:2002:『かなしむちから』シネマ化プロジェクト 企画書

 
『かなしむちから』シネマ化プロジェクト 企画書

平城遷都千三百年記念(私的)事業『きよきまなじり*つよきまなざし』の一部として 


FlashMovieによる構想&造形(白馬がクリックボタン)


 日本のための映画

日本映画の名作が次々と作られていた時代からちょうど半世紀が過ぎました。
1953年には小津安二郎の『東京物語』と溝口健二の『雨月物語』が作られ、
1954年には黒沢明の『七人の侍』と木下恵介の『二十四の瞳』が作られました。

二年前、世界文化賞のために来日したゴダアルはインタビュウに答えて「日本に
は、溝口・黒沢・小津ら何人かの優れた映画作家は存在したけれども、日本映画は
存在しなかった。日本映画とは、日本とは何であり、どうなりたいのかを表現し、
日本という国家、民族全体の顔が見える映画のことだ」と云っています。

日本、その風土に生きた民族と国家、その歴史

豊かな歴史と文化を持ちながら、
それとみずから断絶してしまった現代の日本人

極東の海洋にかこまれた列島、四季豊かな気候のもとで光や風、
色や音、それらにたいする感覚や思考の積重ねが知識となり智慧と
なって、この国はその感受性と表現力において世界に独自の思想と
文化を形成してきました。ところが、それらは失はれてしまいまし
た。詩も歌も物語も、言葉さえも忘れられてしまいました。

今やこの国は、家庭から学校、会社から議事堂、はては皇居にいた
るまで老若男女、日本国民のそのテイタラクぶりたるや、さながら
日本という国家の終焉に立ちあっている感があります。かつては
「菊と刀」の「恥と粋」との文化の国民が、今や恥辱も知らず外聞
も気にせず、恥ずかしき日本 ―― どうして同じ日本人がこれほど
までに変身してしまったのかフシギなくらいです。日本人が日本人
である事を嫌悪して、たとえば茶髪美白の脱亜入欧、日本的なるも
のはミソもクソも一緒くたに否定しさり、伝統の思想どころか感覚
までもうしなって、自業自得の根無草となりながら、その事すら自
覚できない精神となりはてています。その惨状、すでに亡国の民の
如し。
「亡國の戮民も樂(礼楽のガクです)なきに非ざれど、その樂や樂
ならず。故に、樂いよよ侈にして民いよよ鬱、國いよよ亂れ、主い
よよ卑し。即ち、樂の情を失ふ也。」と『呂氏春秋』に云はく。

楽を正せば、民の鬱情は浄化され、この国の錯乱は治まるのであろうか。
試してみるまでもない事でしょうが ……

今こそ「日本映画」を作るべき時である、のかも知れません。

わが日本の現状、そしてその将来の悲観絶望に、
おもいを亡国のかなしみに致して、
亡びし日本の葬送のための輓歌として ――
日本とは何であったのか、日本人とは、
日本の思想と文化とは何であったのかを思い考える
物語の制作を試み始めていました。

日本とは何であったか、素材を日本の歴史に求めて、実在した日本人の
生様死様によって描いてみせる事。歴史の再現をめざすのではなく、世
阿弥や近松の「虚実皮膜」の理論にしたがって虚構を史実を壊さぬ程度
に加え(そこが藝の力)、いわば History を hisStory に昇華させて、
そのすぐれて個別的な生と死とに普遍的な日本人性を体現させ、日本の
「黄金伝説」に仕立てあげて、歴史を史劇へ、記録を記憶へ、情報を情
動へ、と高め深めて描いてみせるのだ。

敗者たちへの日本人の同情共感は殊に特徴的なメンタリティでした。菅
原道真や平将門をはじめとして敗者を(力ある怨霊の)英雄として物語
り、哀悼想起して、鎮魂と顕彰とをおこなってきたのでした。それは勝
者を畏れさせ、誡める力となって働きました。 ……

とんだ大言壮語となっておりますが、我を忘れてパンとサアカ
スにうつつを抜かすばかりのこの時代にたいして、真正面の大
上段から「日本」の姿を示して、日本人特有の心情に語りかけ
る passion の悲劇の力で compassion させて、日本人を肅然
とさせたい。肅然とさせて、その魂魄を淨化し、慰撫し鼓舞し
てやりたい。

―― さうしたシネマ

日本にとって最も決定的な瞬間を
日本にとっての最も根源的な物語へ
  日本人にとっての永遠の記憶とすべく

そのための物語 ――

日本について根源的に思い考えてみるべく、まずは、
西暦七世紀の頃、仏教伝来した欽明天皇の頃に始まり聖徳太子、
天智天武、持統天皇の大宝律令の頃までの百五十年ほどの時代、
まさに激動変革の時代、「東夷の倭国」と蔑まれていたわが国が
「日出づるところの日本」と美称して、中国隋唐を見本に文明国
家へと脱皮変身、七転八倒していた革命維新の時代、
そのために流された多くの血と汗と泪の事どもを、
『日本書紀』『万葉集』『懐風藻』等々に取材して、天武天皇亡
き後の皇位継承をめぐる持統天皇による大津皇子の賜死事件に焦
点、大津皇子とその同母姉の大伯皇女の悲運にみちた生涯を、
日本の悲劇の誕生として構想、『かなしむちから』と題して
『悲別』『悲憤』『悲傷』の三部作に造形――

(この物語の前提となる歴史的状況を簡單に記しておけば)、
大津皇子の時代より百五十年以前の欽明天皇の時代にわが国は
仏教を本格的に招来し、それを契機に物部氏と蘇我氏との間に
新旧の勢力闘争があり、それに勝利した蘇我氏はこの国の近代
化に貢献しながらも馬子・蝦夷・入鹿の三代のうちに大王家をも
しのぐ勢力となっていった。その打倒をめざした大王家の若き
王子、中大兄皇子の一撃が物の見事に蘇我氏を滅亡させ、復権
した大王家を中心に大化の改新が始められ、中国隋唐を見習っ
た律令と官僚とによる日本という国家が構想され、その国体の
精髄として「万世一系父子相承の天皇」という制度が置かれた。
かうして中大兄皇子=天智天皇、大海人皇子=天武天皇、この
兄弟の辣腕と快腕とを中心にわが国は「日本」という国家の創
業と守成に成功したのであった。だが、早くも天皇の父子相承
という理念は天智天皇の時に躓いてしまう。天智天皇の崩御後、
その皇太子の大友皇子と大海人皇子とのあひだに皇位をめぐっ
て戦争がおこった。後にいう壬申の乱。この戦争に勝った大海
人皇子=天武天皇は白鳳時代とよばれる大いに業績のあった十
五年の治世をおこなって崩御した。その後継がまたしても問題
となった。皇后(持統天皇)所生の皇太子草壁は生来の病弱で、
天武天皇がおこなってみせた天皇親政の能力に欠けていた。
それに引きかえ、皇位継承権第二位にある大津皇子は身心に優
れ、摂政職も見事に果して天下の期待を集めている。彼には伊
勢に斎王を務める大伯皇女という姉もいる。大伯大津の生母は
天智天皇の長女であった大田皇女で、彼女は妹の菟野皇女(持
統天皇)とともに大海人皇子の妃となったが、大津を生んだ直
後に亡くなり、母無き姉と弟は祖父となる天智天皇のもとで育
てられたが、壬申の乱の後、すぐに姉は斎王に任じられて伊勢
へ遣られ、姉と生別れとなった弟は(わが子の草壁が万が一の
場合を考えた)皇后によって影の王子として育てられた。そし
て十五年が過ぎ、数えて二十四歳となった大津皇子には事実は
小説よりも奇といった感じの、皮肉にして過酷な状況が作りだ
されていた。母を知らぬ大津に育ての母となった伯母との権力
闘争、それを回避すべく大津は苦慮する。天下の嘱望は自分に
集まり、戦えば必ず勝ってしまうだらう。しかし、さうなれば
皇位を簒奪した事となり、父の時とともに二代つづけて天皇制
はその端緒において父子相承という原則が破られて、新生日本
の国体はその根幹から犯されてしまう事となる。さうならぬた
めにはと苦慮を重ねて大津皇子は「国讓り」という自己犠牲の
考えに傾いていく。皇后も一度は禅譲という事を考えたが、大
津には自分たちが伊勢に追ひやり生埋めにした大伯という姉が
いるのであれば、やるかやられるか、姉の子と戦ふしかないと
決断する。皇后は大津を天皇の病床に呼び、もはや話す事ので
きなくなった天皇の考えを伝える。大津は自分には決して野心
などないと誓約する。皇后は、「汝はさうであっても大伯はど
うであろう」と鋭く問いかける。姉の事は必ず自分が説得いた
します、と大津は皇后に誓う。そして、ついに天武天皇の崩御。
その諒闇の厳肅のうちに、状況は生臭く焦臭く煮詰っていく。
そんな時、大津皇子は都の大和を離れて伊勢へ姉を訪ねて行く。
……

第一部『悲別』
吾が背子を大和へ遣ると小夜更けて暁露に吾が立ち濡れし
二人行けど行き過ぎ難き秋山を如何にか君が一人越ゆらむ
現人神とたたえられた天武天皇の崩御、その直後(十月一日)、
大津皇子は、自分がその中心的存在とされている後継者問題で沸
騰する大和飛鳥を離れ、伊勢に斎王を勤める同母姉の大伯皇女を
訪ね行く。それは、斎王を解任された大伯皇女が都に戻ってきて
摂政の弟と一体になる事を懼れる皇后(持統天皇)の要請を受け
たもので、大津皇子は姉を説得して和解の途を探ろうとするが、
少女の時に斎王にされて伊勢に生埋めとされた思いに天皇皇后を
恨み憎んでいる姉にはげしく反撥され、叱咤され、追ひ返される
ように大和へ戻っていく。
案の定(その事あるを大津は予想し覚悟していた)主人の留守を
衝かれた大津邸は皇太子への謀叛の嫌疑で皇后側に制圧される。
途中でそれを知りながらも、日本という国家を定立させるには父
子相承の天皇制度を実現させなければならぬと思い考える大津皇
子は、仏教の「捨身飼虎(自己犠牲)」の教説にも啓示されなが
ら、持統皇后と草壁皇太子に「国を讓る」事と思い定めて、それ
らの思想を「かなしむちから」として自己劇化すべく、飛鳥に戻
り多武峰より彼が愛する大地に愛惜の告別をなして、自首するか
たちで逮捕され、即刻翌日、自邸で絞首の死罪を賜る。

第二部『悲憤』
神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
見まくほり吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
大津皇子の謀叛事件の一月半後、大伯皇女は伊勢斎王を解任され
て大和へ運ばれて行く。彼女の思い詰める気持は、弟を叱咤して
「大和へ遣つた」事を後悔して、「死へ追いやつた」と自責しな
がら、どこまでも自分の不幸の元凶である叔母の皇后に、彼女が
自分に加えた仕打の数々、十二歳で斎王にして伊勢に生埋めにし、
今また唯一人の肉親である弟を奪った憎き叔母に、せめて一矢は
報いたいと悲憤を発している。
齋王退下奏上の機会、白衣素服の二十六歳の斎王の姪は唐風に盛
装した四十二歳の天皇の伯母に烈しく「かなしむちから」となっ
て対決、「母と子の犯せる罪、吾等が天照大御神は決してお許し
になるまいぞ」と呪言する。慈悲と寛容とを以て臨んだ持統天皇
だが、大伯皇女のあまりの云いように我慢がならなくなり「汝等
は父と子との犯せる罪、生れてきてはならぬ子であった」と、大
伯大津の出生の秘密(真偽のほどは定かでない)を暴露して反撃
する。

第三部『悲傷』
磯の上に生ふる馬醉木を手折らめど見すべき君が在りと云はなくに
うつそみの人にある吾や明日よりは二上山を弟背と吾が見む
その後、大伯皇女はどこかに持ち運ばれた弟の遺骸を搜し求め、
それが二上山麓の当麻の地に埋葬されている事を知り、当麻に行
き、殯に籠る。その服喪の営みのうちに彼女の悲憤は悲傷へと変
っていく。だが、彼女によって発せられた呪言は言霊となって、
草壁皇太子は二年後には病死してしまう。それでも持統天皇は藤
原不比等などを側近にしながら皇統を継続させ、都を藤原京に遷
し、さらに彼女の子孫は奈良へと遷都して匂ふがごとき華麗なる
天平時代を現出させるが、その内実は滑稽にして悲惨、天武持統
の皇統はわづか数代、百年足らずにして断絶してしまう。
大伯皇女の弟に殉ずる純潔な生き様は彼女が常処女の斎王であっ
たという事実も重なって、その存在は神秘な魅惑を以て同時代の
男たちに興味と関心を抱かせた。それらの風聞風説が、やがて香
具夜姫伝説(求婚者の名前などから彼女の物語の時代設定が大伯
皇女の晩年である事が分る)や、中将姫伝説(彼女は当麻寺に来
て出家した織女として創造されている)などのかたちに造形され、
日本の物語の起源となっていった。

日本の悲劇の誕生

この悲運の弟と姉の事に、私は日本の物語の原景=原型を見たおもい
であった。天皇制はもとより、母と子の関係、姉という存在、敗者へ
の共感、そして怨霊思想にいたるまで、ここには日本的なるもののす
べての核心がある。さう確信された。
この究極の素材を日本にとっての根源的な物語に作り、(絵巻や能楽
などの)日本的な表現技法を援用しつゝ、日本人にとっての信ずべき
大きな悲劇へと描きだしたい。

物語はフォトジェニックに、シネマティックに私の脳裏に現前していた
錦秋深き山路を大和から伊勢へと馬で急ぐ大津皇子の孤影
伊勢の斎宮に姉との十数年ぶりの再会、通じあわぬ気持と気持
神風と潮騒が揺らす灯明が照らしだす二つの孤独となった姉と弟
追ひ返すように弟と別れた後、いつまでも夜の闇に立ちつくす姉
大和に戻って「やまとは国のまほろば」と魂の白鳥となって告別
そして、自首して「国讓り」して従容として死に赴くその孤影

描くところは(日本的に)アクションよりもパッション ――
パッション(情熱とともに忍苦という意味があります)、それは日本
人の美学と存在論となっていった情念でした。状況にたいする情理の
葛藤のうち、破局とは知りつゝもみずから進んで窮地に陥り、エロス
とタナトス、死地において危機と戲れるようにしながら救済への不可
能な道を摸索して自己犠牲をも厭わぬ精神。

大津皇子のパトスとロゴス、つまり情理の葛藤を描く日本的悲劇
詩文の才学に恵まれ中国の忠君愛国の思想を教育されて政治家となり、
また(礼楽や伎楽の習得により)音楽家でもあり舞蹈家でもあった大
津皇子に、ロゴスとパトス(ニーチェの『悲劇の誕生』で云えばアポ
ロ的とディオニュソス的)の悲劇的精神を体現させ、王位継承という
最も露骨な権力闘争の場面で、日本神話が強調する「国讓り」という
思想を演じさせて「かなしむちから」というパッションを表現して、
日本の悲劇の誕生を造形してみたい。

事件のその時、大津皇子は数えて二十四歳、身と心の最も充実した年
齢にありました。
文学青年にして政治家歴史家でもあり、また、武人でもあり音樂家舞
蹈家でもあった彼は、葛や藤のように絡みついてくる状況と逃れがた
く挌闘していくうちに、自分が置かれた状況を「國讓り」というわが
国の神話的理想をおこなってみせる千載一遇の「選び抜かれた状況」
と認識していきました。もし自分がおこなわなければその機会は永遠
に失われてしまう事に思いをいたし、或種の野心となって、すべての
状況を天命として受入れるという「パッション」の力によって自己劇
化(自己犠牲)をはかり「選び抜かれた行為」をおこなったのでした。
このように大津皇子によって「始源的な行為」がおこなわれて、日本
という国家は画竜点睛、気韻生動したのでした。
「非常の人あり。然る後に非常の事あり。非常の事あり、然る後に非
常の功あり」という成句がありますが、まさに大津皇子によってこの
ような事が日本のためになされたのでした。
だが、大津皇子の事件の真実は『万葉集』の大伯皇女の絶唱六首のう
ちに悲しくも美しく封印されて、一千三百年のこの方、その真相に気
付く者はありませんでした。 ……

歴史を描く事とともにその風土を描く事もまた映画の重要な仕事です。

やまとは くにのまほろば
たたなづく あをかき やまこもれる やまとし うるはし

『古事記』の日本武尊は異郷の地(伊勢)で死に瀕して、故郷を想い
「やまとは国のまほろば」と懐郷の歌を呟き遺し、息絶えて白鳥とな
って翔け去ります。この歌とその死によって日本武尊はわが国の英雄
の祖型となりました。
大津皇子の「告別」には日本武尊の最期が重ねられます。恣意的な重
ね合はせではなく史実にそくしたうえでの工夫です。日本武尊の話は
『古事記』や『日本書紀』にありますが、その元となった国史制作の
詔勅が出されたのが天武天皇十年、その時、大津皇子は十八歳でわが
国最初となる国史の制作に参加していたと思われます。あるいは、日
本武尊の造形には大津皇子の力が加はっていたかも知れません。
大津皇子は自分自身に日本武尊の運命を感じ想ふ。さうする事で彼は
自分自身を悲劇と英雄とに自己劇化し、運命に従容然たる力を獲得す
る。

このように、大津皇子の事件(およびその弟の非業の死に殉ずる事
になった姉の大伯皇女の事)を、ゴダアルの云う「日本映画」とし
て構想&造形して「日本とは何であったのか」を、その原景におい
て表現して亡国日本の面影とし形見としたい、と私もまた「かなし
むちから」の「非常の人」となって思い考えたのでした。

大津皇子坐像(藥師寺)


Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World