「デモクラシイ」について、怠惰に、否定的に。『比喩と揶揄』

{怠惰に、否定的に ―― Democracy デモクラシイについて思ひ考へてみた。2008/0405


デモクラシイとは、所詮、デマクラシイであり、ダマクラシであり、ついにはバカバカシイものであると。

デモクラシイを意識支配しているのは「でも暮し」のエコノミイであり、エコノミイとは「エゴ」ノミイであり、エゴイスチックにやりたい放題私利私欲の自由放任。
結局のところ、デモクラシイは人間の私利私欲のエコノミイには轡kutuwaをはめられない、どころかその放縦を助長する。


政治に純眞、熱中する人はほんの一握りで、しかもその殆どは、政治を權力志向で私利私欲に利用してやらうと魂胆してゐるヤカラであり、殘りの大部分は、何かの利益があればその尻馬に乗ってもいいと考へて、お山の大將と金魚のウンコの(派閥と呼ばれる)集団となり、党のなかの党といふ形で群雄割拠を始め、その離合集散が(政治にあらず)政事的動力源となる。すでにそこではデモクラシイは機能してゐない。猿山のやうな政党派閥の政事があるだけだ(日本の場合)。

現代の政治の水位の低さは(おそらく)デモクラシイと無関係ではあるまい。
政治は民意を反映するだけではダメなのであって、理念に指導されていなければならないのだが、彼等の理念と呼べるものは(日本人の場合)「寄らば大樹」と「長い物には巻かれろ」の選挙民と相等しい程度の見識でしかなく、結果、民主主義は衆愚政事となってしまはざるを得ない。

しかし、歴史的には、かうした衆愚的なる民主主義が人類にとっての「よりベターな」な政治體制として他の政治體制に打ち勝ち、「歴史の終焉」をこの現代にもたらしたのである、さうな。

コミュニズムの自滅的崩壊によって、自由を原理とする民主主義と資本主義との體制の完全勝利となり、これによって弁証法的發展は完結すはなち「終焉」して、時代は千年王國的「平和と安定」の、云はば「永遠」の時代となった。そのうへ、アメリカ發のインターネットの普及により、世界の意識は急速にデモクラシイへと均一化され、そのヘゲモニイは絶對的なものとなった。

この「永遠」のもとで、昨日のやうな今日、今日のやうな明日の時間を人はどのやうに過ごしていくのか。本來、欲望的存在の人間がこの「永遠」の退屈にいつまでも耐えうるだらうか。

歴史は終り、しかし、ふたたび始まることはないのか。弁証法的(エントロピイ的)完結ではなく、
原始共産制やギリシア的直接民主制から多種多樣な政事の「歴史」が始まったやうに、この永遠なる平地から「永劫的囘歸」が始まっていかないのだらうか{それもカッタルイけどね}、

{「歴史の終り」は「人類の終り」を意味するものではありませんので、御安心ください。但、「人間性の終り」を意味する可能性はありますので、御用心もしてください。


人の世は、矛盾にみちた「正反合」、ヂゴクゴクラク、キレイキタナイ



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