散文について「サルにも解る文章が書きたい、とは思はない」 『思考と空想』

「サルにも解る文章が書きたい、とは思はない」:散文についての『思考と空想』



文章にかんしては、和歌なり俳句の形式で「思考と空想」してゐるのが、私には一番ラクなのかも知れない。五七五と七七の口調の形式が、簡單なパズルのやうで、おもしろたのしく熱中していく。遊戲となる。

ところが、散文のはうはまさに散歩のやうなもので、マジメくさって目的へ向かっての正確な歩調の持續であり、すぐに脇見して道草を食ひだす私にとっては單調な歩行でしかなく、讀むはうはともかくとして書くはうについては苦澀にみちて、私は散文が得意でない。はつきりと苦手である。文章が續かない、續けられない。二三行も續けるとしどろもどろ、支離滅裂になつてしまふのだ。
だから、私は詩人なのだと云ひたいのではない。

言葉ことば言刃

原因は、と(自分の淺學菲才の分は別にして)探つてみた。そして、これだと思はれた結論は、私が極度な人間嫌ひの厭世家で、幸か不幸か、生まれてこの方、世間との社界生活をまともに營んだ經驗がないせゐではないだらうかといふことになつた。

世間と沒交渉の者には散文は殆ど用がないのである。世間的關係において、情報を報告したり説明したりするために人々は簡明なる表現を求め、それがいはゆる散文的な表現といふことになっていく。例の、4W1Hといふ構造化によって、何時どこで誰が何をどうしたと効率的に記憶、といふより記録していくのだらう。大から小、見出しから小見出しと云ったふうの階層化によって。
それができない。と云ふより、一つの記事の報告を私は最も印象的な記憶を中心に始めてしまふ。その最も印象的な記憶が、記録の中心と重なっていれば問題はないのだらうが、大抵の場合、それは合致しない。散歩の事を書かうとして頭に浮かんでくるのが、熱中した道草の事であったり、してしまふのだ。

言葉ことば言刃

孤獨者はおのづと夢想家であり、散歩でもすればたちまち、例の意識の流れといふヤツで、それも時間的(それならまだしも散文的である)といふより空間的に、現在過去未來、一時に多重の想起が錯亂する虹のやうに襲來して、たちまち現實から遊離していってしまふのだ。

孤獨な夢想者には、句讀點や段落改行の必要がない、といふか習慣がない。行動に「見出し小見出し」と細分化されていく形式がなく、あの時そこにゐた私は何をしてゐたか、よりも何を感じ考へてゐたか、纏まりのつかない事どもの記憶へとさまよひだしてしまふのである。それらは、
散文で記述するにはまるで錯亂した心象の重なりあひであり、しかも、まさに「華嚴」思想的に、たがひがたがひに多重に多樣に關連しあつてゐて、たつた一瞬の記憶でも「失はれた時」の延々たる再現とならざるを得ず、イモヅル式はたちまち編目模樣の雲の巣となりゆき、やがてつひには収拾がつかなくなつてしまふのだ。しかも、作文中にはあらたに想起連想、修辭が加はるときてゐるのだから、これで、どうして文章が綴れるだらう、理路整然なんてとんでもない。

しかし、私にとってはかうした意識が表現の条里であり、パスカル162362の言ふ「繊細にして幾何學的精神」を發揮させた、つもりの「理路整然」なのである。紆余曲折こそ理路整然と表現しなければならない。その事は強迫觀念のやうに念頭にある。


パスカルとほゞ同時代者のボワロウ163611は(なんたることだらう、よりによって)『詩學』といふ著作の冒頭で、「よく理解するところは明確に言ひあらはせる」と斷言してゐる。私は疑ふ。
{明確に理解した事と明確に表現するといふ事のあひだには何等の因果關係もない。表現の價値はその多樣性にある。一方、理解の價値とは単一性である。すくなくとも、詩は絶對「明確な理解の明確な表現」ではない。
これもマクシムめいて聞こえる「文は人なり」といふ、現実に全然そぐわない事を金言に云ったのもこのボワロウだったんじゃないかとヤツアタリ氣味に、ウロ覺えなので確かめてみたら、外れたけれど中らずとも遠からず、ビュフォン170788といふボワロウより半世紀ほど後のフランス人であった。どうも、この時代のフランス人は物事を氣の利いたふうに表現するすることばかりにウツツを抜かし、文章表現の技術には寄與したかも知れぬが、事実の正確な理解からはむしろ遠離ったやうにも私などには思はれてしまふ。

表現とは、そしてその部品となってゐる言語自体、虚僞をも語りうるといふ点にその特徴といふか、利点があるのだ。古代からすでに熱心に研究された文章の修辭學=レトリックは Les trickes「レ・トリック」(これは私のワルふざけですから信じないやうに)、つまり「ごまかし」の文章技法なのである。
文を作るのが人であり、人工のものである以上、表立っていようが隱されていようがどんな文章にもレトリックは働いてゐる。難しい物事を易しく説明した文章に理解したつもりになってゐるが、あくまでそれは、易しく書かれた文章の理解なのであって、必ずしも難しい物事の理解とはなってゐないはずだ。たゞ、解ったつもりになってゐるだけで。


福澤諭吉183501は、自分の文章を「サルにでも解るやうに書く」と云った。これぞ散文の極意なのであらう。
その「サルでも解る」はずの文章が、百年後の子孫どもにはまるでチンプンカンプンな難解さとなってゐる。
同様に、この現代の文章の、プロアマ亂れ合っての散文といふより散亂の文章を後世の人々はどう讀み取るであらううか。

言葉ことば言刃

今や日本人は、三行も續く文章に堪えられなくなりつゝある。
SNSの無意味な社交辭令と Twitter の字数制限の電報手法に慣れきり、そしてすでに今や、文章よりも写真が、画像がネットコミュニケーションの中心的なメディアとなりつゝある。文章を作ることよりシャッターを押すことのはうが安直ではある。その機械任せの表現を自分自身の表現と誤解して、かうして、現代人から「思ひ考へる」といふ習慣が失はれていく=奪はれていく。これが人類の進歩の必然なのだらうか。それとも、人類をかういふふうに洗腦、無腦化して管理してしまおうとする陰謀(と想像、妄想してみたくなるほどの状況に思はれてくるのです。




↑ Art of Heart ――――――――― 思考 69 空想 ――――――――― Word of World ↓