奈良(平城京)案内 for 『きよきまなじり*つよきまなざし』

『きよきまなじり*つよきまなざし』のための平城京(奈良)案内

{今夜ふと思ひついての一夜城的なもの、今後追々整備していきます。
{時間がないので推敲は後囘し。書きっぱなし、讀みっぱなせ。


ふと氣が付いたら、このところ日々のブログ作りに時間を取られ、現在本命としてゐる『きよきまなじり*つよきまなざし』の制作のはうがすっかりお留守になってしまってゐる。
最近話題の電子出版に惹かれて『き よきまなじり*つよきまなざし』、そのための広告宣伝の下心でこのブログを再開したのだが、
これが先かあれが先か、タマゴが先 かニハトリが先か、二兎を追ふ者、アブハチ取らず、と段々慌ただしい、苛立たしい氣分になってゐる。
でも、かうしてひさしぶりに死に物狂ひの「燃える車 輪」となって、充實した山登りの氣分ではある。
わが思想=思考と空想の山城といふか、空中寶塔の幻影めざしての登坂、登っても登っても登り續けることになるだらうことは解ってゐるのだけれど。ま、しかし、私はシジフォスの事を不幸とは思はないタイプなので、 ……

早くも私が飛鳥から奈良に遷り住んで七年あまりが過ぎた。
箱 根の南麓に悠々自適?してゐた私に轉機の時が訪れた。ふと呟かれた「ナポリを見てから死ね」を「大和を見てから死ね」とアレンヂして、「さうだ、日本發祥 の地、大和の國へ行って、人生の殘りの時間を過ごそう」と、
若い時から作っては毀すことを繰り返しながら未完のまゝ放置してある『かなしむちから』、大津 皇子066386の物語の事を想起して、彼の山、二上山の見える所でこれを完成させ、後は「さうだなあ」、飛鳥から奈良に遷っていく時代に合はせるやうにし て、日本の歴史を追跡、タイムトラヴェルしみようか、と思ひ立ったが吉日、私には未知の土地である大和の國、飛鳥の地へと大いなる旅人となったのであっ た。

飛鳥で(明日香村ではなく櫻井市の、大津皇子の宮處とされる譯語田の近く)借りた部屋は、大和三山の耳無山のすぐ近くで、囘りはまだ大和國原 を髣髴とさせる田畑地帶で、東に三輪山、その眞向かひの西に二上山が見える、私にとっては最高の場所であった。後で氣付いたのだが、その邊りはわが小津安 二郎が制作した『麦秋』の最後の場面、花嫁の一行が三輪山のはうへ歩いて行く、まさにその邊りであった。まさか、その映像が私にこの地を撰ばせたとは思は ないが、不思議な因縁ではあった。
私は日々この田園を散策しながら、また、『日本書紀』『萬葉集』それに『懷風藻』などをガイドブックにあちこちの名所旧 跡などを訪ねながら(その頃の事は、フォトログ『やまとまほろば:飛鳥篇』として上梓してあります。

大津皇子066386のための第一部『悲別』、
大津皇子亡き後のその姉、大伯皇女066101のための第二部『悲憤』、そして
第 三部は『悲傷』、(天智天皇062671の皇太子となり、大海人皇子=天武天皇063086と壬申の年の大戰をして敗北した、大友皇子064872と十市 皇女065078 の遺児であった葛野王066905を狂言囘しにしての持統天皇064502の年代記的内容となる物語の制作に耽った。
(略){また、長くなってしまひさうだ。かまうもんか。誰も讀んじゃいねえ


作っては作り變へていくのが、どうやら私の性癖のやうで、『かなしむちから』はまたも完成したやうなしないやうな状態で放置されていった。
私 はこの作品を純粹に自分のために、私にとって最も効率的かつ効果的な歴史の勉強としてかうした創作の方法を取ってゐるのだから、完成未完成は或意味どうで もよかった。むしろ、未完である事により、その作品は私に内在し續けるものとなり、わがライフワアクとなって、私の人生を充實させる事に役立ってゐるはず だ ―― といふふうに思ひ考へる完全主義者、といふか未完成主義者で私はあった。

私が創りたいのは作品であって、商品ではない。だから、文學を職業としない。
制作にあたって、私は讀者の事など一切考慮しなかった。讀者は作者である私一人で充分であった。
私の文學觀なり文學が、この現代の讀者に通じるとは、我ながら到底思はれなかった。だが、表現において妥協はできなかった。

『かなしむちから』の制作においては、『源氏物語』の紫式部女史などに負けてなるものかといふ鼻息、心意氣だったのである。
生意気なる私には、日本の文學で『源氏物語』がダントツの最高峰とされ、世界中が日本人の理想的男性像はあんな色好みの軟弱者かと思うだらうと思ふとカンにさはりシャクにさはった。その不滿と憤懣とが、私に一大文學を構想させたのだった。私は光源氏に代はり得る日本の英雄、眞に男性的な「あはれ、アッパレ」なる理想像を思ひ描き、それにふさはし い人物として大津皇子を抜擢した。彼ならば、生まれ育ちは光源氏に(生母の身分において)勝り、これだけでも紫式部女史の『源氏物語』に勝ったも同然だと 思った。後は、光源氏と對照させるやうに、そして凌駕するやうに肉付け、つまり造形してやればいい。
しかし、それは實際やってみれば、至難のことであった。志の高さ深さが、私の筆を滯らせた。
(略)

かうして、飛鳥時代をきはめて充實して過ごした後、2010年に迎へる飛鳥藤原宮からの平城京遷都に先囘りするやうにして、奈良の地へと移り住んだのであった。

奈良では、日本の青春時代ともいふべき天平時代のその光と影、影の部分を中心に『阿修羅の時代』として描くといふ構想はできてゐた。

藤原不比等065920とその夫人となった橘三千代??0733の子孫たちによって演じられる、一種潑剌嬉々とした青春劇の感じすら漂はせて繰り返される陰謀と殺戮、その連續がすなはち平城京の時代であった。あるいは、平城京のあたりは古來より戰場の場であった、その血と汗と脂が染みこんだ地靈が彼等を動かしてゐたのかも知れぬ。
この奈良時代は、聖武天皇を除けば(彼も軟弱な女性的性格であった)女帝を君臨「させ」、藤原氏は惡事に跋扈跳梁して、あげく、亡びるどころか華々しく、その後の藤原時代の確固たる基盤を築いていったのであった。

現代の奈良ではなく古代の平城京として故地の探訪を始めた私に、幻聽幻視されてきたものは死者たち、「夭折させられた者たち」の幻影であった。
街の角々にはいまだに怨靈=御靈の社寺があることが、平城京での最初の強烈な印象であった。
僅か數十年で血塗られて放棄された平城京は死者の都、怨霊の都となった、点在する寺社のチカラも加はって。
なかでも、死後その祟りを畏れられて祟道天皇と追諡された早良親王075085の事が、思はぬ主役として(わがために物語を作れ)とばかりに私のまへに幻出してきた。

さうして、
氣が付いてみると、私が奈良で借りた獨房はこの祟道天皇の靈地のど眞ん中に位置してゐたのであった。しかも、御丁寧にも、この靈地のなかには、現代の戰爭で犠牲となった防人たちの英靈を祀る神社もあった。
あるいは、彼等が私をこの地に招き寄せたのではないか、と本氣で疑ひ思はれてきたのであった。
(略)

さて、今日の本題、
かうした特異な、と云はなければならぬ私の感覺によって、わが『きよきまなじり*つよきまなざし』の舞臺ともなる奈良=平城京を案内しよう、と思ふ。
わが獨特の光學による照明によって、日本の事が、日本の今と昔とが(メビウスの輪もしくはクラインの壺)に作られて、日本の歴史を丸呑みさせられるやうな、そんじょそこらにはないタイムトラヴェルが體驗できるだらう。
奈良訪問は車でなければ電車、JRか近鉄かになるだらう。
近鉄で降り立った、としよう。降り立つとともに地上に出て行かなければならない。
その邊りに小西町といふところがあって、この小西町は、わが『きよきまなじり*つよきまなざし』のヒロイン、作者(すなはち私自身ではありません、自己劇化 させた私は私ではありません)のアニマであり、アマテラスにしてアルテミスのアラタマミチヨ*タチバナミチヨの生地=聖地であるから、今後『きよきまなじり*つよきまなざ し』の讀者たらんとする人は記憶に留めておくとよい。
  
駅の周圍には南北方向に二本の商店街通りがある(主に飲食店と土産屋で、奈良の特産など奈良漬とか柿寿司くらゐしかない)
その通りを南に行くとすぐに興福寺や春日大社の參道となる三条通に續いてゐる。
だが、
今回は、最も効率的かつ効果的に(すっかり口癖になってしまった)奈良を眺望してもらふために、東西に走る幅広の車道に沿って東へと登って行ってもらふ。
すると、
右手が興福寺の裏手となり、左手に、屋上屋を重ねたやうな屋上の上に砦のやうな付設がある、醜惡なる建物が見えてくるはずだ。
見えなくっても、行先は奈良県庁なのだから、まちがふことはあるまい。
あまりにも、古都奈良にふさはしからぬ外観、この砦部分が古都の景觀にやたらと目立つのだ、しかも名所旧跡、東大寺や興福寺のすぐ近くにある。
だが、
この屋上砦には取り得もある。その屋上部分が眺望に解放されてゐるのだ(土日は閉鎖)。
此處から、見ると平城京の規模が手に取るやうに解る。それに、古都の美観景觀にたいする意識のあまりものいい加減さも。
現在の奈良市は、東西を近鉄が分斷し、南北は二四号線によって兩斷されてゐる。まったく、悲しいといふより先に呆れはててしまふ古都保存の意識の欠如、計画性の皆無なのである。

平城京の風情を味合ひたいのなら、こゝから遠望してゐるのが一番だらう。觀光地など美人と同じだ。近づけば近づくほどアラが見えて、旅の情調をぶち壞される。
 
先づは、君主のごとく南面しよう。
眼下の伽藍は興福寺だ。その彼方、東西のたたなづく青垣のごとき連山に圍まれて廣がりゆくのが「やまとまほろば」、五重塔の橫に、三角錐のきれいな小山の影があるだらう、それが大和三山の一つ、耳無山。飛鳥が意外な近さに感じられるにちがひない。
興福寺の森の先に、有名な奈良ホテルの屋根が見える。
やはり、奈良に泊まるのなら、春日野に近いその地理的条件から一番だらう。こゝとか、春日大社の大鳥居前の菊水樓とかだと夕方ゲタ履きで暮れゆく古都の風情をユッタリユックリ滿喫できるだらう。春日野のなかの江戸三(若き小林秀雄が轉がり込んだ)は宿屋を今もやってるのかどうかは識らない。谷崎潤一郎が泊まったといふ若草山麓にある宿屋についても識らない。
南から東へ移ろう。
この若草山から春日山、高圓山にかけての麓=春日野が辛うじて古都の雰圍氣を殘してゐる。後はたゞ入山料を取る寺々が平城京の各所に点在するだけで、その周圍は都市化の亂雜に冒されて古都の風情も何もあったものではない。
若草山の麓に東大寺、春日山そしてそれに懷かれるやうな御蓋山の一體が春日大社、高圓山の麓には、光明皇后が目を患った聖武天皇のために創った新藥師寺、そ して志貴皇子(この人は『きよきまなじり*つよきまなざし』の主人公、サハラ太子の祖父となる人だから、これも記憶しておくとよい)の別莊地で、その死後 に寺となった白毫寺がある(が、視認は難しいかも知れない)。
正倉院は大佛殿の裏、北側に樹木に隱されて見えるだらう。
北。
眞正面が登り行く丘になってゐるが、これが平城山。右手の道路が京都に通じてゐる般若坂(その名の謂はれとなった般若寺も見える)、この坂から中世の源平時代、平重衡の軍勢が襲來し、平城京を燒討、火の海とした。その時、粗方の社寺は燃えつきた。
また、戰國時代には大和國の梟雄、松永弾正が平城山に陣取って、東大寺大佛殿に陣取る敵方(名前は忘れた)と對峙し、戰鬪した。この時も大佛さんは爲す術もなく被害にあった。
その松永弾正が陣取ったのは、なんと光明皇后の陵墓の上であった。

生まれる前から夫婦となることが決められてゐたやうな聖武天皇(生母が不比等の娘、宮子)と藤原三娘光明子(父が不比等で母が橘三千代)、それぞれの遺墨か らその人柄を推測すれば、聖武は繊細脆弱、光明は勝氣強氣に推測されるが、それを首肯させるやうに、その墓も奥さんのはうが奥の高い所にあって、襖のやうな 樹林をあひだにして竝んでゐる。{死後もずっと一緒なんて、どうなんだらう?
平城山の上には、倒産した奈良ドリイムランドの殘骸がいまだに殘ってゐる。千三百年前のドリイムランドであった東大寺大佛殿と現代のドリイムランドの成れのハテと今昔比較して、うたた私は感慨となってしまふ。
それから、忘れるところであった。平城山の向こう側、北側には、平城京遷都の時の女帝、元明天皇とその娘で後を繼いだ獨身女帝、元正天皇の墓が少し距離を置いて竝んでゐる。

平城山の西側には古墳群がひしめき合ってゐる。そのなかで、私が好きなのは、好色な仁徳天皇の嫉妬深い皇后だった磐媛の陵墓とされる古墳だ。その邊りは佐紀とか歌姫とか由緒ゆかしき地名がついてゐる。
大和写真の代名詞、入江泰吉が撮影した戰後すぐの頃の古都の情調が、この邊りにはいまだにマボロシ程度には遺ってゐる。
北から西に移ると、平城宮址が亂雜なる市街に圍まれた空地として見える。映画のセットのやうに最近完成なった大極殿などが見えるだらう。
その背後となる山が奈良と大阪を區切る生駒山。
その麓でもないけれど、前方後圓のシルエットが見えるだらうが、それが垂仁天皇の陵墓。
この邊りはすでに西ノ京、そのすぐ南側に、鑑眞の寺、唐招提寺があり、それに接して、薬師寺の堂塔伽藍が(凸凹のビル越しに)蜃氣樓のやうに見えるはずだ。
その背後は八田丘陵で、そこらあたりには私は行ってゐない。
その八田丘陵の南外れの麓の邊りが、聖徳太子の寺々がある斑鳩の地となるが、さすがに距離があり、視認は難しい。
そこで「青垣」が一旦途絶え、その間には飛鳥方面からの大和川が摂津へと流れてゐる。
そして、
また盛りあがる、その最初の隆起がわが二上山だ。ここからだと二上山は、一つのコブの平凡な山容にしかみえないけれど。
そして、高まりゆくその山並みは葛城山、金剛山と役小角をはじめとする古代の修驗者たちの鍛錬の場となった山々を追っていくと視線は南向きとなって、飛鳥を抱くようにした吉野の山々となって、 ‥‥
大和まほろばを北側からぐるりと眺望した事になる。

京内にも点々と名前ゆかしき古寺が元興寺・大安寺などあるが、いづれも今では名跡ばかりとなってしまってゐる。

こゝでかうして「一日を永遠と化すべく」茫然錯然と、日本といふ千三百年の歴史といふか時間を追想してゐるのが、旅情として最高だと思ふが、折角來たのだから、古い柱やら礎石など撫でてもみたいだらう。
それに、県庁屋上にほったらかしにもできないし、

それじゃ、向かひがすぐ東大寺だから、東大寺に行ってみるか。

普通の観光行樂の人たちが行かない所、古都一千三百年の歴史の聖霊たちが地靈してゐる處へと
(つづく


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