堀辰雄『風立ちぬ』「いざ生きめやも」について。續き

{前回の「『風立ちぬ』「いざ生きめやも」についての續き。とんだ長談義となってしまひさうなので、結論めいた部分だけ。
{わが『きよきまなじり*つよきまなざし』の「きよきまなじり」を啓示した折口信夫の事から、それより早く大和路を訪ねて同じ興福寺の阿修羅像に「切ないまなざし」を見た堀辰雄の話題となり、とんだ道草を食ってゐる。 「切ないまなざし」以外、堀辰雄には興味も關心もない。これで終りにしたい。

「風吹きぬ、いざ生きめやも」わがいのち、あさやまかげのむらさきだちて
これでどうだ。
療養所のバルコンに佇んで山を見詰め、茫然と死への願望を呟いてしまふ作者、といふ想定。
つまり、悠久なる山の姿を眺める作者の念頭にヴァレリの原詩「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」が浮かび、それを和訳して口に詠じた時、彼の(意識しない、否定する)死への願望&本能、タナトスが思はず言ひ間違ひをさせた。フロイト心理学はさういふ「言ひ間違ひ」についての洞察、解釈をよくやるだらう。この誤訳をみて、フロイトなら、この作者に戀人の死を望む氣持を診断するに違ひない。もし、この作者が自分のこの誤訳についてフロイト流の自己分析ないし省察をおこなってゐたら、 ……と思ふ私には、志賀直哉の『范の犯罪』やら島尾敏雄の『死の棘』などが想起されてゐた。
しかし、こんな勝手な想定をすれば、エピグラムとして用ゐられたヴァレリの詩と乖離していってしまふ。誤訳の問題が話題なのであった。
どうやら、予定どおり「ミイラ取りがミイラ」となったやうだ。

口直しに、「めやも」を正しく使った實例、和歌のなかの和歌ともいふべき名歌をあげておきます。

むらさきににほへる妹をにくくあらば、人妻ゆゑに われ戀ひめやも 
(大海人皇子=天武天皇)

さざなみの志賀の大曲淀むとも、 昔の人に また逢はめやも 

(柿本朝臣人麻呂)

山は裂け海はあせなむ世なりとも、君にふたごころ わがあらめやも 

(右大臣源實朝)

訂正。「むらさき」は正しくは「むらさき(にほふ」の枕詞、次の「さざなみの」も枕詞)」でした。
でも「むらさきににほへる」ってのも素敵な表現だなと感じ思ひ、怪我の功名?とでもして、わが備忘のために殘しておくことにします。言葉はかうやって豊富となっていく。




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