「胴体のブツ切り、全体がヘビ」、憂鬱な希望としてのインターネット

「胴体のブツ切り、全体がヘビ」、憂鬱な希望としてのインターネット

インターネットといふメディアは「胴体のブツ切り、全体がヘビ」といふ形式での表現にまことに都合がよい。私は誰よりもまづ私自身にたいして表現を試みるのだから、完成のかたちには拘らない。全体の構想と、その部分の造形の檢討にある程度の見當が付けられれば、私人の用は果せる。
造形は煉瓦を積んでいくやうな(私には氣が遠くなるやうな)作業であり、全体の構想が遠大である場合、完成まではどのくらゐの時間がかかるか分らないし、そもそも完成できるかどうかも分らない。できたところから、また、肝心な部分から、公開して、全体を想像してもらふ。「片鱗」といふ語も東洋には昔からある。
私の戰略と戰術はかうしたものであつた。

私としても(生來が怠け者だから)餘計な苦勞はしたくないし、また生來の「象徴」主義者でもあるから、部分によつて全体を象徴させ、かつ創造的に受手の想像力に任せる、といふのは自分の邪惡なほどの賢明さを自覺させてくれるほどの名案と思はれたのであつた。
私が建設しようとしてゐる建物は、地上の樓閣ではない。空中の寶塔だ。それを見上げて、『農民藝術論』の宮澤賢治が云ふ「銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱」とを感じとり「風とゆききし 雲からエネルギーを」とるための、硝子玉演戲者のための拠点として。

すでに今更、精神の建て直しなどしてみても、この炎上そして灰燼の始まった世界にどれほどの效果もあるまいが、
かの剛直なる宗教改革者、martinルターは「世界が明日終るとしても、それでも私は林檎の木を植ゑる」と云ってゐる。
誕生したばかりのインターネットは未來への希望、パンドラの匣に最後に殘ってゐた「希望」のやうに思はれたものであつたが、実用となるにつれと案の定、現實の世界以上に露骨で、過酷で邪惡なもう一つの現實世界、地上以上の現實世界へとなつてしまつた。人の手が、多くのビジネスライクなミダス王の手が地球を手玉に取り、あの『獨裁者』のチャプリンのやうに風船玉にして玩んで、それがガラス玉のやうに割れやすく壞れやすい事など思ひもしない。

宇宙船地球号、まことにもつて危急船氣球号、
鬱憂船痴愚号


Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World