日本人への遺言:小林秀雄 1936


小林秀雄190283 『志賀直哉(2)』1936


要するに、若い作家達が失ったものは腕ではない、精神力なのだ。腕の方は發達した。大正の作家より昭和の作家は技術の上で非常に進歩した。この技術の進歩のために、觀念であれ心理であれ、風俗であれ、いよいよ多彩に描ける時になったのだが、作家達は心の深さといふものを次第に見失ってきたのである。第一、心の深さといふやうな詞を輕蔑するやうになってきた。
併、作品といふものは正直なものだ。作品から觀じられるリアリティといふやうな詞は、詞としては甚だ曖昧だが、直覺のうへでの感じとしては少しも曖昧なところはありはしない。作品のリアリティの強さ弱さはそのまゝ作者の心の深さの度盛を示す。それだけの事だ。
小説技術の發達とともに、心の深さといふものについて、作者が知らず識らず無關心になったのも、小説技術が專らリアリズムといふ技術のうへに發展したといふ事が與って力がある。

先日、志賀氏の座談會で、瀧井孝作氏が次のやうな意味の事を云った。
日本の詩の傳統的精神には抒情といふものは實はないのだ。少なくとも第一級のものにはさういふものはない。萬葉もさうだし、蕉風の正風といふものもさういふもので、抒情といふより寧ろいはばリアリズムなのだ。自然といふものは、いつも見えてゐるやうだが、じつはその前に幕が下りてゐるので、それを素早く明けて、そこに見えたもの、山でも鳥でも何でもいいが、そこにあるのがはっきり見えた時、それを掴んでくるのが詩だ。内側から歌ひださうとすると、詩は流れてしまふものだと。
もし和歌や俳句にさういふ詩の發想法の傳統が根強く流れてゐるのが確かなら、志賀氏のリアリズムはさういふ意味で非常に詩的だ。現代一流小説家の中で最も單純であり、或意味貧しいとも云へるのだが、その強さ、あるいは純粹さといふ性格は殆ど比類のないものである。いはゆる名文ではない、急所急所で如何にも見事に眼が澄んでゐるといふ文章だ。

詩を失ったリアリズムとは、無私な觀察といふものの過信による文體の喪失である。獨特の文體を持たぬ作家の觀察といふやうなものが一體何だらう。そんなものを誰も文學から期待しやしない。だが、文體の喪失といふ事は現代文學の最も明らかな特徴なのである。
リアリズムは作家の文體といふ抵抗に出會はないから、非常な勢ひで氾濫する。作家は眺めるもの悉くが描けるといふリアリズムの萬能を心を空にして享受してゐる。もし描く困難があるとしたら、それは何か外的な、例へば政治的禁令といふやうな障碍である。さういふ種類の障碍さへなければ、作家はリアリズムに引摺られてどこまでも行くであらう。亜流リアリズムの當然な運命なのだ。

人は志賀氏の自然描寫の美しさを云ふ。あゝいふ美しさは觀察と感動とが同じ働きを意味するやうな作家でなければ現せるものではない。觀察された或事實が動かし難い無二の現實性を帶びるためには、觀察者のその一囘かぎりの感動といふものにその事實がいはば染色されてゐなければならない。そこに叙事詩といふものを發明した人の健康な經驗がある。
「世の中に一つとして同じ樹も石もない」と教へたフロオベルはその事を非常によく知ってゐた。だが、この金言を保持するには強い意志が要る事を亜流が忘れたに過ぎない。

人間は才能のないところでは失敗しない、才能の故に失敗する、と云はれるが、何も人間に限らない。主義でも思潮でもさういふ傾向がある。

作家がロマンティスム技術の空想性に頼る危險は、批評家がやかましく云ふほどじつは危險なものではない。空想による過失だとか虚僞だとかいふものは、この世知辛い世の中で、放って置いても誤魔化しおほせるものではないからだ。リアリズムの萬能に頼る作家の陥る欺瞞は殘念ながらさうあからさまなものではない。そこでは虚僞がいつも尤もらしい姿をしてゐるからだ。
「生のままの眞實は嘘よりもっと嘘だ」とヴァレリイは言ったが、リアリズムが專ら生のまゝの眞實の蒐集に走るやうになったのも、作家が各自の心に殺すべき嘘を見附けなくなってきたからだとも考へられる。
リアリズムの年齡がまだ若い頃には現實暴露といふ事は、同時に作家が自分の心に殺すべきセンチメンタリストやロマンチストの反抗を感じてゐた事を意味した。さういふ反抗を心中に全く感じなくなった時、作家のなかの詩人が死ぬ。

オルテガが明らかに洞察してゐるやうに「規範がないといふより寧ろ規範に遵はないといふ特徴の危機がこの現代に生じてゐる」



『きよきまなじり*つよきまなざし』    
Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World