「ガラス玉演技としてのゴルフ球演技」『思考と空想』


前日の續き。翌日になってしまったので、ページを改めます。
SwingShot といふ相反するであらう語が、ゴルフプレイの実態(Swing がその行爲の現実を、そして Shot がその理想を)を的確に表現してゐる。

Shot といふ精密な行爲を Swing、揺れ動く往復運動の最中において実行しなければならない、それがゴルフプレイだ。
そして、この動作の不確実が影響して、その心理を不安にして、結果、これがあのボビイジョウンズさへも惱ませた「昨日のアタリは今日は消えてしまふ」ゴルフプレイの不安定さの、本質的な原因になってゐるのではないか。
これを解決するにはどうすればいいのか?

「簡単なことだ(と私は裸の王様を指摘する少年のやうに云ひ放つ)。Top of Swing で動作を停止、靜止させばいい。たゞそれだけの事ですべては解決、といふか問題そのものが解消する」

要するに、靜止することで TofS は定点となり、地上に靜止するボウルの定点との二定点間の運動、と私にはわが「繊細にして幾何學的なる精神(パスカルによる)」が働いてゐた。

TofSで靜止する ―― さうすることで初めて、ゴルフプレイはその理想とする Shot の行爲、といふより營爲へと極まりゆくであらう。
ゴルフは Target Game である。ゴルフプレイは、球技といふより(その実質は)弓技である。
TofSで靜止することで、ゴルフスヰングは(理念的に云へば)從來の動作の「動中靜」より「靜中動」の作動へと進化、そして深化する。
と、
コロンブスのタマゴに解けた。

コロンブスのタマゴは、立てて見せなければコロンブスのタマゴではない。
マンガアニメなら、こゝで少年か少女とかが登場してきて、天才ゴルファが誕生していくことになるのだが、私にはジェンナーのやうな我が子なく、少年少女の知り合ひもなかった。
で、自分自身で生体実験するするしかない。それで、
日本の武藝者の傳統に倣ひ、山籠もりして稽古に精進することにしたのであった。
一念発起して山隱りするほどのこともなく、これも簡単に、わが生體による實驗にも成功した。
こんな私といへども「人」に属し、私に可能であったものは萬人にも可能であるのだから、私は新たな知恵をこの世界にもたらしたことになる(役に立つかどうかは知らないけれど)。
筋肉はゴム製でもバネ製でもない。止めようと思へば、どんな恰好でも止められる。あたりまへのことだ。だから、コロンブスのタマゴなのだ。

TofSで靜止して Shot できるやうになったが、しかし、アタリの結果は私が予想したほど理想的なものではなかった。從來よりマシにはなったが、それは稽古量のおかげと考へるほうが適当な程度のものでしかなかった。

理想的結果に至らしめないのは、私の身心が実践面においてゴルファの素質才能を具へてゐないからだらうとこれも簡単に諦めた。それに、私はすでに中年であった。
私はあっさりと Actor たらんことを諦めて、Director から Writer へと轉身していった。

このやうに「進化」=單純明解化させさせたゴルフプレイに、東洋的な身心論(主に禪思想に影響された日本の藝道論が中心になるが)によってその「深化」を試みる事。

そして、
それをわが「硝子玉演技」へと換骨奪胎させていく事。

 Das Glasperlenspiel ガラス玉遊技 といふその魅惑的な題名ほどの内容ではない(と私は讀後感して、その不滿が私の「硝子玉演技」の縁起となったのであるが)小説は、第二次世界大戰のさなかに書かれて、戰後、作者のヘルマン・ヘッセにノウベル賞をもたらしたロマンである。

ヘッセは、二十世紀といふ混濁する世界、その未來を憂へ、それら文化的現象を俗惡なる「フェユトン」と呼び、それに対し僅かながらの人たちが世界の各地でそれぞれ自前の思想で抵抗し、それがやがて「硝子玉演技」へと結晶していった、と構想する。anonymous@ubiquitous のハシリとでも云った感じだらうか。
このヘッセの夢想を、その「硝子玉遊戯」といふ命名ゆゑに私は信奉した。

私は、自然が生みだした水晶より以上に、人間が作りだした硝子を貴重と思ふ者だ。 


だが、ヘッセは「硝子玉演技」の具體化には成功してゐるやうには私には思へなかった。彼は、數學と音樂とによるパフォマンスでそれを描いて見せたが、おそらくその實演は、ジョンケージなどの現代音樂めいたパフォマンス以下の、退屈窮まりないものだらうと想像された。
さうではなく、
もっと、
この天地の間で、この密閉有限なる地球といふ天地のあひだで人は如何に在るべきかを問ひかけ得るやうな「硝子玉演技」、そんな着想のなかで、私は Bobby Jones の事を識ったのであった。

「ガラス玉演技としてのゴルフ球演技」、ゴロもピッタリだ。きまった。

ゴルフ球演技をガラス玉演技と仕立てるべく、そのための教科書となる『ゴルフプレイの進化と深化』を作り、そして、その教科書を中心に「西洋紳士と東洋君子」を「硝子玉演戲者」として養育養成する現場としてのゴルフ場の構想に、といふか夢想に耽っていった。

無論の事、それは私一人でできる事業ではない。ボビイジョウンズはほゞ獨力でオーガスタを作りあげたけれど、私の夢想はそれより全然大きく、そして私は無名の一貧書生に過ぎなかった。

生來の單獨者志向である私にできる事と云へば、Art of Heart の作者となって、思想=思考&空想するくらゐのものだらう。
私は わが Art of Heart のために、古今東西の Word of World を聚め、それらによってわが思想=思考と空想とによる硝子玉演技(演戲、演義)に熱中した。パスカルの「私が何も新しいことを言はなかったとは云はないでもらひたい。この配置が新しいのだ」などと嘯きながら。
こうして、
わが『教育の現場としてのゴルフ&ゴルフ場』は、太平洋上のどこかにある或島に或祕密結社的思想團體によって設立される事になった。 ‥‥

{私の思想=思考と空想はいまだすべては未發表。生來「怠惰で、否定的な」私には(殘念ながらといふか有難いことにと云ふべきか)、新法を大道で説きいだす情熱(勇気も度胸も)ないし狂氣は與へられてゐないらしい。他人を説得することなど面倒臭い。 すべては「被褐懷玉」の、思想と空想との遊戲、生きてゐる時間を最も充實させてくれる爲事であればそれでよかった。 インターネットといふメディアが私の生前にこゝまで進展しなかったならば、私は予定どほり沈默を保ってゐただらうに、ついつい誘ひだされてしまった。 ‥‥
 


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