「狂氣について」鈴木大拙『禪と日本文化』より。『日本への國粹』のために

2008/0612

集語「狂氣について」鈴木大拙『禪と日本文化』1938より。『日本への國粹』のために

{「人として生まれたのだから、人となってもつまらない。わが生命をよりよく燃燒させんがため、神をめざしていくのだ」と私は嘯いた。私にかう焚きつけたのは、鈴木大拙187066の以下の文章もその薪の一つであったのだらう。

{明治時代以前の日本では「」とか「」とは、現在とは異質の語感を持ってゐた。現在のやうな一義的な理解ではなく多義的な、多面性を持ったまさに日本人のコトダマシヒのやうな語であった。「常民」と柳田國男は日本人を規定したが、「常」の意識の強い日本人はその一方で(いや、そのゆゑに)「異常」なるもの、狂や惡にたいして「神聖」につうずる畏怖の感情を抱き、尊重したのであった。中世の、楠木正成129436が屬してゐた「惡黨」にも、江戸時代の文人や志士などの「狂人」にもさうした語感が当然含まれてゐる。

{今の日本人は(狂も惡も隔離し)あまりにもみづから凡俗化してしまってゐる。それもこれも、敗戰後に捏造された、出來損なひの日本語のせゐかも知れぬ。



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鈴木大拙187066『禪と日本文化』1938

自覺に關する禪の技術の心理的解釋は「人間の極限は神の機會である」。東洋流に云へば、窮して通ずるといふ眞理に基礎を置くのである。偉大な行爲はみな、人間が意識的な自己中心的な努力を捨て去つて、無意識の働きに任せる時に成就せられる。神祕的な力が何人の内にも宿されてゐる。それを目覺してその創造力を現わすのが參禪の目的である。人が「狂氣」になつた時、偉大な事が成就されるとしばしば言はれる、といふ意味は、人間普通の意識層では思想や概念が合理的に組織され、道徳的に配置されてゐる。そこでは我等はいづれも通常の、常套的の、平々凡々の俗人である。賞讃に値する市民である。どこまでも間違ひがない。だがそこには踏み慣れた道を外れようとする意欲も、創造しようとする衝動もない。日常を踏み破れば、そこから先は人間社會では危險人物と見なされてしまふ。それは凡人には堪へられない。しかも彼には周圍から社會人として家庭人としての期待が掛けられてゐる。だが、偉大な魂の場合、期待されていない。むしろ期待されないやうに振舞ふ。氣違ひとなる。彼は自由である。都合のいい所に彼を繋ぎ止めて置くわけにはいかない。いつも何か自分より大きなものを追ひ求めてゐる魂。この何か大きなものは、彼が眞實自分に眞摯でかつ眞面目な場合、さらに高い意識の層に彼を押上げて、さらに廣い展望によつて事物を眺めさせるやうにする。自分が眞にゐる場所、居る事ができ、また居なければならぬ場所を知れば、彼は自分についてゐる幻を成就し實現するために「キチガヒ」になる。あらゆる偉大な藝術はかういふふうにして生産されるのである。藝術家は創作家として、我々のやうに常套的コンベンショナルな方面にのみ心を動かしてゐる者とは異なり、高次元の面に生きてゐる。このより深い靈感インスピレイションの源泉に火を點ける事が、異常な方法論を以て禪の目的とするところなのである。
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悟りは「狂ふ」事、通常の意識のレヴェルたる知的な段階を超脱する事である。悟りは何かしら異常なものなのである、と前に言つたが、悟りには別の面があつて、それは通常に異常を見、平凡に神祕を感知し、創造全體の意味と意義を一擧に了解する或一點を把握して、一本の草の葉をとつてこれを丈六の金身佛に變ずるのである。



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