「きさらぎの月」西行と釋迢空『やまとまほろば』


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2013/0224

ふと夕暮れゆく東の空を見ると高圓山の上に滿月が出てゐた。「如月の望月」であった。
如月の望月と云へば、旧暦の如月だけれども、西行上人の辭世とされる名歌が反射的に思ひ呟かれる。

願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ

とともに私には、こちら新暦、今と變らぬ二月の寒空を見上げて、遠く近く、愛する春洋のゐる硫黄島を思って詠ったであらう折口信夫の絶唱が冴々と思ひ出された。

きさらぎのはつかの空の 月ふかし。まだ生きて 子はたたかふらむか

折口が愛し、養子にした春洋は中年ながら應召され、陸軍士官となって硫黄島に配属され、アメリカ軍の徹底的な攻撃を受け、生死不明ながら歸らぬ人となった。
終戰を半年後にひかへた昭和二十年の二月、その春洋が生存中に書いて寄越した短い消息を手に、折口信夫は冴々たる冬の月を見上げて、『硫氣ふく島』と題した詩のやうな思ひを深く、流露させてゐたのであらう。
 わが子らは からくたたかふ ―― 。
たたかひのたゞ中にして、
我がために書きし 消息
 あはれ たゞ一ひらのふみ ―― 。

 然ゆゑに、われはよろこぶ。
 しか故に、我は泣きつゝ ―― 。
讀みをへて ふたたび讀まず
 あゝ 深く 吐息をぞ吐く。

島いくさ 勝つこと難し。
勝ちがたき戰に ありて、
老いの身の我を かなしみ、
はしり書く みぢかきことば ―― 。

かずならぬ身と な思ほし ―― 。
國のため 命をまもり、
 如何ならむ時をも堪へて
 生きつゝもいませ とぞ祈る ―― 。

生き難く いくさはせまる ―― 。
島の上 皆から火照り
燃ゆる火の炎中に入りて、
 いで 我は 仇を殺さむ。

 言ひたきも 今はうかばず
 書きとむる數行のことば ―― 、
これをのみ申すことぞと
書きすてしことの しみゝに
 思ひ深しも

    反歌
きさらぎのはつかの空の 月ふかし。まだ生きて 子はたたかふらむか

硫黄島に米軍海兵隊が上陸戦を開始したのは一九四五年、昭和二十年の二月であった。
二月十九日、艦艇からの砲撃支援のもと上陸敢行、以後ほゞ一ヶ月間、激しい攻防を演じて、米軍が制壓。
三月二十一日、硫黄島守備隊玉碎と大本營發表。しかし、その後も散發的に日本軍は抵抗し、三月二十六日、栗林大將以下三百名餘が突撃敢行して全滅した。クリント・イーストウッドが監督した『硫黄島からの手紙』といふ映画で、その時の過酷な状況が或程度想像された。
日本側の死者は總勢二万九百三十三名のうち96%の二万百二十九名が戰死あるいは行方不明。米軍も死者數千名、負傷者二萬名を出した。
その死者のうちの一人が、折口信夫の養子となった藤井春洋であった。だが、すでに出征してゐた春洋は、柳田國男を仲人にしたこの養子縁組の事を識らなかった。

敗戰後、遺骨もない春洋の墓を彼の實家に作り、そこに自分の墓も作り、そこに折口信夫の遺骨の半分が納められた。
生前、信夫は遺言のごとく『きずつけずあれ』といふ詩を作った。
わが爲は 墓もつくらじ ―― 。
然れども 亡き後なれば、
 すべもなし。ひとのまにまに ――
  
  かそかに たゞ ひそかにあれ

 生ける時さびしかりければ、
 若し 然あらば、
 よき一族の 遠びとの葬り處近く ―― 。

そのほどの暫しは、
 村びとも知りて 見過し、
やがてそも 風吹く日々に
沙山の砂もてかくし
あともなく なりなむさまに ―― 。

 かくしこそ ――
 わが心 しづかにあらむ ―― 。

わが心 きずつけずあれ
自分の愛人にし、妻も取らせなかった弟子が中年の兵に取られて硫黄島で無殘に死んでいったことに、「タマ」や「靈」の特異な研究家であった折口は、春洋の事に「未完成靈」のことを深く強く思ったにちがひない。そこには、自分が一人の夭折者を作りだしてしまったといふ自省なり、後悔なりがあったであらう(と思いたい)。


そして、かうした感性が興福寺の阿修羅像を見て鋭く閃いたのであらう。
飛鳥奈良時代の佛像のなかに、幼童の姿を(形見のやうに)佛身に刻んだものがある。
それらと共通する精神といふものを、この阿修羅をはじめとする八部衆は持ってゐる。


この八部衆は、光明皇后が生母、橘三千代の一回忌に發願して、興福寺の西金堂を建立した時に、その守護として十大弟子とともに作られた。
その像の多くが少年をモデルに造形したものだ。それらを見て、日本の青春とも云ふべき平城京の時代のことを『阿修羅の時代』として制作してゐた私は、藤原不比等の息子の四兄弟、その四兄弟からそれぞれ生まれでた藤原の子弟たち、あをによし寧樂の都を陰謀策謀のかぎりをつくして「阿修羅の時代」にしてしまった彼等を思ったのであった。
そして、これら藤原氏の子弟、阿修羅(その素性は鬪爭挑戰の神であった)となった彼等の犠牲となって無慙にも亡ぼされていった王子たちはじめとする犧牲者のことをさらに思った。
やるはうもやられるはうも、まるで遊戯でもするかのやうに無邪氣に、陰謀策謀ごっこに熱中してゐるやうな、少年から青年にかけてのまさに青嵐のごとき時代であったのだとこの平城京の時代の事を感想して、私は溜息をついた。
かうしたなかで、日本の原罪なるものが形作られていったのだ。
夭折させられた者たちが怨靈となり、天變地異によって祟りをなし、人々畏怖をなして御靈として慰撫を始める。
こゝに日本人の信仰が成立した。
畏怖と慰撫、の祈念によって怨靈を御靈へと淨化鎭魂し、かつは守護の英霊とする

靈の存在をかうして實感するやうになり、物の怪などの惡龍に敏感となってその後の日本人は生活した。
怨靈御靈は若宮今宮、祭禮や物語などに俗信化しつゝ、畏怖と慰撫とが日本人の精神の感覺となっていった。
これによって、日本人の信仰のみならず、その文化全般にわたる特徴が指摘できるだらう。
このやうに結論して、私の日本人についての自問自答は一應決着した。


高圓山には、その山裾にある奈良縣の護國神社に祭られた戰爭の犧牲者、その英靈たちを向かへ送る「大文字火床」が戰後、地元の有志によって設けられた。
その英靈たちが往來する高圓山から昇り出た「如月の望月」、感慨ひとしお、つくづくと見入った。





 名歌、絶唱に竝べ置くのはおはづかしいかぎりだが、

英靈の事しのばるゝ、ふかぶかと  ‥‥ きさらぎ、月の高圓の山 



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