男と女、結婚についてのアフォリズム;

{書きっぱなし、読みっぱなせ。

男=バカモノ女=バケモノの演じる「戀愛の極樂と結婚の地獄」の有樣については、俚諺から警句にいたるまで古今東西溢れんばかりにあり、それぞれに深刻なるその體驗を機知と皮肉とで料理して、滋味ほろ苦く味合はせてくれる。

だが、近代以降になると、私がザッと見渡しただけでも、結婚についての機知と皮肉の警句の作者の多くが、結婚について發言するに失格者か欠格者であることが判明した。で、そのことから先に書く

たとへば、インターネット上の「結婚」格言集でダントツの警句の數を誇るオスカ・ワイルド185400など、そもそも生まれついての男色家で、結婚についてマジメに云々できる態度も資格も持ち合はせてはゐなかったのである。{どうもこの種の毒舌家が殊に近代以降増加して、これを以て社界批判と思ひこんでゐたフシがある。(略)
だからこそ、結婚の愚劣を喋々できるといふ見方もできないわけではないが、しかし、その警句自身が生煮えの警句の段階にとどまってゐるとしか私には評價できず(他の分野での彼の警句は評價できるものが多いのだが)、結婚の甘くて苦い眞實からの昇華には到底達してゐないと云はなければならない。実例をあげておくと、
「獨身者には重税が課せされてしかるべきだ。或人が他人より幸福といふのは不公平だ。」
「男は退屈から結婚し、女は好奇心で結婚する。そして双方失望する。」
「正しい結婚の基礎は相互の誤解にある。」



ワイルドの半世紀ほど前の西洋近代市民社界の黎明期に颯爽と立ち現れた英雄主義的個人主義者、
バイロンも結婚について喋々してゐるが、彼の男女關係は複雜怪奇なほどの戀愛沙汰でしかなかった。
「すべての悲劇は死をもって終焉し、すべての茶番は結婚をもって終わる。」
「ずいぶん敵を持ったけど、妻よ、お前のやうなヤツは初めてだ」

 
また、 
「結婚は、多くの短い愚行を終はらせ、長い愚鈍を始めさせる」と言った同時代のドイツ人、
ニーチェ184400にしても、戀愛一つ成就させることのできなかった切ない獨身者であった。
 
同様に、
「結婚しても君は後悔するだらうし、結婚しないでも君は後悔するだらう」と言った、彼等の少し前のデンマーク人、キルケゴウル181355も、みづから婚約破棄した女に未練を懷きつづけた切ない獨身者であった。
同じ時代に大活躍してゐたイギリスの社会諷刺の小説家、ディケンズ「こうと決心したからには、それをやり遂げないやうな女房は一人もゐない。」と斷じたそのリアリスティックな精確さと比べてみれば、獨身者系統のそれがいかに軽率な警句程度でしかないかがよく判るだらう。
 
また、
同じ頃のフランスは「人間喜劇」の大小説家、バルザック179950も當然のごとく結婚について饒舌してゐる。
「すべての人智のなかで、結婚にかんする研究が最も遲れてゐる。」
「結婚したら、慣れ慣れしさといふすべてを呑みこんでしまふ怪物と常に闘ってゐなければならない。」
「妻はよき夫を作る天才でなければならない。」
「高い段階の意識においては、男の生活は名譽であり、女の生活は戀愛である。ちょうど男の生活が不斷の行動であるやうに、女は自分の生活を不斷の捧げ物とすることによってのみ男に對抗できる。」
{しなければならぬ、ならぬと女に説諭、願望してゐるのだらう。といふことは、現實の女=妻はさうじゃないといふことだ。
また、
同じ頃のロシアの文學者たち、ドストエフスキイ182181、トルストイ182810、チェーホフ186004

{書き足しましたが、氣分がもう飽きてしまってゐて、なんだか投槍の支離滅裂となってしまったやうですが、推敲する氣にもなりません。ので、そのつもりで御笑覽ください。


また、同じ時期のロシアの大作家たち、ドストエフスキイ182181、トルストイ182810、チェーホフ186004 たちも結婚について熱心にゴタクを書きつけてゐる。
ドストエフスキイ「妻にとって夫が大事なのは、たゞ夫が留守の時だけだ。
トルストイ「決して一か八かといふ際どいところまで進ませない、それが夫婦生活の第一の祕訣である。{とは云ひながらトルストイ自身はその際どいところまで進んでしまった、八十過ぎてからの家出、妻から逃れての。
チェホフ「もしあなたが孤獨を懼れるのなら、決して結婚はしてはいけない。」そして、さらに小聲になって「もしも人生がやり直せるとしたら、私は決して結婚はしないでせう」と。
結婚の眞實を深く味はされた者は深く溜息を吐いて口を噤む。實際、口を噤むしかないのだ。




十九世紀は活版印刷の普及で文學の時代、なかんづく小説の大流行する時代となった。
その主人公として取り扱はれるやうになったのは、近代市民革命によって「物」から「人」へと男たちによって認識されるやうになってきた「女」たちであった。

ディキンスもバルザックも、ドストエフスキイもトルストイもチェホフも、それぞれに魅惑的なヒロインを造形した。そして、なかでも
ホーソン180464の『緋文字』が1850年
フロベルの『ボヴァリイ夫人』が1857年
イプセン182806の『人形の家』が1879年


結婚といふ籠の中の鳥であることを自覺した女たちが自由を求めて男の家を出て行くやうになるであらう懸念や危惧を男たちは物語に作り、それがまた女たちの自立への(現代のフェミニズムに繋がる)出發を促す。
妻や母といふやうな属性ではなく女自身として、いや一人前の人間として ‥‥ とか、シニカルがなんだかとんだシリアスになってしまったやうで、閑話休題。
本來の「ヒユとヤユ」の奇妙奇天烈なる精神に立ち戻り、

ともあれ、かういふふうに歴史認識すると、十九世紀以降の結婚にたいする大量の(主に文筆業者による)警句めかせた諷刺的戲文の類は、かうした女性解放の趨勢にたいする男たちの反發や嫌味、それもやがては悲鳴やら諦念やらのやうにも聞こえてくるのである。

さて、構想としては、以上を前フリとして、これから本説の阿呆リズムに入るのだが、すでに充分長すぎる。それに、私自身もう飽きてしまった。結論部分だけにして終りとしよう。

生めよ殖やせよ地に滿ちよ」と希はれた神樣は、そのために女をバケモノに、男をバカモノに作られた。
少年を誘ひだすべく少女は美しく成熟する(ほとんどそれは蝶への變身と云っていい)、まるで誘蛾灯のやうに光を發し、少年は誑かされ、氣が付いた時にはバケモノの餌食となってゐる。だが、これは神樣の思召なのである。おそらく、いやまちがひなく、結婚の現實の地獄性を私などがいくら口角泡を飛ばせて力説してみても、少女の魅惑、あのメスの媚態には敵ひやうもない。

かうして、束の間の「戀愛の極樂」から「結婚の地獄」へと男は、それが抜けだすことの容易でない蟻地獄とも知らずに歡喜に溢れて入っていく。

戀人から妻となった女のバケモノのやうな變身は續く()、今度は母親にならなければならない。
種付けの役目を終へたオスなどには彼女の興味はない。彼女にとっての關心は自分が生んだ子と、その生育を順調にするための環境である。夫はそのためのハチかアリでしかない。男は自分がハチやアリではないと思ひながらハチやアリのやうにせっせと働く。そして、それが社界の動力源となる。じつにうまくできてゐる。
男はすでに自分がバケモノに誑かされたバカモノであることに氣付いてゐる。だが、男は自分の置かれた状況を正しく認識できない/したくない。もう一人では生きてられなくなってゐる。そのやうに飼ひ慣らされてしまってゐる。かうして、最後の最後まで貢がされることになる。


戀愛は極樂、結婚は地獄」と喝破して見せた私が嘯くところは、
結婚とは、その一緒の生活に慣れあふうちに、女は男をバカモノと思ふやうになり、男は女をバケモノと考へるやうになり、さうした女といふバケモノと男といふバカモノが痴情において演じる悲劇あるいは喜劇、もしくは悲喜劇であり、そして、バケモノにバカモノが打ち勝つなど決してない。

この事實の文學的実例として、私はセクスピアの『マクベス』をあげるであらう。
この演劇は、正しくは『マクベス夫人』と題されるべき戯曲であった。ほんたうの主人公はマクベス夫人であり、この女=バケモノ(それを象徴するのが三人の魔女)がバカモノの夫を焚きつけ、そして、身の丈に合はぬがゆゑの悲劇を夫に演じさせるのである。このドラマの動因はすべてマクベス夫人に發してゐるのである。
妻が狂死した後、殘されたマクベスは蛻の殻、たゞのバカモノになって敢えなき最後へとひた走る事になるが、どうしてセクスピアはこのマクベス夫人をドラマの途中で狂死させてしまったのか。まあ、さうしないとこのドラマが惡徳の勝利となり、悲劇どころではなくなってしまふからとこゝでは簡單に云っておく。

ところで、シェイクスピアの悲劇のヒロインたちは殆どが芝居の途中で死んでしまふ。
その原因を私はフロイト心理學的に、セクスピアの「妻殺し」と解析してみたことがあった。
セクスピアもソクラテス同様に恐妻家であった、のではないか。
彼の作った戯曲が濃厚にその事を推測させる。
彼の戲曲には、その悲劇喜劇にかかはらず、恐妻家の男らしい女にたいする手嚴しさがある。
四大悲劇だけにみても、すべてのヒロインたちがそれぞれに問題ありのバケモノに描かれてゐる。
ハムレットの母親のガアトルウド、戀人のオフェリア
オセロウのデスデモナ
マクベスのマクベス夫人
リア王の四人の娘たち、

どの女も主人公の男をバカモノめいて狂奔させ、疲弊させる。彼女たちこそドラマのほんたうの意味での主人公なのである。この男の悲劇を氣韻生動させてゐるものは、彼等に連れ添ふバケモノじみた女たちのチカラなのである。

ちなみに、この四つの悲劇は、人生の青年期/壯年期/熟年期/老年期を象徴的に描いた連作のやうに私には思はれてならない。

このやうな私の推測が当たらずとも大きく的を外してないならば、夫を哲學者にしてしまったソクラテスの妻とともにセクスピアの女房も世界に貴重奇特な貢獻をしたことになる。どうでもいいことだけど。

愚者は経験に學び、賢者は歴史に學ぶ」と云ふが(そもそもこの警句のその趣旨が私には了解できないが)大差ないといふか、愚者も賢者も結婚については、女との關係においては男はすべてバカモノとなってしまふ。

結婚は、男女の関係においてはバケモノとバカモノの戯画となってしまふが、社界維持のための制度としてはその一夫一婦制は充分なる役割を役割をはたしてきたと評價していいのではないだらうか。
それが、女の獨立志向で、その基盤に罅が入った。
夫婦による家を単位としてその集合構造でしかない國家は、今や基礎から毀れ始めた砂上の樓閣と云ふべきだらう。
男と女の一對から、今後はどういふ組合せの關係になっていくのだらうか、
否應もなく新しい時代が始まってゐると云はなければならないのだらう。

變はりゆく 女 バケモン ――― 變はれない 男 バカモン

*

かうして、男と女についての警句に熱中してゐる私は、ワイルドたちの二の舞を不樣に演じてゐるのかも知れぬ。





↑ Art of Heart ――――――――― 思考 69 空想 ――――――――― Word of World ↓


以下、人間がいかに經驗にも歴史にも學んでゐないかを實證して見せるべく、男女の結婚についての古今東西の警句を「時系列」で並べてみる。今後、順次、増加させていく予定。男女関係、夫婦関係で辛く切なくなった時には、こゝをアジイルとでも思ひだしてください。
{ウエッブ上で最も完備したものを作ってやれと材料は仕込んであるのだけど、これは他日に囘します。