マラルメの「白鳥」とヤマトタケルの「やまとまほろば」

2013 0331

まるで「白鳥」づくし、になってしまった  


白鳥はかなしからずや、空の青、海のあをにも染まず、ただよふ 若山牧水188528
 マラルメの詩でもう一つ、ほとんど啓示と云っていいほど直接的かつ具体的に感受されたのが、Le Cigne(白鳥)と後世仮題された無題のソネット、" Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui " であった。
私が詩歌を、その意味よりも語音のはうを重視するのは、日本の和歌に伝統的な(言葉遊びにも近い)「かさね」や「ずらし」「ぼかし」などによる意味の重 層、重奏化=多義化、曖昧化の手法とともに、 Poe に觸發されて Baudelaire によって始められたフランスサンボリズムの詩法の影響だらうか。略
" Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui " Stéphane Mallarmé

Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui
Va-t-il nous déchirer avec un coup d’aile ivre
Ce lac dur oublié que hante sous le givre
Le transparent glacier des vols qui n’ont pas fui !
Un cygne d’autrefois se souvient que c’est lui,
Magnifique mais qui sans espoir se délivre
Pour n’avoir pas chanté la région où vivre
Quand du stérile hiver a resplendi l’ennui.

Tout son col secouera cette blanche agonie
Par l’espace infligée à l’oiseau qui le nie,
Mais non l’horreur du sol où le plumage est pris.
Fantôme qu’à ce lieu son pur éclat assigne,
Il s’immobilise au songe froid de mépris
Que vêt parmi l’exil inutile le Cygne.

この詩篇を、詩歌の翻訳では日本史上ダントツの評價(あまりに巧みで、かへって日本的になりすぎて原詩の持つべきエキゾチズムに欠ける、などと折口信夫に難癖を付けられるほど)を受けてゐる上田敏が『白鳥』と題して譯してゐる。
『白鳥』ステファンヌ・マラルメ 上田敏訳(未定稿)
純潔にして生気あり、はた美はしき「けふ」の日よ、
勢猛き鼓翼の一搏に砕き裂くべきか、
かの無慈悲なる湖水の厚氷、
飛び去りえざりける羽影の透きて見ゆるその厚氷を。
 

この時、白鳥は過ぎし日をおもいめぐらしぬ。
さしも栄多かりしわが世のなれる果の身は
今ここを脱れむ術も無し、まことの命ある天上のことわざを
歌はざりし咎か、実なき冬の日にも愁は照りしかど。


かつて、みそらの栄を忘じたる科によりて、
永く負されたる白妙の苦悶より白鳥の
頸は脱れつべし、地、その翼を放たじ。
徒にその清き光をここに託したる影ばかりの身よ、
已む無くて、白眼に世を見下げたる冷き夢の中に住して、
益も無き流竄の日に白鳥はただ侮蔑の衣を纏ふ。
この譯詩を目にして、私には、われらがヤマトタケルの最期の時の事が想ひ描かれてゐた。まるで、マラルメが『古事記』の倭建命の事を讀んで、それをソネットに詠ったかのごとくにすら思はれた。

そして、フランス語の原詩に戻り、トボトボと単語を拾ひゆきながら、
あけき、きよき、なほき、この日」と、譯すより私は呟いてゐた。トボトボと病身を故郷へと運びながら、白鳥の魂となって翔り逝く日本武尊の最期の場面を重ね合はせて。
『古事記』によれば、
西征から歸ってきたばかりの小碓命(この征旅でヤマトタケルの美名を殺した敵から贈られる)に、父の景行天皇は今度は東伐を命じる。命じられて不滿を持っ た彼は伊勢に、叔母の齋王、倭姫命を訪ね、「天皇は私に死ねと思はれてゐるやうです」と零すが、爲すすべもない伯母は「もしもの時には、この袋の口を解き なさい」と教へて、火打石の入った袋と草薙といふ名劍を授けて、東旅へと送り出した。
東旅を多難ながらも片付けて、尾張國に還り、そこで行く時に契った美夜受姫の所に泊り、伊吹山の神を「この山の神など素手で掴まえてやる」と豪語して、劔 も持たず取りに行った。だが、神に負かされ、祟られて、不治の病となり、故郷への懷ひが募ったのか、病身を引摺るやうにして祖國倭へ歩き出す。これが、日 本の文藝に多用される「道行」の元型となる。
其處より發たして、多藝野taginoの上に到りましし時、「わが心、つねに空より翔り行 かむと思ひつ。然るに、今、わが足え歩まず。たぎたぎしく、なりぬ」と告りたまひし。故、その地を名付けて當藝tagiといふ。その地よりやゝ少し出 ideますに、いと疲れませるに因りて、御杖をつきてやゝに歩みたまひしき。故、その地を名付けて、杖衝tuetuki坂といふ。尾津wotuの前の一つ 松のもとに到りまししに、先に御食miwoしたまひし時、その地に忘れたまひし御刀mihakasi、失せずてなほ有りき。こゝに御歌詠みしたまひく、
 尾張に ただに向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 太刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 あせを
その地より出まして、三重の村に到りましし時、また「わが足は三重の勾のごとくして、いと疲れたり」と告りまたひき。故、その地を名付けて三重といふ。それより出でまして、能褒野nobonoに到りましし時、國を偲ひて詠ひたまひしく、
 倭は 國のまほろば たたなづく 青垣 山隱れる 倭しうるはし
また、詠ひたまひしく
 命の全けむ人は たたみこも平羣の山の 熊樫が葉を 髻華uzuに插せ その子
この謌は、國偲ひ歌なり。また、詠ひたましく
 はしけやし 吾家agiheの方よ 雲居立ち來も
これは、片歌なり。この時、御病、いとにはかになりぬ。こゝに、御歌詠みしたまひしく、
 處女の 床の邊に わが置きし つるぎの太刀 その太刀はや
と詠ひ終ふる、すなはち崩kamuagaりましき。
こゝに、倭に居ます后等および御子たち、諸々下り到りて、御陵を作り、そこの那豆岐田nadukidaに這ひ廻motohoりて、哭きまして詠ひたましく、
 なづきの田の 稻幹inagaraに、稻幹に 這ひ廻ろふ 野老鬘tokorodura
こゝに、八尋yahiro白千鳥になりて、天に翔りて飛び出でましき。
云々
ヤマトタケル=倭建命=日本武尊のこの翔り逝く「白鳥の、タマシヒ」こそが、私の「やまと魂」の原景、原義となった。

あけくきよくなほく、うつくしくもかなしく、翔り逝く「タマシヒの白鳥」、その殘像と影響のもとで、この亡國の感はなはだしき日本の現状を見詰め、見据ゑ、見通すべく、
『きよきまなじり*つよきまなざし』を作り始めてゐたのであった。

たましひの白鳥となり、まぼろしの翼をひろげ、やまとしおもふ


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