日本人への遺言:小林秀雄『歴史と文學』1941:集語

20080702



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○小林秀雄190283 『歴史と文學』1941


歴史にたいする健全な興味が喚起できなければ、歴史に關する情操の陶冶といふ事も空言でせう。歴史に關する情操が陶冶されぬところに、國體觀念などといふものを吹き込み樣がありますまい。國體觀念といふものは、かくかくのものと聞いて、成程さういふものと合點する樣な觀念ではない。僕等の自國の歴史への愛情の裡にだけ生きてゐる觀念です。他では死ぬばかりです。

歴史は決して二度と繰り返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕等の哀惜の念といふものであつて、決して因果の鎖といふ樣なものではないと思ひます。それは、例へば、子供に死なれた母親にとつて、歴史事實とは、子供の死といふ事が、幾時、何處で、どういふ原因で、どんな条件の下に起ったかといふ、單にそれだけのものではあるまい。かけがへのない命が取り返しがつかず失はれてしまつたといふ感情がこれに伴はなければ、歴史事實としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死といふ出來事の成り立ちが、どんなに精しく説明できたところで、子供の面影が今もなほ目の前にチラつくといふわけには參るまい。歴史的事實とは、嘗て或る出來事があつたといふだけでは足りぬ、今もなほその出來事がある事が感じられなければ仕方がない。母親はそれを知ってゐる筈です。母親にとつて、歴史事實とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言へませう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死といふ實證的な事實を肝に銘じて知るわけにはいかないからです。さういふ考へを更に一歩進めて云ふなら、母親の愛情が何も彼もの元なのだ。死んだ子供を今もなほ愛してゐるからこそ、子供が死んだといふ事實があるのだ、と言へませう。愛してゐるからこそ、死んだといふ事實が退っ引きならぬ確實なものとなるのであつて、死んだ原因を精しく數へ上げたところで、動かし難い子供の面影が心中に蘇るわけではない。つまり、實證的な事實の群は母親にとっては一向不確かなものだと言へる。歴史の現實性だとか具體性だとか客観性だとかいふ事を申します。實に曖昧な言葉であるが、もしさういふ言葉使ひたければ、母親の愛情が歴史事實を現實化し具體化し客觀化すると言はねばならぬ筈であります。

その母親もこの現代日本では死滅して、歴史も意味をなさなくなつてゐる。
未來は暗雲に見通せず、過去に智慧を求める氣持もない。たゞ現在性においてのみ、浮き漂ひ流されていくだけの時間でしかない。
日本人は、亡ぶべくして亡びつつあるといふしかない。
もう何を云ふのもむなしい。これもまた歴史の必然、榮枯盛衰・諸行無常の推移と云ふしかないのだらう。


○小林秀雄の著作(Amazon)