わが写真(芸術)論のための『思考と空想』


2008/0229 
2001年の Note から覺書として



写真とは「決定的瞬間」だ。
射撃のやうな緊張感においてシャッターは切られる。待つ事。待機して、その一瞬を狙撃する。その營爲の全體が寫眞的行爲なのだ。
カメラといふツウル。一種の武器、もつと云つてしまへば或種の凶器のやうなものとして。
視覺的表現において繪畫的でも映畫的でもない表現としての寫眞表現。

私にとつての「決定的瞬間」とは、見詰める對象に見えないものが見えたと思ひ感じられた瞬間。
そのための待機、瞬きもせず凝視し續けるといふ營爲が、この營爲こそが私にとつての寫眞なのだ。
この營爲=撮影によつて、私のまなざしは斥候兵士のやうに鍛錬される。カメラは私の視覺を鋭敏に鍛錬する道具なのである。

シャッターを切らないといふ事もまた、きはめて寫眞的な行爲でなければならない。
何分間もカメラを構えて(三脚なしでだ)遂にシャッターを切らなかつた、切れなかつたといふ體驗がもう一方の體驗として寫眞家には必要なのである。

藝術は技術とともに精神を必要とする(理想的には精神あって技術と云ひたいところだが)。

寫眞が、寫眞のほとんどが藝術となり得ない事の原因の一つは、そこに寫眞家の精神が籠められてゐないからである。
元々寫眞(記録)はさうした作家の個性(記憶)が表現しにくいジャンルである。
作品を前に、豫備知識なしで寫眞を見てその作者を正確に云ひ當てる事は多分誰にもできまい。
寫眞での作風は容易に模倣できる。ちやんとした機械とちよつとした技術があれば模倣は萬人に可能である。だから、寫眞は安直な、そして簡便な表現手段と誤解され、俳句のやうにポピュラーな表現手段となる。

一枚の寫眞からは、その撮影者の個性は(作意があらはでなければ)見出せない。同じやうな条件が揃へば同じように撮影できるのが記録装置としてのカメラの特性なのだから。
二枚になると撮影者の個性が見えてくる。枚數が増せば増すほど、個性は明確になつていく。
何が云ひたいかといへば、
たとへば、他人の寫眞を私が選ぶ時、それらの寫眞はむしろ私の個性を示す事になるだらう。
映画表現の個性と才能がフィルムの「編集」作業にもっとも現れるやうに、寫眞の才能とは撮影とともに撰擇する能力であり、むしろ撰擇のはうに重要性があるのではないか。



寫眞と俳句
日本人の寫眞好きは、日本人の俳句趣味と同根のものではないだらうか。
一瞬の印象の定着。季節感。
最も簡易な表現形式としての俳句と寫眞(殆どが自己滿足にしかすぎないが)

寫眞撮影する事の脳への好影響
Search 對象を搜す→ Shoot 構圖を決め機會を窺ふ緊張→ See 見る事の快樂そして反省
前頭連合野 ミッドα波

昔は、寫眞撮影は現場での「生體驗」の邪魔になるといふ説が多かった。
その次には、ワアプロでは「創作」はできないといふ説がハバを利かせた。
さいはひ、私はどちらの説も信用しなかった。
カメラのファインダーを覗いてゐる時、私は外界にたいして最も意識的であり、シャッターを切るまでの時間、意識は緊張を増していき、その生理的極點において



逆光微光とが、私の寫眞における光學となりつつある。
その条件は或意味、反撮影的条件である。
だが、そこに、見えるものと見えないものと共存、そして反映とがあるやうに感じ思はれた。
 寫眞でそんな無理な事を私は敢てやろうとしてきた。

寫眞は、私にとつて「虚實皮膜」を表現させるための最も簡便なメディアでもあつたのだ。
畫家のパウル・クレイは繪畫を定義して「見えないものを見えるやうにするのが繪畫の仕事」だと言つた。
これが繪畫についての最高の定義であると私は思ふ。同時に、写真についても理想の定義だと。

カメラは當然見えるものを正確に記録するための裝置である。そのために開發された。
しかし、カメラが記録したものを人はそれぞれの記憶によつて、自分に引寄せて見る。
記録は記憶によつて解釋される。

私は、寫眞に現實の忠實な再現力を求めない。むしろ、見えないもの、アウラの創出に努める。
ボケてもいい、ブレてもいい、アレてもかまはない。見えないものを見えるやうに見せる、そのためには。ただし、その時、絵画との領域が曖昧となっていくが、それもかまはないとするか。
その意味ありげな營爲こそが写真を含め、藝術といふ事の普遍的な定義だと思へば。



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