2008年7月25日金曜日

interlude:暑中お見舞ひ「もみもみ子猫」

 
暑中お見舞ひ申しあげます。

もみもみ子猫(YouTube)




さう云へば、うちの子猫は母親のオッパイ吸ひながら「押し押し」してたなあ。


 

2008年7月16日水曜日

日本人への遺言:小林秀雄 1948

 
小林秀雄190283 『中原中也の思ひ出』1948

(1937年)晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを默って見てゐた。花瓣は死んだやうな空氣のなかを、眞っ直ぐに間断なく落ちてゐた。樹陰の地面は薄桃色にべつとりと染まってゐた。あれは散るのじゃない、散らしてゐるのだ。一片一片と散らすのに、きっと順序も速度も決めてゐるに違ひない。なんといふ注意と努力、私はそんな事を何故だか頻りに考へてゐた。驚くべき美術、危險な誘惑だ、俺たちにはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考へか、愚行を挑撥されるだらう。花瓣の運動は涯しなく、見入ってゐるときりがなく、私は急に厭な氣持になってきた。
その時、默ってゐた中原が突然「もういいよ、歸らうよ」と云った。私はハッとして立上がり、動揺する心のなかで忙しげに言葉を求めた。「おまへは相變はらず千里眼だよ」、私は吐きだすやうに應じた。彼はいつもする道化たやうな笑ひをしてみせた。

二人は八幡宮の茶店でビールを呑んだ。夕闇のなかで柳が煙ってゐた。
彼はビールを一口呑んでは「あゝ、ボーヨー、ボーヨー」と喚いた。
「ボーヨーってなんだ」
「前途茫洋さ、あゝ、ボーヨーボーヨー」と彼は目を据ゑ、悲しげな節を付けた。
私は辛かった。詩人を理解するといふ事は、詩ではなく、生まれながらの詩人の肉體を理解するいふ事はなんと辛い思ひだらう。



『きよきまなじり*つよきまなざし』    
Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World 


2008年7月8日火曜日

日本人への遺言:小林秀雄 1936


小林秀雄190283 『志賀直哉(2)』1936


要するに、若い作家達が失ったものは腕ではない、精神力なのだ。腕の方は發達した。大正の作家より昭和の作家は技術の上で非常に進歩した。この技術の進歩のために、觀念であれ心理であれ、風俗であれ、いよいよ多彩に描ける時になったのだが、作家達は心の深さといふものを次第に見失ってきたのである。第一、心の深さといふやうな詞を輕蔑するやうになってきた。
併、作品といふものは正直なものだ。作品から觀じられるリアリティといふやうな詞は、詞としては甚だ曖昧だが、直覺のうへでの感じとしては少しも曖昧なところはありはしない。作品のリアリティの強さ弱さはそのまゝ作者の心の深さの度盛を示す。それだけの事だ。
小説技術の發達とともに、心の深さといふものについて、作者が知らず識らず無關心になったのも、小説技術が專らリアリズムといふ技術のうへに發展したといふ事が與って力がある。

先日、志賀氏の座談會で、瀧井孝作氏が次のやうな意味の事を云った。
日本の詩の傳統的精神には抒情といふものは實はないのだ。少なくとも第一級のものにはさういふものはない。萬葉もさうだし、蕉風の正風といふものもさういふもので、抒情といふより寧ろいはばリアリズムなのだ。自然といふものは、いつも見えてゐるやうだが、じつはその前に幕が下りてゐるので、それを素早く明けて、そこに見えたもの、山でも鳥でも何でもいいが、そこにあるのがはっきり見えた時、それを掴んでくるのが詩だ。内側から歌ひださうとすると、詩は流れてしまふものだと。
もし和歌や俳句にさういふ詩の發想法の傳統が根強く流れてゐるのが確かなら、志賀氏のリアリズムはさういふ意味で非常に詩的だ。現代一流小説家の中で最も單純であり、或意味貧しいとも云へるのだが、その強さ、あるいは純粹さといふ性格は殆ど比類のないものである。いはゆる名文ではない、急所急所で如何にも見事に眼が澄んでゐるといふ文章だ。

詩を失ったリアリズムとは、無私な觀察といふものの過信による文體の喪失である。獨特の文體を持たぬ作家の觀察といふやうなものが一體何だらう。そんなものを誰も文學から期待しやしない。だが、文體の喪失といふ事は現代文學の最も明らかな特徴なのである。
リアリズムは作家の文體といふ抵抗に出會はないから、非常な勢ひで氾濫する。作家は眺めるもの悉くが描けるといふリアリズムの萬能を心を空にして享受してゐる。もし描く困難があるとしたら、それは何か外的な、例へば政治的禁令といふやうな障碍である。さういふ種類の障碍さへなければ、作家はリアリズムに引摺られてどこまでも行くであらう。亜流リアリズムの當然な運命なのだ。

人は志賀氏の自然描寫の美しさを云ふ。あゝいふ美しさは觀察と感動とが同じ働きを意味するやうな作家でなければ現せるものではない。觀察された或事實が動かし難い無二の現實性を帶びるためには、觀察者のその一囘かぎりの感動といふものにその事實がいはば染色されてゐなければならない。そこに叙事詩といふものを發明した人の健康な經驗がある。
「世の中に一つとして同じ樹も石もない」と教へたフロオベルはその事を非常によく知ってゐた。だが、この金言を保持するには強い意志が要る事を亜流が忘れたに過ぎない。

人間は才能のないところでは失敗しない、才能の故に失敗する、と云はれるが、何も人間に限らない。主義でも思潮でもさういふ傾向がある。

作家がロマンティスム技術の空想性に頼る危險は、批評家がやかましく云ふほどじつは危險なものではない。空想による過失だとか虚僞だとかいふものは、この世知辛い世の中で、放って置いても誤魔化しおほせるものではないからだ。リアリズムの萬能に頼る作家の陥る欺瞞は殘念ながらさうあからさまなものではない。そこでは虚僞がいつも尤もらしい姿をしてゐるからだ。
「生のままの眞實は嘘よりもっと嘘だ」とヴァレリイは言ったが、リアリズムが專ら生のまゝの眞實の蒐集に走るやうになったのも、作家が各自の心に殺すべき嘘を見附けなくなってきたからだとも考へられる。
リアリズムの年齡がまだ若い頃には現實暴露といふ事は、同時に作家が自分の心に殺すべきセンチメンタリストやロマンチストの反抗を感じてゐた事を意味した。さういふ反抗を心中に全く感じなくなった時、作家のなかの詩人が死ぬ。

オルテガが明らかに洞察してゐるやうに「規範がないといふより寧ろ規範に遵はないといふ特徴の危機がこの現代に生じてゐる」



『きよきまなじり*つよきまなざし』    
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2008年7月2日水曜日

日本人への遺言:小林秀雄 1941

 
小林秀雄190283 『歴史と文學』1941


歴史にたいする健全な興味が喚起できなければ、歴史に關する情操の陶冶といふ事も空言でせう。歴史に關する情操が陶冶されぬところに、國體觀念などといふものを吹き込み樣がありますまい。國體觀念といふものは、かくかくのものと聞いて、成程さういふものと合點する樣な觀念ではない。僕等の自國の歴史への愛情の裡にだけ生きてゐる觀念です。他では死ぬばかりです。



歴史は決して二度と繰り返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。
歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕等の哀惜の念といふものであつて、決して因果の鎖といふ樣なものではないと思ひます。
それは、例へば、子供に死なれた母親にとつて、歴史事實とは、子供の死といふ事が、幾時、何處で、どういふ原因で、どんな条件の下に起ったかといふ、單にそれだけのものではあるまい。かけがへのない命が取り返しがつかず失はれてしまつたといふ感情がこれに伴はなければ、歴史事實としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死といふ出來事の成り立ちが、どんなに精しく説明できたところで、子供の面影が今もなほ目の前にチラつくといふわけには參るまい。
歴史的事實とは、嘗て或る出來事があつたといふだけでは足りぬ、今もなほその出來事がある事が感じられなければ仕方がない。母親はそれを知ってゐる筈です。母親にとつて、歴史事實とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言へませう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死といふ實證的な事實を肝に銘じて知るわけにはいかないからです。さういふ考へを更に一歩進めて云ふなら、母親の愛情が何も彼もの元なのだ。死んだ子供を今もなほ愛してゐるからこそ、子供が死んだといふ事實があるのだ、と言へませう。愛してゐるからこそ、死んだといふ事實が退っ引きならぬ確實なものとなるのであつて、死んだ原因を精しく數へ上げたところで、動かし難い子供の面影が心中に蘇るわけではない。つまり、實證的な事實の群は母親にとっては一向不確かなものだと言へる。歴史の現實性だとか具體性だとか客観性だとかいふ事を申します。
實に曖昧な言葉であるが、もしさういふ言葉使ひたければ、母親の愛情が歴史事實を現實化し具體化し客觀化すると言はねばならぬ筈であります。


その母親もこの現代日本では死滅して、歴史も意味をなさなくなつてゐる。
未來は暗雲に見通せず、過去に智慧を求める氣持もない。たゞ現在性においてのみ、浮き漂ひ流されていくだけの時間でしかない。
日本人は、亡ぶべくして亡びつつあるといふしかない。
もう何を云ふのもむなしい。これもまた歴史の必然、榮枯盛衰・諸行無常の推移と云ふしかないのだらう。


『きよきまなじり*つよきまなざし』     
Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World