奈良(平城京)案内「東大寺、戒壇堂」for『きよきまなじり*つよきまなざし』


『きよきまなじり*つよきまなざし』のための平城京(奈良)案内

{前回のつづき

先づは、東大寺は、戒壇院へと案内しようとおもふ。
奈良県庁の東側の車道、369から169号線となる國道を渡って、東大寺の領域へと入って行く。
この南北にほゞ一直線に車道は(古代からの官道に則り)北は般若坂を越えて京都府に入り、宇治そして京都や大津へと通じて行き、南へ行けば一本道に飛鳥へと通じてゐる。

幅広の道はすぐに左折して、その邊りには吉城園とかい依水園とかいふ庭園があるが、有料なので入ったことはない。

左折して、北にまっすぐ、その突き当たりが戒壇院だ。
この界隈を水門町といふ。水門の讀み方に迷って「みなかど」とか「みなと」とか、捻って讀んでゐたが、單純に「すいもん」であった。ちなみに、Google Map を私は英語版で使ってゐる。日本の地名や町名をロウマ字表記してあるから、こっちのはうが便利だと思って。

この水門町に、大和写真を代表する入江泰吉は住んで、大和各地の撮影に一生を費やした。
奈良市に生まれた彼は、寫眞家を志して大阪に行き、人形淨璢璃關係の撮影をしてゐたが、戰後奈良に戻り、偶然、疎開してゐた東大寺の佛像が歸還するのに遭遇し、これらの佛像を米軍が接収するといふ噂に、一念發起してそれらの佛像の記録撮影を志した。そして、その撮影を大和各地の風土へと廣げていった。
今でも、彼の表札が掛けられたその家が殘ってゐる。最近のニュウスでは、近々記念館?として開放されるやうだ。


彼の業績を記念し收藏する寫眞館が(東京都知事選などに出馬して晩節を汚したあの黒川紀章の設計によって)高畑町の新藥師寺の隣に建てられた。水槽を配した、うづくまる感じの、私はわりと好きな建物だ。
 

  




さて、戒壇院。
戒壇院で行樂客の見るものといったら、國寶の四天王の塑像、これしか置いてない。誰もが見覺えがあるであらう、持國天・増長天・廣目天・多聞天の四天王だけが、廣くもない方形の薄暗い堂内で、虚空にむかひ獅子吼龍吟してゐる。入山、有料。 


 四天王よりボクラのほうが おもしろいジャン

戒壇院とは、出家を志す者が正式の僧侶となるために受戒するための施設である。
東大寺の戒壇院は歴史古く、0755天平勝寶七歳に中國より渡來したあの名僧、鑑眞を招いて創建された。勿論、その當時の建物ではない。

 

 


 ○崇道天皇こと早良親王のこと


この出來立ての頃の東大寺戒壇院で、まだ子供の頃に(その頃は親王ではなかった)早良親王075085は受戒して僧屬となった。
早良王が親王となるのは、父の白壁王が、道鏡禪師を寵愛して皇位を讓ろうとまでしながら死んでいった獨身女帝、稱徳天皇の後繼者に撰ばれたからであった。

稱徳天皇亡き後、その皇統である天武持統系統に後繼者たるにふさはしい王族は(度重なる陰謀と殺戮によって)拂底してゐた。そのために、当時すでに六十歳を過ぎてゐた白壁王に白羽の矢が飛んだのである。
白壁王は、この王子にとって多難の時期を、みづから要心して飮酒に韜晦して過ごした。
その長生のおかげで思はぬ幸運(とはその時の本人は思はなかっただらうが)を引き当てたのだが、彼が撰ばれる理由はその他にもう一つあった。おそらく、こっちのはうが理由としては大きかったであらう。
彼の妃は、崩御した稱徳女帝には異母姉となる井上内親王071775であった。しかも、二人の間には他戸といふ王子もあった。
井上内親王は聖武天皇の側妾であった縣犬養刀自(縣犬養はあの橘三千代の出身氏だ、彼女の用意周到さがこれでも解るだらう)の所生であった。幼女にして伊勢斎王に任じられ、同母弟の安積親王の不可解な死(藤原アシュラ一族の仕業だらう)によってその任を解かれ、歸京後、白壁王の妃となった。そして、姉の酒人と弟の他戸を生んだ。

0770寶龜三年、白壁王が光仁天皇として即位すると皇后となり、息子の他戸は皇太子に立てられた。かうして、からくも天武系と天智系とは合體する、圓滿なる結末となる、はずであった。

ところが、この二年後、突然、井上皇后は夫、光仁天皇の妹宮を厭魅、呪詛したとして皇后を廢され、他戸皇太子も廢されることになった。これもおそらく藤原アシュラたちの仕業にちがひない。また、事件から最も利益を得る者を疑へといふ推理の鐵則からいけば、皇太子となった山部王が一番疑はしいことになるが。

廢された二人は大和の國の邊地に幽閉され、翌年、そこで同時に死んだ。殺されたのだらう。
そして、
後釜の皇太子に立ったのは(半島系の出身である高野新笠が生んだ)山部王であった。
早良はこの山部と母を同じくした十三歳年少の弟である。

0781天應元年、七十歳を過ぎた光仁天皇は病を理由に讓位、山部親王が即位して桓武天皇となった。時に、四十四歳。
天皇になると、兄は同母の弟、法親王だった早良を還俗させ、皇太子に据ゑた。

長く法親王であった早良は、東大寺をはじめとする南都佛教界の中心的存在となってゐた。

南都佛教界の影響力を嫌厭するやうになっていった桓武天皇は、南都を放棄することを決意する。
そして、腹心の藤原種繼に命じて、長岡に撰地して新京の造營を急ぐ。

そんななかで、その種繼の暗殺といふ事件が起こった。
すぐに捕まった下手人の口から、早良皇大弟の名前が漏れた。
桓武天皇は待ってゐたやうに實弟を廢太子とし、新京の長岡にある乙訓寺に幽囚。早良は抗議して絶食、淡路島へ配流の途中、憤死してしまった。

早良、それに井上廢后、他戸廢太子たちの怨靈は、桓武天皇をはじめとするその一族に祟っていった。特に祟られたのは、早良の後繼になった桓武長男の安殿皇太子(後に桓武を繼いで平城天皇となり、暗殺された種繼の娘、藥子と浮名を長し、藥子の亂と呼ばれるスキャンダルを演じてしまふことになる)であった。
この治癒にあたったのが、興福寺の善珠といふ僧侶であったのだが、怨靈などの噂は平城京の寺社が中心になって作り流してゐたやうだから、
桓武天皇は、襲來する怨靈の猛威に、長岡京からさらに逃げるやうにして作った新都を「平安」京と名づけないではゐられないほどに懊惱し、早良怨靈には「祟道天皇」を追諡し、淡路から大和に移葬して、鎭魂した。
それでも、早良怨靈は祟り續けた。その事は、平城天皇の異常なる行動、藤原藥子との亂といふより變によっても明らかだらう。
藥子は先に云ったが暗殺された種繼の娘であり、早良にとってこの二人は最も憎惡する生者であった。逃亡する二人が、平城天皇の弟で平城の後の天皇となった嵯峨天皇の兵に捕らへられた所が、平城京を出て南へ向ふ途中の帯解であった。地圖で見ると解るが、その帯解は、大和に移葬された早良祟道天皇陵のある八嶋の隣地である。この奇しき事実を、当時の平城京では「さすが祟りの祟道」と噂しあったであらう。
かうして、父の桓武、兄の平城の後を繼いだ嵯峨天皇078642は本格的な祟道天皇怨靈の對策を講じなければならなくなる。
そして、
こゝに、空海077335が登場してくる。(この空海もこゝ東大寺の戒壇院で具足戒を受け。その直後に)遣唐留學僧となり、二十年の在唐規則を僅か二年で勝手に切りあげ、兩手に大日經金剛經の胎藏金剛の兩部そなへる密教を携えて歸國したばかりの空海が ――

この頃、野心たっぷりとならざるを得なかった(と私には思はれる)空海のはうから嵯峨天皇に云ひだしたのか、嵯峨天皇のはうからのたっての要請だったのか、いづれにしろ、空海は、早良が幽閉された乙訓寺に別當として姿をあらはすことになる。
嵯峨天皇の0811弘仁二年、空海三十八歳の年の事である。


{つづく





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