「東大寺、大佛池にて」for『きよきまなじり*つよきまなざし』序の段

『きよきまなじり*つよきまなざし』のための平城京(奈良)案内

{前回のつづき。東大寺、戒壇院&大佛殿の裏の大池にて

あゆみゆく時たそがれて東大寺。戒壇院の歴史かさねて

  ○空海の事


 空海077435、本名は佐伯眞魚(眞魚はマヲとかマナとか訓むらしいが、私の『きよきまなじり*つよきまなざし』では他の登場人物とのゴロ合はせにマウヲとした)

生地は、讃岐國多度群屏風浦(香川縣善通寺市)とされる。が、当時の婚姻風習などから推測して、母のもとで畿内に生まれ育ったのではないかとする説もある。こっちのはうが、後々の事を勘案すると考へやすいかも知れない。


空海には、父方の佐伯といふ武人の氏の血と阿刀といふ文人の家の母の血の二種類が、あまり混じり合はずに流れてゐて、それが彼の人生を複雜にしてゐるやうに私には思はれてならない。

十五歳で、母方の舅である阿刀大足(桓武天皇皇子の伊豫親王の侍講、家庭教師をしてゐた)のもとで中國古典を勉學し、三年後、十八歳で大學の明經科に入學、中國古典の史書關係を學んだ。が、二十歳過ぎた頃に大學を去り、山林に入ったとされる。
その時の彼の感慨として「我習う所は古人の糟粕なり。目前に尚も益なし。況や身斃るるの後をや。この陰已に朽ちなん。眞を仰がんには如かず」が傳へられてゐる。この青年期のアイディティファイの氣分、私にはよく理解できる。とともに、彼のなかの父方の武人の血といふか、野人の血が彼を烈しく騷がせたであらうことも。

山林修行(役小角0634??によって始められた葛城金剛から吉野にかけての山嶽修驗であったらう)を始めたらしいが、詳細は不明だ。
この經歴の不明は、三十歳となった彼が、遣唐使の留學僧となるべく都に姿を現はすまで續く。
この不明の青年期に彼が何をしてゐたか、僅かな事實による推測によれば、二十四歳の時に儒佛道の三教を比較して優劣を付けたリゼドラマ形式の『三教指歸』を作り、その前後の彼の青年期すべてを『虚空藏菩薩求聞持法』を口に稱へつつ、キチガヒのやうになって畿内や四國の山林を跋渉して、身心修行に明け暮れてゐたらしい。さうしないではゐられない野人の血が、父方の武人の血が闇雲に彼を驅りたててゐたのであらう。
そして、
消えた時と同様の唐突さで、彼は都、桓武天皇によって遷された新都にその姿を現はす。
0803延暦二十二年四月、遣唐使船が出帆したが嵐のために引き返したといふ話を聽いて、やおら彼の心境に新たなる未來が想像されたためかも知れない。
翌年三月、遣唐使船の準備が完了。その四月に、空海は東大寺、戒壇院で具足戒を受けた。留學生となるために、慌ただしく僧籍を得たといった感じだ。
しかし、
こんないかがわしい經歴の者がどうして國費の留學生に撰ばれたのか。母方の阿刀氏の後押しとか、新勢力の最澄に對抗したい南都舊佛教界の取り計らひとかする説があるが、不可解だ。
ともかくも、乘船した空海の資格は、官費による期間二十年の正規の留學僧であった。この時、同じく留學僧となった最澄076622とは、同じ留學僧と云っても雲泥の較差があった。最澄はすでにして桓武天皇の信任を受ける國寶であった。
後々、空海はこの最澄と最後には醜聞に近くなってしまふ關係を取り結ぶことになる。空海はこの時に充分最澄を意識して、最澄への強い對抗心を自分の氣持に植ゑつけてしまってゐたにちがひあるまい。

奇蹟的に留學僧となった空海は、渡唐した後も奇跡を演じつづけた。
中國、唐の首都、長安では東海からの空海の到着を待機するかのやうに、密教が『大日經』と『金剛頂經』とを一對の兩部に仕立てあげてゐた。当時の中國密教の中心人物、惠果074605は死を目前にして、その後繼者になんと新來の異國人、空海を撰んだのであった。初めて面會した空海を見て、惠果は微笑して我、先に汝が來たらんことを知り、相待つこと久し。今日相見ゆ、はなはだ良し、はなはだ良し。報名竭きなんとするに付法に人なし。必ず須らく速かに香花を弁じて灌頂壇に入るべしと促したといふ。そして、空海への付法をすますと惠果は脱殻のやうに入滅した。
これも、史實でなければ到底信じられない事である。

かうして、密教兩部を付法された空海は、とても規約の二十年など待ってゐられず、二年で切りあげて歸國する。
違法は違法、歸國した空海は九州の大宰府にみづから謹愼して、「闕期の罪、死して余り有りと雖も、ひそかに喜ぶ得がたき法を生きて將來せることを」と書き加へて『御請來目録』を作り、都に送った。
この『御請來目録』に逸早く注目したのは、先に歸國してゐた最澄であった。

罪に問はれることはなかったやうだが、空海が入京したのはそれから三年後の0809大同四年の秋七月の頃であった。空海は三十六歳になってゐた。


高雄山寺に居を定めた空海に、最澄は早速密教經典の拜借を請ひ、空海は快く應じ、かうして二人の對等なる交遊が始まる。
しかし、自分を最澄に對置させていく時、空海の氣持にたゞならぬ野心めいたものが抱かれていく。
兩雄竝び立たず、ならば最澄を凌駕、打倒しなければならぬ、さうした鬪爭心を彼の佐伯の血が抱かせてしまふ。
そのために、彼は意識して(兄の平城天皇の突然の讓位で)時の天皇となった嵯峨天皇に、彼の趣味である漢詩や墨書などを手懸かりにして急接近する。
そして、
0811弘仁二年、空海のはうから嵯峨天皇に云ひだしたのか、嵯峨天皇のはうからのたっての要請だったのか、いづれにしろ、空海は祟道天皇と追諡された早良廢太子が幽閉され、憤死した乙訓寺に別當として住職することになり、次の年の秋までこの寺に居住したのであった。
この在職中に、最澄が乙訓寺を訪問して、空海は金剛胎藏の兩部の曼荼羅を披露した。そして、「自分は體調芳しからず、わが眞言密教はすべて貴方に付法したい」といふやうな事を最澄の耳元に囁いた(清廉潔白なる最澄がさう書いてゐるのだから事實だらう)。
(略)


  ○『きよきまなじり*つよきまなざし』序「空海ことマウヲ誘ひ出し」の段

私(私自身ではなく『きよきまなじり*つよきまなざし』の作者である私)は、空海になる以前の空海、いまだサヘキのマウヲとして山岳修行に明け暮れてゐた彼が、遣唐留學生にならうとして、東大寺の戒壇院で具足戒を受ける頃の彼に照準を合はせて、呼びだすことに決めて、戒壇院裏となる大佛池(と勝手に私が呼んでゐる大佛殿裏の大池)へと
歩み行く道たそがれぬ、東大寺。戒壇院の歴史、かさねて」などと歌情しながら、歩いて行った。
この頃の、三十歳前後の空海は心身ともに野望に溢れてゐた。その空海を誘ひだすのだ。手強ささうであった。

日本史上おそらくダントツの天才、しかもハッタリとオシが強そうで、しかも死後の運氣にも惠まれてもゐる男を相手にするのだから、さしもの私もそれなりの心構へでかからなければなるまいが、すでに私には一撃必中の秘策があった。

黄昏=たそかれゆく時間、大池は明鏡となって大佛殿の甍を映してゐた。

岸邊に佇んで、水邊に立つ白鷺を宮本武藏(と云っても武術家ではなく水墨画家としての)のつもりの禪機となって見詰めた。

その靜止の姿勢から嘴が水中へと突き刺さる、一撃必中のその瞬間を幾度も見詰めて、私は對決のための感覺を研ぎ澄ましていった。
大池に、半月うかぶ、白鷺と」を
古池や、明月ゆれぬ、白鳥と
などと芭蕉並のつもりで推敲しつゝ、悠然優雅に私は待った。
 

黄昏は赤光から寂光となり、そして、池面には闇が漂ひだした。その暗闇に月が浮かんだ。
聞き覺えてゐるアルツウロ・ベネッデティ・ミケランジェリが彈くドビュッシイの『沈める寺』をエンドレスにリピイトさせて、私は「靜中動、動中靜」に待ちつづけた。
 

佐伯の眞魚といふ錦鯉を釣り上げるための釣糸はすでに垂らしてあった。
 

幻影が水面を戰がせた。それを氣配と感じ、底深く私は念誦した
マウヲ、サヘキのマウヲ。出て來い。{後は、有料といふことにしていただきませうか。



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○画家としての宮本武藏158445{いづれ、Leonard da Vinci 145219 と『對のあそび』に