:2002:『かなしむちから』シネマ化プロジェクト(2)

 
『かなしむちから』第一部『悲別』シネマ story & plot

平城遷都千三百年記念(私的)事業『きよきまなじり*つよきまなざし』の一部として 

『かなしむちから』第一部『悲別』シネマ化は、大津皇子の最後の
三日間に焦点して「序破急」の構成にしたがって描かれます。
序は、大津皇子の目覚めた霊魂が自伝的な回想をする部分で、彼の
時代と彼の情況と彼の個性とを、彼にとって最も印象的ないくつか
の場面で描きながら、姉を訪ねて伊勢に向う場面へとつながってい
きます。
破は、この映画の本体となる部分で、姉を訪ねて大和と伊勢を馬で
往還する、いわば Road Movie(『万葉集』の語で云えば「羇旅発
思(旅情の道行)」、日本の最も傳統的な演劇形式にしたがってい
ます。黄泉路行くように伊勢に下り、少年少女の時に生別れとなっ
ていた姉と十四年ぶりに再会。伊勢斎王の姉を説得しようとして、
かへって叱咤され、その夜のうちに大和へ戻って行きます。
急は、戻った大和の国を多武峰より望見して「やまとは国のまほろ
ば」と魂の白鳥となって告別する。その後、自首するかたちで逮捕
され、翌日自邸で絞首の死罪となるまで。

シネマは、二上山の大津皇子の墓所、岩屋玄室の漆黒の暗闇のなか、
山越の風にふと覚めた大津皇子の霊魂の独白に始まります。{この
場面設定は折口信夫の『死者の書』を拝借しています。このように
随所に古典からの借用引用をおこなって、映画に「文学」を仕掛け
てあります。
岩屋に滴る水の音に意識を覚ました彼は、山越の風の音に胡笛の旋
律(マーラーの『大地の歌』第六楽章「告別」)を聞いて、独白を
始めます。
「そうか、われは大津という王子であった。そらみつ大和は、とぶ
とりの飛鳥の浄御原《きよみはら》に都なされて、大君は神にしま
せばと讚へられた天武天皇の大津という皇子。 ……
「天武天皇の時代精神をその一身に具現して、明き清き直き身と心
に恵まれ、歌舞音曲、礼楽御射書数の六芸《りくげい》はもとより
内教外典詩賦文史の類を学び、文武両道の君子士大夫となって、貴
人の目、文人の口、武人の手足。流行の見本、礼儀の手本。国の宝
にして国の華、見る者すべて「ますらを、みやびを」と仰ぎ見た、
さうであった。 ……
「天武天皇の治世十三年の春、不肖ながらも弱冠にして国家聴政の
大役に命ぜられ、時はあたかも変革成就するの時、欽明天皇以来、
多くの血と汗と泪とを流しての東夷《とうい》倭国の文明開化、日
本と美称しての国家創成事業に画龍点睛《がりやうてんせい》とい
うところで、天武天皇の御崩御。その直後、皇后皇太子の御嫌疑を
蒙って、磐余《いはれ》訳語田《をさだ》の自舎に死を賜り、「背
私向公《はいしこうこう》、教王護国《きょうようごこく》、不惜
身命《ふしゃくしんみよう》、捨身飼虎《しやしんしこ》」と大言
壮語し、「金烏臨西舎《きんうせいしゃにまかり》鼓聲催短命《こ
せいたんめいをうながす》泉路無賓主《せんろにひんしゅなく》此
夕離家向《このゆうべいえをさかりてまかる》」「ももづたふ磐余
の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲がくりなむ」と臨終辞世して、日
本という国家の創成のために、捨身飼虎「豈に戦ひ勝ちて後に丈夫
《ますらを》と言はむや。身を棄てて国を固めばまた丈夫にあらず
や」と、戦はずして国を讓り、骨肉相食んでは流された血と汗と泪、
親と子との犯したる罪、天津罪国津罪、汚れ穢れを祓ひ浄めるべく、
たまきはるいのちを二十四歳を一期に断絶した。大津という皇子。
さうであった。だんだんおもいだしてきたぞ。 …… 」
と、短いながらも波瀾万丈、意義深くもあった自分の生涯を走馬灯
させ、その最後の三日間へと次第に記憶を明確にさせていきます。

{今から千三百年前の、今までドラマやシネマに描かれ
た事のない時代と人物の事ですから、物語の前提となる
時代状況を大津皇子の hisStory のかたちで要約してお
きます。
大津皇子が大海人皇子(天武天皇)の第三男として誕生
したのは、西暦663年、歴史上では朝鮮半島での「白
村江の大敗」という新生日本にとって重大な事件のあっ
た年です。この二年前、中大兄皇子は新羅の侵略に亡国
した百済の要請を受けて、斉明天皇(天智天武の生母)
を押し立て、まさに国家總動員の態勢で大和を離れ、九
州筑紫に陣営しました。その西下の船中で、大津皇子の
唯一人の姉となる大伯皇女が誕生しました。二人の生母
は大海人皇子には実兄となる中大兄皇子の長女の大田皇
女で、彼女は同母妹の菟野皇女(持統天皇)と一緒に大
海人皇子の妃にやられました。姉を意識する妹は姉より
も早く男子(草壁皇子)を生む事ができましたが、その
時の難産がたたって二度と子が生めない体になってしま
いました。ちなみに、持統天皇が生まれた年は645年、
彼女の父である「中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺」があ
った年です。
白村江に大敗した中大兄皇子は大和に引き返しますが、
その途中、大津皇子を生んだ大田皇女は亡くなります。
大和に戻った中大兄皇子は、母をなくした大伯と大津を
引き取って、わが子のように育てます。
大和飛鳥に戻って二年目、中大兄皇子の同母妹の間人皇
女が亡くなります。それから二年後の667年、中大兄
皇子は今は亡き彼が最愛した女たち、母の斉明天皇、妹
の間人皇女、長女の大田皇女を遠智岡に合葬すると、大
和を捨てて近江への遷都を断行して、次の年に正式に即
位して天智天皇となります。
近江の新都はやがて「大津京」と呼ばれるようになるほ
ど大津と大伯は天智天皇に寵愛されて、子のない皇后の
倭姫王のもとで慈しみ育てられます。
水の都に平穏な日々が四年ほどが過ぎた頃、四十五歳と
なった天智天皇は自分の後継者の問題を苦慮して、従来
の大王制とは異なる父子相承の天皇制を実行に移して、
長男だが生母が釆女(地方豪族の出身)の大友皇子に大
海人皇子の長女である十市皇女(生母は額田女王)を娶
せ、葛野という嫡孫の誕生を見屆けたうえで大友を皇太
子に立て、摂政職に任じて、今や邪魔な存在となった同
母弟の大海人皇子の排除を始めます。
兄の過酷非情な権力闘争ぶりをその傍らで見てきた弟は
自分に降りかかってきた死の運命に出家を願ひ出て、一
人近江から飛鳥の古京へ、さらに吉野へと逃げだします。
その哀れな逃亡を唯一人、妃の菟野皇女だけが草壁を連
れて後を追ひます。ところが、死の手は兄が弟を把むよ
り早く兄を把んでしまい、671年の年末に天智天皇は
崩御してしまいます。
そして、それから半年後に、皇位を争うわが国にかつて
ない規模の内乱が近江の大友皇子と吉野の大海人皇子の
あいだに起ります。後世にいう壬申の乱です。
この時、大津皇子は九歳、近江に居た彼は大海人皇子の
手配の者によって拉致され、東国へ移動中の父のもとに
運ばれます。
そこで初めて大海人皇子を父として対面(それまでは祖
父の天智天皇を父とばかり思っていた)、顏も知らぬ生
母の唯一人の妹である菟野皇女を軍陣で活発に動き囘る
颯爽たる姿で間近く見て魅惑される事になります。
真夏の一箇月をかけた天下分け目の戦争は寡兵であった
大海人皇子の一方的な勝利となり、大友皇子は自害、そ
の生首を見屆けて大和へ凱旋、都を飛鳥に戻して、天武
天皇として即位、皇后に菟野皇女を立てました。
大津皇子にとっては父と伯父との骨肉相食む戦争であっ
た壬申の乱は、少年の心を深く傷つけ悲しませ、彼の最
初の深刻な体験となりました。
天武天皇の時代は、兄によって有力な王侯貴族が粛清さ
れ、しかも天智天皇にしたがった有力者たちも殆どが近
江側にあって亡び去り、若者たちのなかに天武天皇一人
が長老として、まさに現人神として君臨する物理的かつ
心理的な条件が整っていました。すでに四十二歳となっ
ていた天武天皇を專ら補佐して政事の中心に立ったのは
二十七歳の皇后でした。
その天皇と皇后との最初の仕事は、伊勢斎宮の再開とそ
の斎王に十二歳の大伯皇女を任命し、その後見として天
智天皇皇后であった倭姫王を付ける事でした。この人事
を、世間では皇后の差金だと露骨に風評しました。そし
て、生き別れゆく姉が心配したように世間でも孤兒とな
った弟の運命を風前の燭と同情しました。ところが、皇
后は大津皇子を引き取り、彼女のもう一人のわが子とし
て育てました。彼女の唯一の子の草壁皇子が生来の病弱
で、万が一の事を考えて影の皇子にでもするのであろう
と云い合ひました。
早くに母をなくして母のにほひすら知らない大津皇子は、
母の面影を追って思慕する伯母の間近くにいられる幸福
と、いつ命を奪はれるかも知れぬ不安と恐怖のうち少年
時代を過します。
不安と恐怖は(漢詩文の学問や伎楽の稽古などによって)
やがて彼に自分を隠す事、隠すために演ずる事を教え、
また、みずから身を守るための体技武術にはげしく熱中
する疾風怒涛の青嵐時代を過させます。
そんな恍惚と不安の日々を過す彼が十八歳となる年、6
81年、天武天皇は律令と国史の制作を勅命します。殊
に国史制作、日本という現在創成中の国家のための歴史
を制作する作業は大津皇子に大いなる体験となり、文学
的な才能に恵まれた彼を歴史家に仕立てあげます。彼は
総裁に任じられた親友の河嶋皇子とともに、日出づると
ころの日本という国家創業の大いなる先人として推古天
皇の摂政であった厩戸皇子の業績に注目し、聖徳太子と
して文化英雄に仕立てたりして、日本史のための記定に
鋭意努力します。
天武十二年(683年)、成人した大津皇子は病弱のた
めに摂政職をはたせない草壁皇太子を代理するかたちで
国家聴政を命じられます。天武天皇の治世も十年以上が
経ち、人心に弛緩と墮落が目立つようになっていた世相
を若き指導者の出現は一変させ、大地震などの天変地異
の最中に氏姓改革などの大事業をこなして政治家として
の実績をあげる大津皇子に天武以後の期待が集ります。
そんな大津皇子の活躍をねぎらふべく赴いた吉野で、天
武天皇は秘伝の舞を伝授しながら「取りたければ取るが
よい」と大津皇子の耳元に呟きます。大津皇子は「国よ
りも天皇の馬を」と答へて天皇を安堵させます。
この直後に天武天皇は宮中での菊花重陽の節句の祝宴で
病を発し、ちょうど一年後となる天武十五年九月九日に
五十六歳を以て崩御してしまいます。
天武天皇の発病に、世間は早くも十五年前の壬申の乱の
ような事態を予想し、その中心的存在に大津皇子を置き
ます。
あまりにも病弱な皇太子を抱へる皇后は戦ふまでもない
ほどの劣勢を自覚し、もう一人のわが子である大津に禅
讓しようかとまで思い考えますが、天皇亡き後、伊勢斎
王を規約により解任されて大伯皇女が都に戻ってくる事
を思い、戻ってきた斎王の姉と有能な摂政の弟が一つと
なった時、自分たちは(大伯を伊勢にやったように)余
計者、邪魔者として亡ぼされてしまう、と戦慄恐怖しま
す。戦ふしかないと決意すると、皇后は父親讓りの機敏
な策謀家となって「大津がいなければ大伯はたゞの皇女
にすぎぬ」と判断して、果敢にも大津皇子に照準します。
力づくでは勝目はないだらうが、彼女には大津をわが子
として育てた事の自信と確信がありました。
大津皇子は歴史家として政治家としての認識において、
天皇の父子相承を実現させなければ日本という国体は成
立しないという思い考えになっています。そのためには、
自分は国を讓らなければならぬ、とこの国の「国讓り」
神話などを思い浮べながら考慮していきます。また、
「忠君愛国は士大夫たるべき者の思想であり、これを臣
下の第一の地位にある自分が破るわけにはいかぬ」と冤
罪を受けて亡びていった山背大兄王の最期の事や蘇我倉
山田石川麻呂の最期の事を大いなる前例にして、皇后に
は従容然たろうと心を定めます。
天武十五年の夏の盛り、皇后は重態となった天皇のもと
に大津皇子を喚び、天皇の配慮を伝えます。そして、大
津皇子に王位への野心のない事を確かめて「だが大伯は
どうであろう。大伯は斎王とされた事で吾等を恨み憎ん
でいよう」と決めつけ、姉の説得を大津に誓はせます。
九月九日、天武天皇崩御。諒闇中にも拘はらず生臭く焦
臭くなりゆく政局、大津皇子を担ぎださうとする動きを
大津皇子自身が制止しているといったふうの際どい状況
の中、天皇を称制した皇后は「大伯の事はどうなったの
か」と大津皇子に催促します。それに重なるように大津
皇子擁立の中心人物の河嶋皇子からは決起を促す矢の催
促があり、それを制止に出向き、河嶋皇子と激論になり、
その帰り道、馬を走らせるうちに(状況からの逃亡のよ
うな思いを生じさせて)疾走、伊勢路を大和と伊勢の境
界となる奥室生の辺りまで来てしまいます。

{ここまでが大津皇子の hisStory の部分。以下、現在
進行形のかたちで大和伊勢往還から賜死にいたるまでの
大津皇子の最後の三日間が描かれます。

大陸渡来の胡馬を疾走させる大津皇子に遅れて、追ってきた執事の
土岐道作と舎弟扱いの葛野王に「伊勢へ行く」と告げ「都を離れて
はなりませぬ」と制止されるが、「忠君愛國」を雄弁して伊勢へと
駆けだし、葛野王が後に従います。十七歳の葛野王は天智天皇の嫡
男大友皇子と天武天皇長女の十市皇女の遺児で、世が世ならば皇太
子となっていたはずの王子ですが、父は敗死、母は数年前に宮中に
変死して孤兒となったのを、大津皇子が同情して舎弟分に遇してい
ます。{葛野王は大津皇子の青嵐時代を「異時同図」で示すという
意味も兼ねています、白馬も大津皇子の別の面を暗示しています。

伊勢へ下向する山中の路を、葛野は「なぜ戦わぬのですか」と繰り
返して大津を引き返させようとしますが大津は応ぜず、やがて、二
人は母の事、父の事、王権の事、歴史の事など語しながら下り行き
ます。

飛鳥では、大津皇子の留守を狙って皇后は兵を動かし、大津邸を制
圧してしまいます。

伊勢斎宮。生別れとなってから十四年ぶりに対面した姉は弟の説得
に、やはり伊勢に生埋めにされた思いに「父を恨み伯母を憎んでい
る」事を告げ「どうして戦はぬのか」と弟に迫ります。弟は「今や
この国は」となおも説得しやうとしますが「汝はわが弟ではない、
伯母の子じや」と詰り、二人は吹き荒れる神風に揺れる燭光に不安
に照らされて二つの孤独となって沈默します。
やがて、姉は伊勢に生埋めにされて過ぎてしまった女盛りの時間の
事を「…… うち寄せる波の音を聽いては胸をとどろかせ、滿ち來
る汐に泪を流した、 …… 汐が滿ち、汐が引き、月が滿ちては缺け、
一月が去り、一年が去りまた去つていく。おのれのいのちは、常處
女のまゝ、この伊勢の地に生埋めにされて朽ちていく、花の盛りは
たちまちに過ぎ、たまきはるいのちはむなしく枯れゆく。 …… 女
である事、いや、人である事すらを奪はれて、生きたまゝ朽ちてゆ
かねばならぬ、波洗ふ砂濱に埋められたかのやうに …… 孤獨、悲
哀、絶望、生埋めにされた者でなければわからぬ …… たゞ一つの
希望は汝、弟であつた。立派に成人して、何時の日にか救ひに來て
くれる、それだけが夜毎に夢見る、儚い期待であつた。なのに、夢
が叶つたと思へば、 ……」歎き口説き、「この姉のためにも汝の
なすべき事をなせ、悲しみなど一時の事」と鋭く烈しく命じます。
もはや、否やは言い難く弟はその夜のうちに大和へ戻って行きます。
弟のいなくなった後を見詰めているうちに、姉の気持に悪い予感が
襲來して、弟を呼び返さうと後を追ひますが、弟はすでに馬乗の人
となって月もない夜の闇に消えつつあります。
姉の呼ぶ声は届かない。悲別の時にいつまでも祈るように夜の底に
立ちつくす姉に、弟を思う気持は二筋の歌となってあふれます。
吾が背子を大和へ遣ると小夜更けて暁露に吾が立ち濡れし
二人行けど行き過ぎ難き秋山を如何にか君が一人越ゆらむ

闇路の帰途、葛野王は大和へ行くのは危ない、伊勢に戻って戦う事
を主張しますが、大津皇子は応じない。
登りついた室生の山地は煙霧の時雨となって行く手を悩まし、龍穴
神社の草堂に雨宿りするうち、葛野王は烈しく鋭く反論を試みます
が、大津皇子は「戦はずして国を讓るのも士大夫の選択の道、自分
はどこまでも皇后の御気持に従いたい」と都に戻ろうと立ちあがっ
たところを「行かせぬ」と飛びかかってきた葛野王を当身で気絶さ
せ、大津皇子は一人、飛鳥へ向います。

飛鳥を眼下に望み見る多武峰に現れて、大津皇子は「倭は国のまほ
ろばたたなづく青垣山隠れる倭しうるはし」と魂の白鳥となって愛
する大地に告別します。すでに彼の気持は「国讓り」の行動にでき
あがっています。
折りしも時鐘が響き、それを合図に黄泉路のように道行き下り、皇
宮の朝堂に自首します。持統天皇の側近である忍壁皇子と対坐して
「皇太子への謀反ならば律令の規定により死罪」と自分で自分に判
決を出すようにして「死は自宅で賜りたい」と願ひ、許されて自邸
に戻ります。

翌日を身辺の整理に過し、気持を乱す妃の山辺皇女を「こうなる事
は半ばみずから望んでの事、決して皇后皇太子を恨んではならぬ」
と誡めて、夕刻、自邸の東屋に設えさせた絞首台で自経して、ある
いは聖王となったかも知れぬ王子の二十四歳の生涯が閉じられます。
その後を追うように、愛する君を失って狂乱した山辺皇女が殉死し
てしまいます。

『かなしむちから』第一部『悲別』シネマ化


Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World