山口昌男、逝去。


2013 0310

 春霞 吹きはらふ風あらだちて、しぐれにまがふ雨ぞ降りくる



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山口昌男、逝去


私にとっては、戰後日本での數少ない「思想」家の一人であった山口昌男が、三月十日の午前二時、逝去した。春秋、八十一年。

昔、彼の最盛期の頃の著述を數冊読んだだけだが、彼の文化についての「周縁と中心」論、どちらかと云へば(それまでの柳田國男などの「中心から周縁」への文化の擴散傳播といふ考へ方にたいし、逆に「周縁から中心へ」といふ逆流性を強調した考へ方は、『易と曼荼羅』の東洋思想的理解によって陰陽太極の對流循環するメカニズムとダイナミズムをこの世界の原理と思ひ考へた私には理解しやすかった。
王權論や道化論、また、トロツキイやメイエルホリドなどを実例に、トリックスタアやハタモノ、スケープゴートの社界的役割の指摘も斬新で刺戟に充ちてゐた。かうした彼の論説の私なりの理解は、私の『畏怖と慰撫』、敗北者や犠牲者、「夭折者」にたいする「畏怖と慰撫」との混じり合った情感が日本人の信仰心となったとする私の認識に間接的なかたちで影響をあたへてゐるのであらう、と思ふ。

默祷するかはりに、私はかつて入力した讀書ノウトから彼の 1989『天皇制の文化人類学』を開き、「天皇制の象徴的空間」(中央公論、1976年12月号)を、現在格闘中の『きよきまなじり*つよきまなざし』との關聯で、彼からの遺言のやうに読んでいった。{舊い表記は私が自分用に勝手にメモしたもので、引用も必ずしも正確ではありません。あしからず。

  
    天皇制と短歌
日本人の詩形の元となった短歌の抒情が、その成立の根元において天皇制の深層構造と密接に絡まってゐるとしたら、人は天皇制の呪縛力の深さ強さに鼻白む思ひになるだらうか。
『佐々木幸綱「萬葉へ」の書評』で岡野弘彦は、大江健三郎氏の「いかなる怒り、怨念に燃えて不當な死を遂げる人間も、一應は短歌的におだやかに終結する辭世を遺す」といふ發言を手懸りに、短歌の抒情が底に湛へる負性に照明を當てる。岡野氏は、日本人が古來短歌の始祖をスサノヲに托してきた事情の神話論的背景として、反逆の神、原罪の擔ひ手の神の姿と「八雲立つ」に始まる神詠が孕む負の緊張感を問題にする。氏によれば、神話的にはスサノヲに定型的な表現を與へられた悲運の皇子の像は初期萬葉に歴史的な肉付けを與へられてゐる。
 

「有馬皇子や大津皇子など、反逆を企ててスケープゴートとして葬られた若い貴族たちが多く、しかも反逆者としては意外にももの悲しい諦觀に沈んだ表情の歌を遺してゐる。」
有馬皇子の歌が、悲運の王子の怨念を引出すよりも、それを隱す役目を果し、情念を押殺す役目を果したといふ佐々木氏の指摘に觸發されて、岡野氏は
「歌は彼等猛烈なスケープゴートの口から怨念の呪詛として吐きだされるはずのものであるが、傳承のうへでは、じつは鎭まりがたい怨念の最後の鎭めの場において呟かれる詞としての役割が與へられてゐる。」


{私のノウト{これらの辭世を本人の眞作と斷定していいものか。鎭魂思想に基づいて後世が擬作したはうの可能性を、有馬皇子にも、大津皇子の辭世にも私は思ふ。日本書紀の描きだす有馬皇子は最後まで、といふか最後には(陰謀の事は我より汝等のはうがよく知ってゐるだらうが)と傲岸不遜な態度を示して天智天皇の權力に對し屈しなかった。その彼が辭世としてあのやうな自傷的な歌を遺すだらうか(そもそも、辭世に歌を作る傳統がその當時あったのだらうか)。大津皇子の場合にしても、大伯皇女の輓歌の擬作僞作の可能性を合はせ見れば、疑惑は深まる。{人々の「畏怖と慰撫」との抑へがたい情念が


このやうに、岡野氏は形式による情念の抑壓のなかに短歌の本質を見ようとする。岡野氏は「歌のエネルギイは反逆者の心の鎭めの側に費やされてゐる」と、短歌がその樣式の根底にスケープゴートおよびスケープゴートに託する心情を不可缺の成立条件として持ってゐることを指摘する。


私の表現を用ゐれば、短歌は否定的な媒介によって捉へられた負性の現實に心情を託すことで、現實の周縁的状況を絡め取る手段を提供する。漢詩が抒情の人工的・技巧的表層構造の媒體であったのにたいし、短歌は抒情の深層構造の表出の媒體であり、頼周縁的な感性の據り所であったかのやうである。
この視點は、私が焦点を當ててきた、王権と王子の對立によって歴史=神話的表出の形態を得た天皇制の深層構造と對應する、点を一概には否定できまい。つまり、天皇制と短歌の抒情は互ひに他を補ふメタファとなってゐる、といふ重大かつ深層の洞察に近づきつゝあるのだ。

    

なんだか、柳田國男山口昌男とで、『對のあそび』をしてみたくなってきた。