「祭・舞と踊・若宮・精靈」柳田國男からの集語;Word of World




柳田國男の日本人論、後年の「常民」ではなく、初期の「山人」思想、



わが『きよきまなじり*つよきまなざし』のために  



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柳田國男187562からの集語、『きよきまなじり*つよきまなざし』のための

 まつり

 つまりは「籠る」といふことが祭の本體だつたのである。
卽、本來は酒食を以て神を御もてなし申す間、一同が御前に侍座することがマツリであつた。して、その神にさし上げたのと同じ食物を、末座において共々にたまはるのが直會であつたらうと私は思ってゐる。
但、このナホラヒの語源が今日まだ明らかでないだから斷定し得ないが、たんに供物の下ろしを後に頂戴することを直會だと思ってゐる御社が半分ほどあるのは、どうも心得違ひらしく思はれる。
はたして直會が私の想像のやうに、神と人との相饗のことであるならば、この飲食物が極度に清潔でなければならぬと同樣に、これに参列して共食の光榮に與る人もまた充分に物忌をして、少しの穢れもない者でなければならぬのは當然で、この愼みが足りないと神は祭を享けたまはぬのみならず、屡々御憤りさへあるものと考へられてゐた。
この点が我々の同胞の、最も大きな特色であったといふことができる。
『物忌と精進』

 舞と踊

 神舞といふ伎藝の世とともに盛んになってきたのも、あるいはかういふ側面から説明し得るかも知れぬ。私は、舞と踊との二つの流れについて、だいぶ久しい前から一つの、少し變った意見を抱いてゐる。
踊は行動であり、舞は行動を副産物とした歌、または「かたりごと」である。踊は外國でもかなりよく發達してゐるが、舞のはうはどうも西洋にはないやうだ。あるかも知れぬが、私はまだこれがさうだといふものに出逢ってゐない。
といふ譯は、舞の起こりは詞曲にあったからである。口のワザが始めにあって、それにつれて動き、または「しかた」をする。
私の考へでは、舞は神祭の信仰上の現象であったやうに思ふ。
本來は「たたへごご」と稱して、神樣の大きな力、無始の昔から里人との因縁、必要ある場合にはいつでも出現なされて、尊い啓示を給はることを一同が固く信じて少しも疑ってをりませぬといふ意味などを熱心を籠めて繰り返して語ってゐるうちに、自然と恍惚として人か神かの境に入っていくのが最初の舞であって、かう手を差しかう足を踏むといふ型が定まってしまったのは、次々の變化であらう、と私は思ふのである。
「わざをぎ」といふ語はいはゆる芝居の意味に今も風雅の人々は使ってゐるが、ワザの所業であり行動であり、また技術であることは識ってゐても、ヲギが「招く」を意味することは解し得ない人が多い。
私の見るところでは、ワザによって神をヲグ、すははち招くといふのが、この名稱の由って來たるところであった。
(略)
 しかるに、村々の神舞は型に嵌り元を忘れ、どうしてこのやうに一つ處をくるくると廻るのかをもはや説明できなくなってゐるが、能の舞などにはまだ昔の痕跡を殘してゐる。
能のシテといふ舞人は大部分が神、さうでなければ精靈、さうでなければ物狂と呼ばれて、人か神かの境に立つ者であって、いはゆる神氣が添うた人でなければ唱へられぬやうな詞章を今でもなほ口誦してゐる。
それを「面白う狂うて見せ候へ」などと、面白いといふ語を以て形容したのも、本來は一つの信仰現象に他ならぬであった。
後代、徐々として感覺の内容が推し移り、終に面白といふことが祭を離れて存續し、また發達することになったが、なほその強烈なる印象の根源するところは、わが國でならば辿り尋ねて行くことができるやうである。
多くの昔語り、すなはち神祕なる古代人の生活傳承が歴史のもっとも大切な部面として我々を動かすのも、本來は神を信じた人々のきはめて眞摯なる禮讚だからであった。
『神幸と神態』

 精靈

靈神は中世以後、あるいは大昔にも既に認められてゐたもので、だいたいに死の穢れのいまだ脱却し得られぬ者、または俗世の絆しがあまりにも強くて、神と清まるだけの力がないものを、主として含むやうに見られてをりました。子孫無くして死に、または家が祭を持續するだけの能力を失って、無視せられてゐる亡魂も段々と多くなってゐることと想像するやうになったのであります。かういふ頼りない亡者はよく顯れよく祟り、なんとかして祭られるやうにならうと努めるものと考へ始めたのも自然でありました。それで、日本では幽霊は化けて出るもの、または恐いものになったのであります。
家々の盆の祭においても、いはゆる無縁佛または外精靈が餓鬼でありまして、これが先祖樣の正當に受けられる饗宴を掻き亂す懼れがあるので、このために別に一段低い祭壇を設けるのが普通の慣習になってをります。
盆は精靈と云ひ、正月年越しにミタマと云ふのも、一つのものの兩名であって、すなはち同じ祭を古くはまた年の暮にもおこなってゐたのであります。
氏神樣の範圍が次々に伸びていくことのできた時代には、ミタマすなはち精靈といふ語のなかには、このアラミタマまたは新精靈(ニヒジャウロ・アラソンジョ)と無縁の三界萬靈とだけを含んでゐたわけでありますが、ゆくゆく神人の隔離が強くなって、先代の至って安らかなる爺婆の靈魂も、家のなかで私に祭らなければならぬゆゑに、段々とこの精靈の一部となりました。家の持佛壇の重要性は急速に加はり、したがってまた棚經を讀みに來る人々の機能が著しく増長したのであります。だから、日本を佛教國の一つのやうにしたのは、かへってこの氏神信仰の發達だったといふことができます。
 『神道と民俗學』

  若宮

 文字の表から見ますと、若宮は貴い御方の御子、すはなち王子といふのも同じわけでありますが、王子權現にはそのやうな由來譚がないに反して、若宮には非業の死を遂げた人の靈を祀ってゐる靈がいたって多い。近畿東國でもいくらでも擧げられますが、殊に熊本縣の球磨郡神社記などは、これを以て充ちてゐると云ってもよく、またその南に接した薩摩の各郡でも、若くて殺された武人は大抵若宮八幡になってゐます。そんなはずはないと云ったところが、かうあるべきだと云ったところが、とてもこの澤山の事實をなくすることはできません。
そしてまた、事實にはかならず原因があるのであります。これはなんでも神の御子または御猶子といふ考へが次第に一切の御配下眷屬といふところまで、數が多いといふことを特色とするやうになって後に段々と擴張していったのであります。
さうして、大神のこれを統御したまふ力を信ずるのあまり、後には祟りを現じてから、新たにこれを若宮とする祭の式が始まったかと思はれるのであります。
ミサキは語のもとはたゞ前驅者といふことで、大神の代表となって先づ示現せられるといふだけであったのが、後にはいろいろの祟りをなす者、主神の御力を仰いで辛うじて制止し得る者となり、さらに一歩を進めてはいろいろの災ひをもたらす小さな靈、すはなち幽霊はもとより狐や鴉の類までが廣くオミサキと呼ばれるやうになったのであります。
家にその若宮の殊によく祟るものを祀らうとしたわけは、おそらくは、それが或種の方法を以てすれば制御し得ることを信じ、しかも不案内に外から來る者だけには地雷火のやうな防御力があると思ったからでせうが、さういふ内外に態度を異にする靈の存在を信じ得たのも、元來は家の近代の先祖だけでは氏神のなかには祭り込み得ずに御靈と見るやうになった結果ではあるまいかと思ってをります。
『神道と民俗學』

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