日本人への遺言:柳田國男と折口信夫 1947

 
戰後の或年の春、折口は成城學園にある柳田宅を訪れた。櫻盛りのうららかな日であつた。柳田は折口を外へ誘ひ出し、一時間ほどかけて成城から喜多見にかけての村の櫻などを見てまはつた後、日本民俗學研究所に戻つて、書棚の竝ぶ一室に入つた。その頃から二人はあまりものを云はなくなり、表情は暗鬱なものになつてゐた。盛りの櫻は二人に苦しい想念を誘つたのかも知れない。 やがて、柳田から口を切つた「ねえ、折口君。戰爭中、我々は櫻の花が日本人の心の象徴であるやうに言ひ、若い者がこの花の散るやうに死に急いで、自分の命を進んで死地に捨てることを見てきたのだが、こんなふうにして若者が命を絶つことを潔いとし、美しいとする民族が、日本人のほかにあるだらうか。もしあつたとしても、さういふ民族は早く亡びてしまつて、まはりを廣い海に圍まれて他の民族と爭つたことのない日本民族だけが辛うじて殘つたのじやないかしらん。あなたは、どう思ひますか」、さう云つて柳田は床の一點を凝視して、胸を抱へるやうに腕を組んでゐた。向かひ合ふ折口は、答を返さず、深く頭を垂れてゐた。お互ひの學説に微妙な相違を持ち、時に假借ない論爭を繰り返して、この師弟は日本人の心意傳承を研究して、その心魂の據り所の解明に努めてきた。この二人の學究が重苦しく思ひ沈んでゐる。私の記憶には、日光の遮斷されたやうな花暗い研究室で、影繪のやうになつた二人の姿が燒きついた。沈默は續き、ついに折口は答を返さず、柳田も求めず、話は、ベネディクトアンダーソンの『菊と刀』に話題を轉じた。
{岡野弘彦『折口信夫傳』2000 より


{1947昭和二十二年1005に雜誌《悠久》の座談会「神道とキリスト教」での發言
折口信夫「戰爭が濟みました時に、神が敗れた理由を吾々は解かなければいけない。何のために神が敗れたのか。誰か解決してくれた人があるかも知れませんけれども、神道のはうでは存外そんなことを言はないで、すぐに樣子が變ってしまったと思ひます。。吾々の考へてをった神が、日本人の持ってゐる神の本質ではなしに、怒らない、憤らない神といふふうに考へ過ぎてゐる。ちっとも憤りを發しない。だから、何時も吾々どんなことでもしてゐる。 …… スサノヲの命のやうな性格があって、非常に怒りやすく非常に暴れられる。さういふ性格が神に欲しいのですね。欲しいといふことは、吾々だんだん神からさういふものを取り去ったといふことを考へるからで、神を非常に神聖な、非常に圓滿なものと人間が勝手に考へてきた事です。。なんでもかでも寛容してくれるものにしてをかうといふ懶堕性、日本人は全體にそんな懶堕性をいふものを持ってゐる。。それでなければ、吾々はかういふ事が起きた以上嚴しく神にたいして反省しなければならないはずです。どんなことをしても神は罰しない、神は怒らないと信じてゐるために皆がどんなことでもする。。日本では怒る神といふものはデモンとかスピリットだとか、低級な神に押付けてしまって、いい神は皆祟りをしない神と考へるやうになってしまった。



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