒雲右衞門の傳記めいたもので、主役を月形龍之介(その後東映の惡役となり、あげく水戸黄門の当たり役で知られる)、眉間に寄ったその面構への迫力は明治時代の壯士の雰圍氣を傳へて、散切り頭となった明治時代のさうした熱狂のなかで浪曲が持て囃されたのかと納得された。「浪曲」語りの場面がたっぷりある。
{もう一本、これも同じ成瀬巳喜男の1938年の制作で『鶴八鶴二郎』、稀代の色男、長谷川一夫と山田五十鈴(演劇と映画のいづれでも日本最高の女優の一人、戦後は黒澤明の映画『どん底』や『蜘蛛巣城』それから『用心棒』で途轍もない女を演じてみせた)とが「新内」といふ話藝の男女となって演じる、戀愛情話。この映画にもたっぷりと「新内」の場面がある。