思考と空想:1991 城といふ迷宮

 
黒沢と小津の映画の季節感
黒沢の映画の季節は茹だるような暑さの夏だ。真夏が断然彼のトポスだ。『羅生門』『酔いどれ天使』『野良犬』『生きものの記録』『天国と地獄』等々。
秋なのに真夏のような『七人の侍』、眞冬でもまた真夏のような熱気を帯びる『用心棒』。
真夏に撮れなくなった時、彼の創作力は枯渇していった。『あかひげ』から『ドデスカデン』、それ以後

一方、小津の『東京物語』は眞夏なのに秋めいてゐる。
『晩春』も『麦秋』も秋の感じだ。



ウンベルトエーコ原作の映画『薔薇の名前』をBSで観る。
修道院という迷路迷宮、城の探索(迷路という構造自体が探求を始めさせる、その最奥に秘められているものが笑いについてのアリストテレスの本であったとは中々巧いオチだ。

迷宮としての城、ヨウロパ文学論として
ハムレットは城=迷宮の悲劇ではないだろうか。王子のトポスとしての城のその迷宮性に迷い出して行って、脆くもハムレットは自滅するように敗北した。
迷宮としての城の主題は、その後カフカの『城』にまで至る。エーコの『薔薇の名前』もその主題は、迷宮としての城である。



すべての線が絡みあつて虹の紐のやうな

マンダラとは蜘蛛の行う作業のやうなものだ。世界を捉える網



性夢
箱の内部に描かれた微笑、透明な膜が幕となって絶縁する、
屈折する通廊、入って行けない、半透明の風に動くカアテンがミスティケイトするだろう、
暗闇の奥にある寝台?、

夜明けのおんなのからだ/朝のおんなのからだ
しっとりとしたあたたかさ、もっとも羞恥心からとおのいた姿態の放恣、
女体だけとなつてねむる
そこから朝が生れてくるやうな
×
女の大陰唇は発情するとそれ自体がイキモノのやうに襞を延してきて、少年の素チンを吸引するような感じで、私は性欲によって変態していく女体に不気味な感じを抱く。その割目から女はすべてを呑み込んでしまう、ブラックホウル、{目覚めて私は絵画で構想した『最後の聖母子』をこの夢によって強く想起した。延びてくる黒い襞の怪物的おぞましさ(画面はクロウズアップで捉らえている)に、私は我が子を犯す母親を妄想した。 ‥‥



「無爲而無不爲」に至る過程、イメジトレイニングによって、
或部分の動きをそれだけを強く意識する(事で他の動きを「無爲而無不爲」にする。その或部分をいろんな部分で行う。徐々に動作のイメジを簡素化していく。やがて「離見の見」の情況が可能になって、スイングが見えてくる。意識はクラブヘッドの運動へ向う。スイングプレインを動いていくクラブヘッドを私は見ている(もう少し積極的に言うなら、見張っているだけだ。静態、暝想的状態。私の意識はアクターというよりスウパアバイザである。その時、私はひとつの境地に達している。
下半身は動いてはならないものだ、それは運動の基盤であり機軸であり、盤石なものでなければならない。下半身はできるだけ小さな動きでなければならない。



士人論「精神の貴族」
こういう提言はまことに時代錯誤に聞えるだろうが、、現今の日本社会の実態を見るにつけ聞くにつけ、このような低俗な人種ばかりでは亡国はすぐそこにあると云わなければならない。現代にどうやって士道を定立させるか。
現代にもっとも払底しているのは、士人君子の類ではないだろうか。
士心によって初めて志ある者になる事が可能なのだ。志は士心の要素だけで出来ている。ダジャレで云っているのではない。士心なき者の立志とは、野心野望であって。現代だからすべての志が、ソコの浅い野心に終わっているのである。
士人と云えば、モノノフやサムライと考えられては困る。士人とはもっと時代に普遍的な、男性についての絶対規定である。
例えば、武士道とは帯刀と士人論から成立しているものであって、そこに出来上がる具体がサムライという事である。この現代に、武士道とか何とか、声高に武張って提唱してみたところで、刀を差せない日常の社会では畢竟茶番と終るしかない。現代に於ける士人の様態とは、どういうものであるかあるべきかと真剣に構想してみようではないか。
士人とは精神の貴族である。
この大衆化社会に態と自己を反定立させて、自ら選ばれた者、撰良となっていく事である。
士人論の基本經典を私は『老子』に求める。
儒教はいはば小人を君子に仕立てる教えだ。



現代論
現代の子供たちの想像力が非現実感を強くしている傾向の具体的な例として。
彼等の抱く興味関心が、一方は太古の恐龍、もう一方ではSF的彼方の未来という両極端に、現代からより遠くの物に向かっている事実をあげればいいだろう。彼等はもう少し成長すると、今度はUFOとか占いとか霊とか、超能力とか反実体的なものにうつつを抜かすようになる。現実を直視しないために、絶対的な異次元の彼方に逃れて、鎧を被るのだ。
もうひとつ、昆虫、それも甲殻類に対する偏愛ぶり、そこに私は彼等の変身願望というようなものを感じ取る。昆虫自体よりも昆虫の強固な感じのする外皮に彼等の本当の関心があるのではないだろうか。カフカの『変身』も実は彼の願望であったはずだ。不安とか不条理とかがあの小説の基調ではない。或種の明るい感じ、満たされた夢の甘美さがあのあの小説の奇妙な魅惑なのである。そういう意味であの短編は現代を予感していた事になる。




Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World 199108