殺された男と殺した男:日本人の寫眞


佐久間象山と川上彦斎


1864元治元年、松代藩士の佐久間象山は一橋慶喜(後に最後の徳川將軍慶喜となる)に招かれて、京都に赴き、公武合體の説と開國の必要性の論を説いた。

当時の京都は尊皇攘夷の志士が跋扈跳梁し、象山のごとき開明派の論客には危險きはまりない地であった。しかも、象山は單獨の行動を好み、從者も連れなかった。
その年の七月十一日、三条木屋町にて、熊本藩士の河上彦斎らの襲撃に遭って、あえなく落命した。享年、五十四。

象山に妹を嫁がせた勝海舟は、象山の遭難に際して「この後、吾、また誰にか談ぜむ。國家のため、痛憤、胸間に満ち、策略皆画餅」と慨歎したが、後になって「あれはあれだけの男で、隨分輕はづみの、ちょこちょこした男だった」とも評してゐる。
ちなみに、海舟の號は象山が揮毫した「海舟書屋」の扁額に因ってゐる。



殺した男、河上彦齋は「人斬り彦齋」と恐れられた尊王攘夷の志士であり、小柄で色白、片手拔刀の刀技は我流らしく、膝着くほどの低さからの逆袈裟斬りを得意としたといふ。

この彦齋についても、勝海舟の証言がある。「河上はそれはひどい奴さ、恐くて恐くてならなかったよ。会って話してゐる時には、ハハアそうですかななどと空嘯いてゐるが、その日すぐと斬ってしまふ。そして、明くる日は例の如くチャンとすましてきて、少しも變はらない。云々」

この彦齋は、明治維新後、その強硬なる攘夷論のゆゑに開國政府に忌避され、冤罪を以て1872明治四年十二月に斬首された。享年、三十八。辭世、

 かねてよりなき身と知れど君が世を おもふ心ぞ世に殘りける


明治維新の頃の人々、志士をはじめとして写真に撮影されることが嫌ひじゃなかったんだと、写真に撮られるとタマシヒ取られてしまふと云ふ迷信を聞いて育ったものだから、それよりも前の世代の彼らが、とちょっと意外な感じがしたものであった


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