Bobby Jones の Augasta, Masters 

Augasta National Golf Club での Masters Tournament 2013 が始まってゐる。

テレビを持ってゐた時には毎年欠かさず、早起きして觀戰したものだが、テレビは地上波停止になった時に棄ててしまった。
今は、ネットの Masters のホームページで、ビデオクリップでプレイのピックアップなども見られ、自分なりの見方で愉しく觀戰してゐる。

ゴルフの四大メジャータイトルのその年の最初となるマスターズ、春の盛り、マグノリアなどの花々で彩られた樂園のごとき緑野のオーガスタ ―― この今では世界中で一番有名なゴルフコウスを作ったのは、ゴルフ史上最高のプレイヤー、球聖とも讚へられる Robert Tyre Jones, Jr 190271 通稱、Bobby(Robertの愛稱)Jones であった。

今や Augasta Masters はプロの饗宴となってゐるが、ジョウンズ自身はアマチュアリズムの權化のやうな人で、その事によって彼は私が敬愛するほとんど唯一のアメリカ人、アメリカが生んだ唯一人の聖人となった。

彼は米英の(ほとんどがキャディ叩き上げの)心身ともに屈強なるプロたちを相手に勝利し續けた(牛若丸のやうな)アマチュア青年であった。
十八歳で全米オープンに登場して、輝かしい戰績を殘しながら、二十八歳で当時のゴルフ四大タイトル(全米&全英のオープン&アマチュア)を總取りして年間グランドスラムを達成すると、その年に引退宣言して、そして、彼は傳説となった。

ゴルフはレフリイのゐないゲイムである。レフリイはゴルファがそれぞれ自分で兼ねなければならぬ、正直が前提のゲイムなのである。そのことを象徴して見せるやうなことを、ジョウンズは大きな大会で演じてみせたのであった。
1925年の全米オープンでの事。パー4のホウルでジョウンズは第一打をラフに打ち込んだ。そこからリカバリして、ホウルアウト。オフィシャルは「4」と宣言した。が、ジョウンズは「アドレスした時にボウルが少し動いたやうに思ふ。だから5だ」と訂正した。この一打のプラスのために、プレイオフになり、そして負けた。その時の會見で、彼は平然と云ってのけた「スコアをごまかさなかった私を褒めてくれるのは、銀行強盗をしなかった男を褒めてゐるやうなものだ。」"You may as well praise a man for not robbing a bank." 
次の年の全米オープンでも、今度はグリン上で同じやうな事があり、この時もジョウンズは「疑はしきは罰する」のゴルフルウルに則り、一打罰を申告した。そして、この年には勝った。

こんなジョウンズも、ゴルフプレイの天才として持て囃された生意氣な少年時代があった。そうした自分が自分のゴルフプレイをスポイルしてゐると氣付いて、この天才少年はゴルフプレイによってその人間性を鍛錬、陶冶していった。

「ゴルフを始めて以來、私は次々とミスショットのやり方を發明していった。
「今日の好綢は明日には消えてしまふ。これと保ちつづけることは誰にもできない。
「ゴルフは(私が知るかぎりのゲイムのなかで)やればやるほど難解になっていく唯一のゲイムである。
「ゴルフが私にひどく腹立たしいゲイムである理由の一つは、かつて深刻に学んだはずのことをその場になるといとも簡単に忘れ、あれほど矯正したはずの欠点といつまでも鬪はなければならぬ自分を發見しなければならないからである。
「最も身近で最も強い敵が自分自身であることにゴルファはすぐに氣付くべきだらう。
「ゴルフでのスコアアップの方法は二つしかにない。一つは、ゴルフスヰングの基本を完全に理解する事。もう一つは、自分の心身の長所短所を客観的に把握する事。

「何時の日にか好運が訪れることを信じて、努力を續け、ひたすらボウルを打ち續けることだ。
「解答は泥沼のなかにある。それを見つけ出すには、ひたすらボウルを打ち續けるしかない。


「ゴルフプレイとは五インチのコウス、左耳と右耳との間、すなはち頭のなかで演じるゲイムだ。
「スヰングについて考へる事が少なければ少ないほどプレイはうまくいく。
「數ヤードの距離を欲しがったばかりに、すべてのショットが狂ひだしてくる。


「敗北の體驗のなかにこそ貴重な教訓がある。私は勝利した試合から學んだことはなかった。
「運といふものは、長い目で見れば公平なものだ。そう信じて日々努力するしかない、と私は思ふ。


 
ボビイジョウンズ の代名詞ともなった明言「私のゴルフプレイの同伴者は、そのコウスに住む「Oldman Par」だ」、と覺悟(悟りを覺えるといふ文字どほりの意味です)した時、彼は同時に勝利の女神というかコウスの妖精の祝福をも得てゐた。この覺悟をジョウンズにもたらしたのは、イギリスのこれもゴルフ球聖に數へられる Harry Vardon ハリイ・バードンの「誰かにたいしてではなく、何かにたいしてプレイしてゐる」やうに見える彼のプレイぶりだった、さうだ。

「思ふにゴルフには二種類ある。ゴルフとトーナメントゴルフがあり、この二つは決して同じではない。その事実に気づくまでにずいぶん長い歳月がかかった
「ゴルフはスコアがすべてではない。むしろスコアに納まりきれない部分にこそゴルフのおもしろさがある。
「ゴルフは、二割ほどのプレイ技法と、後の殘りの八割は、思考と空想(哲學やらロマンにドラマ、ウイットにユウモア)それと同伴者との友愛あふれる会話、それから競争精神などからできてゐる。
「ゴルフは人生のやうだと云ふ。だが、私が思ふところ、ゴルフは人生よりも複雜にできてゐる。


1930年、空前絶後の年間グランドスラムを達成して、競技生活から引退したジョウンズだが、1920年代のアメリカンスポウツの野球のベーブルースなどともに五大巨人の一人に祭りあげられ、その人氣はアメリカのみならず世界中に響き渡った。

プロ轉向への要請を拒みつづけ、貫きとおして、二十八歳の彼はゴルフの表舞臺から颯爽と(永遠の若き英雄像を殘して)姿を消した。傳説は黄金製となった。

引退した後も(あるいはあまりにも印象的な引退のゆゑか)むしろ彼の周圍は騷々しくなり、どこに行っても人に圍まれてしまふことになった。自分の氣に入らぬかうした状況に、平和に靜かにプレイできるゴルフコウスが欲しくなり、彼の生地、アトランタ近くにその場所を探した。そして、Augasta, Georgia を見付けだした。

オーガスタは1933年に開場した。ジョウンズは早速、翌年の三月に Masters Tounament を開催し、みづからも參加した。ジョウンズのもとに有名ゴルファが聚り、大会は成功した。

このマスターズの名を世界中に喧傳する出來事を、ボビイジョウンズとの『對のあそび』にしたいやうな(同じ年の同じ月に生まれ、同じ年に結婚した妻の名がどちらもメリイだったGene Sarazen が演じた。
第二回の大会、おそらくゴルフ愛好家に永遠に語り繼がれるであらう、十五番ロングホールでの「ダブル・イーグル(五打のところを二打であがること)」。そして、サラゼンはこの年の勝者となった。

はやくも二年目にして、オーガスタはゴルフの聖地となった。

第二次世界大戰が始まり、ジョウンズは U.S. Army Air Forces の士官となり、(略)
第二次世界大戦中、ジョウンズはオーガスタを陸軍の放牧場として使ふことを許可した。

戰後、ジョウンズは syringomyelia(脊髄空洞症と辭書は譯す)に冒され、車椅子の人となり、1971年十二月十八日、生地のジョウジア州アトランタで逝去した。彼の職業は生涯、法律家であった。

当然、私は彼の實際のプレイぶりを識らない。
私が識ってゐるのは、彼についての驚異的な戰績の事實と、それゆゑの Legenda Aurea 黄金傳説であり、それに加ふるに、彼の謙虚な自傳的内容の Down the Fairway くらゐである。
ま、しかし、幻想のためには材料は少ないはうがいい。


私に偶像と化したこのボビイジョウンズによって、私はゴルフに魅惑された。
ヘッセ、Hermann Hesse 187762Das Glasperlenspiel 『ガラス玉遊技』によって、明示的に私に啓示された「硝子玉演技」をゴルフに適用してみようか、と着想したのであった。

具體的には、ゴルフプレイを東洋的身心論によって換骨奪胎する事、そして、ゴルフプレイ&ゴルフ場を「人は天地のあひだに如何にあるべきか」の教育の現場に仕立てあげる、といふ氣宇壯大なる(最初から実現性など無視した)構想であった。
しかし、
私自身はかなりキチガヒ沙汰に本氣になってゐたらしく、そのためにゴルフ場に隣接する(そのゴルフ場の平日会員券付きの)別莊地に移り住んでしまったのであった。
隠棲は元々からの私の希ひであった。

{またまた長篇となってしまったので、一旦中斷します。


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