2008年5月20日火曜日

平城遷都1300年記念事業、キャラ騷動に新展開

 

こんなのはダメだ!
として發足した市民有志による新キャラ公募の候補作が公開された。
2008年05月20日08時09分 朝日新聞
 2010年の平城遷都1300年祭のキャラクターを公募していた市民有志の「クリエイターズ会議・大和」は19日、619点の応募の中から選んだ候補作30点を発表し、ホームページと奈良市内の8商店街で人気投票の受け付けを始めた。あくまで民間独自の取り組みだが、公式キャラ「せんとくん」に批判的な地元商店街が支援しており、最終的に投票で公募キャラが決まればポスターなどに使用してPRしていく。

 

ひどい。まったくもってひどすぎる。
これでは、漸く下火になった「せんとくん」騷動に新たに燃料投下したやうなもので、あの不評であつた異形のキャラを却って盛立てるやうな效果しかなく、まるで繪に描いたやうな利敵行為に終る事だらう。
ま、かうして官民たがひにタイマツを投下しあって、開催までの長丁場を話題を切らさずに持っていければ地元としては御の字なのだらう。
だが、それにしてもこれら三〇の候補作、撰びも撰んだり、選択者の審美眼を疑ひたくなるやうなシロモノばかり、あまりにもひどすぎる。この中から確實に一つが撰ばれて、あげく、官民入り亂れて街中に「セントクン」「ナントクン(仮称)」のポスターやらマスコットが長期にわたって氾濫する事になるかと想像すると古都の風情を慕って奈良にやってきた私などにはやり切れぬものがある。
「セントクン」騷動で「おもしろうてやがて悲しき」にまでなってゐた私の「まなじり」は憤った。どうやら官民ともどもこの行事を長期低落傾向の觀光地奈良の手懸り足掛りにしたいのだらうが、こんな人々の手に任せてゐては、平城遷都1300年記念事業自体が可哀想だ。
そもそもどうしてここまで幼稚にならなければならぬのか。どうして子供騙しのシンボルが必要なのか。
平城遷都1300年の記念行事はそこらの万博、花博、菓子博などのイベントやフェスティバルとは別格の、少なくとも日本にとつて百年に一度の國家的記念行事、文化的事業である。神々に感謝し、祖先を顯彰し、未來へ決意を新たにする機會でなければなるまい。先づ以て嚴肅なセレモニイであるべきだ。
繼體天皇以來一千五百年の歴史を曲りなりにも保ってきた日本といふ國家は今や内憂外患、危急存亡の秋にあると認識しなければならぬ。
今こそ日本人は「眞摯に、深刻に」なつて日本とは何かを自省、自問自答してみる機會だ。
私はこれらの地上の出來事にたいしてことさらに「天」からの聲を意識して、「きよきまなじり*つよきまなざし」となつて、わが事業を(一切妥協なく、地上に實現する事など思ひ考へず)わが事業を構想し造形しよう。わが「日本のために」。



平城遷都1300年記念事業

私的に
亡國日本救済事業

すべく
きよきまなじり
つよきまなざし

なりて


Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World 

 

2008年5月18日日曜日

:2002:『かなしむちから』シネマ化プロジェクト(2)

 
『かなしむちから』第一部『悲別』シネマ story & plot

平城遷都千三百年記念(私的)事業『きよきまなじり*つよきまなざし』の一部として 

『かなしむちから』第一部『悲別』シネマ化は、大津皇子の最後の
三日間に焦点して「序破急」の構成にしたがって描かれます。
序は、大津皇子の目覚めた霊魂が自伝的な回想をする部分で、彼の
時代と彼の情況と彼の個性とを、彼にとって最も印象的ないくつか
の場面で描きながら、姉を訪ねて伊勢に向う場面へとつながってい
きます。
破は、この映画の本体となる部分で、姉を訪ねて大和と伊勢を馬で
往還する、いわば Road Movie(『万葉集』の語で云えば「羇旅発
思(旅情の道行)」、日本の最も傳統的な演劇形式にしたがってい
ます。黄泉路行くように伊勢に下り、少年少女の時に生別れとなっ
ていた姉と十四年ぶりに再会。伊勢斎王の姉を説得しようとして、
かへって叱咤され、その夜のうちに大和へ戻って行きます。
急は、戻った大和の国を多武峰より望見して「やまとは国のまほろ
ば」と魂の白鳥となって告別する。その後、自首するかたちで逮捕
され、翌日自邸で絞首の死罪となるまで。

シネマは、二上山の大津皇子の墓所、岩屋玄室の漆黒の暗闇のなか、
山越の風にふと覚めた大津皇子の霊魂の独白に始まります。{この
場面設定は折口信夫の『死者の書』を拝借しています。このように
随所に古典からの借用引用をおこなって、映画に「文学」を仕掛け
てあります。
岩屋に滴る水の音に意識を覚ました彼は、山越の風の音に胡笛の旋
律(マーラーの『大地の歌』第六楽章「告別」)を聞いて、独白を
始めます。
「そうか、われは大津という王子であった。そらみつ大和は、とぶ
とりの飛鳥の浄御原《きよみはら》に都なされて、大君は神にしま
せばと讚へられた天武天皇の大津という皇子。 ……
「天武天皇の時代精神をその一身に具現して、明き清き直き身と心
に恵まれ、歌舞音曲、礼楽御射書数の六芸《りくげい》はもとより
内教外典詩賦文史の類を学び、文武両道の君子士大夫となって、貴
人の目、文人の口、武人の手足。流行の見本、礼儀の手本。国の宝
にして国の華、見る者すべて「ますらを、みやびを」と仰ぎ見た、
さうであった。 ……
「天武天皇の治世十三年の春、不肖ながらも弱冠にして国家聴政の
大役に命ぜられ、時はあたかも変革成就するの時、欽明天皇以来、
多くの血と汗と泪とを流しての東夷《とうい》倭国の文明開化、日
本と美称しての国家創成事業に画龍点睛《がりやうてんせい》とい
うところで、天武天皇の御崩御。その直後、皇后皇太子の御嫌疑を
蒙って、磐余《いはれ》訳語田《をさだ》の自舎に死を賜り、「背
私向公《はいしこうこう》、教王護国《きょうようごこく》、不惜
身命《ふしゃくしんみよう》、捨身飼虎《しやしんしこ》」と大言
壮語し、「金烏臨西舎《きんうせいしゃにまかり》鼓聲催短命《こ
せいたんめいをうながす》泉路無賓主《せんろにひんしゅなく》此
夕離家向《このゆうべいえをさかりてまかる》」「ももづたふ磐余
の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲がくりなむ」と臨終辞世して、日
本という国家の創成のために、捨身飼虎「豈に戦ひ勝ちて後に丈夫
《ますらを》と言はむや。身を棄てて国を固めばまた丈夫にあらず
や」と、戦はずして国を讓り、骨肉相食んでは流された血と汗と泪、
親と子との犯したる罪、天津罪国津罪、汚れ穢れを祓ひ浄めるべく、
たまきはるいのちを二十四歳を一期に断絶した。大津という皇子。
さうであった。だんだんおもいだしてきたぞ。 …… 」
と、短いながらも波瀾万丈、意義深くもあった自分の生涯を走馬灯
させ、その最後の三日間へと次第に記憶を明確にさせていきます。

{今から千三百年前の、今までドラマやシネマに描かれ
た事のない時代と人物の事ですから、物語の前提となる
時代状況を大津皇子の hisStory のかたちで要約してお
きます。
大津皇子が大海人皇子(天武天皇)の第三男として誕生
したのは、西暦663年、歴史上では朝鮮半島での「白
村江の大敗」という新生日本にとって重大な事件のあっ
た年です。この二年前、中大兄皇子は新羅の侵略に亡国
した百済の要請を受けて、斉明天皇(天智天武の生母)
を押し立て、まさに国家總動員の態勢で大和を離れ、九
州筑紫に陣営しました。その西下の船中で、大津皇子の
唯一人の姉となる大伯皇女が誕生しました。二人の生母
は大海人皇子には実兄となる中大兄皇子の長女の大田皇
女で、彼女は同母妹の菟野皇女(持統天皇)と一緒に大
海人皇子の妃にやられました。姉を意識する妹は姉より
も早く男子(草壁皇子)を生む事ができましたが、その
時の難産がたたって二度と子が生めない体になってしま
いました。ちなみに、持統天皇が生まれた年は645年、
彼女の父である「中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺」があ
った年です。
白村江に大敗した中大兄皇子は大和に引き返しますが、
その途中、大津皇子を生んだ大田皇女は亡くなります。
大和に戻った中大兄皇子は、母をなくした大伯と大津を
引き取って、わが子のように育てます。
大和飛鳥に戻って二年目、中大兄皇子の同母妹の間人皇
女が亡くなります。それから二年後の667年、中大兄
皇子は今は亡き彼が最愛した女たち、母の斉明天皇、妹
の間人皇女、長女の大田皇女を遠智岡に合葬すると、大
和を捨てて近江への遷都を断行して、次の年に正式に即
位して天智天皇となります。
近江の新都はやがて「大津京」と呼ばれるようになるほ
ど大津と大伯は天智天皇に寵愛されて、子のない皇后の
倭姫王のもとで慈しみ育てられます。
水の都に平穏な日々が四年ほどが過ぎた頃、四十五歳と
なった天智天皇は自分の後継者の問題を苦慮して、従来
の大王制とは異なる父子相承の天皇制を実行に移して、
長男だが生母が釆女(地方豪族の出身)の大友皇子に大
海人皇子の長女である十市皇女(生母は額田女王)を娶
せ、葛野という嫡孫の誕生を見屆けたうえで大友を皇太
子に立て、摂政職に任じて、今や邪魔な存在となった同
母弟の大海人皇子の排除を始めます。
兄の過酷非情な権力闘争ぶりをその傍らで見てきた弟は
自分に降りかかってきた死の運命に出家を願ひ出て、一
人近江から飛鳥の古京へ、さらに吉野へと逃げだします。
その哀れな逃亡を唯一人、妃の菟野皇女だけが草壁を連
れて後を追ひます。ところが、死の手は兄が弟を把むよ
り早く兄を把んでしまい、671年の年末に天智天皇は
崩御してしまいます。
そして、それから半年後に、皇位を争うわが国にかつて
ない規模の内乱が近江の大友皇子と吉野の大海人皇子の
あいだに起ります。後世にいう壬申の乱です。
この時、大津皇子は九歳、近江に居た彼は大海人皇子の
手配の者によって拉致され、東国へ移動中の父のもとに
運ばれます。
そこで初めて大海人皇子を父として対面(それまでは祖
父の天智天皇を父とばかり思っていた)、顏も知らぬ生
母の唯一人の妹である菟野皇女を軍陣で活発に動き囘る
颯爽たる姿で間近く見て魅惑される事になります。
真夏の一箇月をかけた天下分け目の戦争は寡兵であった
大海人皇子の一方的な勝利となり、大友皇子は自害、そ
の生首を見屆けて大和へ凱旋、都を飛鳥に戻して、天武
天皇として即位、皇后に菟野皇女を立てました。
大津皇子にとっては父と伯父との骨肉相食む戦争であっ
た壬申の乱は、少年の心を深く傷つけ悲しませ、彼の最
初の深刻な体験となりました。
天武天皇の時代は、兄によって有力な王侯貴族が粛清さ
れ、しかも天智天皇にしたがった有力者たちも殆どが近
江側にあって亡び去り、若者たちのなかに天武天皇一人
が長老として、まさに現人神として君臨する物理的かつ
心理的な条件が整っていました。すでに四十二歳となっ
ていた天武天皇を專ら補佐して政事の中心に立ったのは
二十七歳の皇后でした。
その天皇と皇后との最初の仕事は、伊勢斎宮の再開とそ
の斎王に十二歳の大伯皇女を任命し、その後見として天
智天皇皇后であった倭姫王を付ける事でした。この人事
を、世間では皇后の差金だと露骨に風評しました。そし
て、生き別れゆく姉が心配したように世間でも孤兒とな
った弟の運命を風前の燭と同情しました。ところが、皇
后は大津皇子を引き取り、彼女のもう一人のわが子とし
て育てました。彼女の唯一の子の草壁皇子が生来の病弱
で、万が一の事を考えて影の皇子にでもするのであろう
と云い合ひました。
早くに母をなくして母のにほひすら知らない大津皇子は、
母の面影を追って思慕する伯母の間近くにいられる幸福
と、いつ命を奪はれるかも知れぬ不安と恐怖のうち少年
時代を過します。
不安と恐怖は(漢詩文の学問や伎楽の稽古などによって)
やがて彼に自分を隠す事、隠すために演ずる事を教え、
また、みずから身を守るための体技武術にはげしく熱中
する疾風怒涛の青嵐時代を過させます。
そんな恍惚と不安の日々を過す彼が十八歳となる年、6
81年、天武天皇は律令と国史の制作を勅命します。殊
に国史制作、日本という現在創成中の国家のための歴史
を制作する作業は大津皇子に大いなる体験となり、文学
的な才能に恵まれた彼を歴史家に仕立てあげます。彼は
総裁に任じられた親友の河嶋皇子とともに、日出づると
ころの日本という国家創業の大いなる先人として推古天
皇の摂政であった厩戸皇子の業績に注目し、聖徳太子と
して文化英雄に仕立てたりして、日本史のための記定に
鋭意努力します。
天武十二年(683年)、成人した大津皇子は病弱のた
めに摂政職をはたせない草壁皇太子を代理するかたちで
国家聴政を命じられます。天武天皇の治世も十年以上が
経ち、人心に弛緩と墮落が目立つようになっていた世相
を若き指導者の出現は一変させ、大地震などの天変地異
の最中に氏姓改革などの大事業をこなして政治家として
の実績をあげる大津皇子に天武以後の期待が集ります。
そんな大津皇子の活躍をねぎらふべく赴いた吉野で、天
武天皇は秘伝の舞を伝授しながら「取りたければ取るが
よい」と大津皇子の耳元に呟きます。大津皇子は「国よ
りも天皇の馬を」と答へて天皇を安堵させます。
この直後に天武天皇は宮中での菊花重陽の節句の祝宴で
病を発し、ちょうど一年後となる天武十五年九月九日に
五十六歳を以て崩御してしまいます。
天武天皇の発病に、世間は早くも十五年前の壬申の乱の
ような事態を予想し、その中心的存在に大津皇子を置き
ます。
あまりにも病弱な皇太子を抱へる皇后は戦ふまでもない
ほどの劣勢を自覚し、もう一人のわが子である大津に禅
讓しようかとまで思い考えますが、天皇亡き後、伊勢斎
王を規約により解任されて大伯皇女が都に戻ってくる事
を思い、戻ってきた斎王の姉と有能な摂政の弟が一つと
なった時、自分たちは(大伯を伊勢にやったように)余
計者、邪魔者として亡ぼされてしまう、と戦慄恐怖しま
す。戦ふしかないと決意すると、皇后は父親讓りの機敏
な策謀家となって「大津がいなければ大伯はたゞの皇女
にすぎぬ」と判断して、果敢にも大津皇子に照準します。
力づくでは勝目はないだらうが、彼女には大津をわが子
として育てた事の自信と確信がありました。
大津皇子は歴史家として政治家としての認識において、
天皇の父子相承を実現させなければ日本という国体は成
立しないという思い考えになっています。そのためには、
自分は国を讓らなければならぬ、とこの国の「国讓り」
神話などを思い浮べながら考慮していきます。また、
「忠君愛国は士大夫たるべき者の思想であり、これを臣
下の第一の地位にある自分が破るわけにはいかぬ」と冤
罪を受けて亡びていった山背大兄王の最期の事や蘇我倉
山田石川麻呂の最期の事を大いなる前例にして、皇后に
は従容然たろうと心を定めます。
天武十五年の夏の盛り、皇后は重態となった天皇のもと
に大津皇子を喚び、天皇の配慮を伝えます。そして、大
津皇子に王位への野心のない事を確かめて「だが大伯は
どうであろう。大伯は斎王とされた事で吾等を恨み憎ん
でいよう」と決めつけ、姉の説得を大津に誓はせます。
九月九日、天武天皇崩御。諒闇中にも拘はらず生臭く焦
臭くなりゆく政局、大津皇子を担ぎださうとする動きを
大津皇子自身が制止しているといったふうの際どい状況
の中、天皇を称制した皇后は「大伯の事はどうなったの
か」と大津皇子に催促します。それに重なるように大津
皇子擁立の中心人物の河嶋皇子からは決起を促す矢の催
促があり、それを制止に出向き、河嶋皇子と激論になり、
その帰り道、馬を走らせるうちに(状況からの逃亡のよ
うな思いを生じさせて)疾走、伊勢路を大和と伊勢の境
界となる奥室生の辺りまで来てしまいます。

{ここまでが大津皇子の hisStory の部分。以下、現在
進行形のかたちで大和伊勢往還から賜死にいたるまでの
大津皇子の最後の三日間が描かれます。

大陸渡来の胡馬を疾走させる大津皇子に遅れて、追ってきた執事の
土岐道作と舎弟扱いの葛野王に「伊勢へ行く」と告げ「都を離れて
はなりませぬ」と制止されるが、「忠君愛國」を雄弁して伊勢へと
駆けだし、葛野王が後に従います。十七歳の葛野王は天智天皇の嫡
男大友皇子と天武天皇長女の十市皇女の遺児で、世が世ならば皇太
子となっていたはずの王子ですが、父は敗死、母は数年前に宮中に
変死して孤兒となったのを、大津皇子が同情して舎弟分に遇してい
ます。{葛野王は大津皇子の青嵐時代を「異時同図」で示すという
意味も兼ねています、白馬も大津皇子の別の面を暗示しています。

伊勢へ下向する山中の路を、葛野は「なぜ戦わぬのですか」と繰り
返して大津を引き返させようとしますが大津は応ぜず、やがて、二
人は母の事、父の事、王権の事、歴史の事など語しながら下り行き
ます。

飛鳥では、大津皇子の留守を狙って皇后は兵を動かし、大津邸を制
圧してしまいます。

伊勢斎宮。生別れとなってから十四年ぶりに対面した姉は弟の説得
に、やはり伊勢に生埋めにされた思いに「父を恨み伯母を憎んでい
る」事を告げ「どうして戦はぬのか」と弟に迫ります。弟は「今や
この国は」となおも説得しやうとしますが「汝はわが弟ではない、
伯母の子じや」と詰り、二人は吹き荒れる神風に揺れる燭光に不安
に照らされて二つの孤独となって沈默します。
やがて、姉は伊勢に生埋めにされて過ぎてしまった女盛りの時間の
事を「…… うち寄せる波の音を聽いては胸をとどろかせ、滿ち來
る汐に泪を流した、 …… 汐が滿ち、汐が引き、月が滿ちては缺け、
一月が去り、一年が去りまた去つていく。おのれのいのちは、常處
女のまゝ、この伊勢の地に生埋めにされて朽ちていく、花の盛りは
たちまちに過ぎ、たまきはるいのちはむなしく枯れゆく。 …… 女
である事、いや、人である事すらを奪はれて、生きたまゝ朽ちてゆ
かねばならぬ、波洗ふ砂濱に埋められたかのやうに …… 孤獨、悲
哀、絶望、生埋めにされた者でなければわからぬ …… たゞ一つの
希望は汝、弟であつた。立派に成人して、何時の日にか救ひに來て
くれる、それだけが夜毎に夢見る、儚い期待であつた。なのに、夢
が叶つたと思へば、 ……」歎き口説き、「この姉のためにも汝の
なすべき事をなせ、悲しみなど一時の事」と鋭く烈しく命じます。
もはや、否やは言い難く弟はその夜のうちに大和へ戻って行きます。
弟のいなくなった後を見詰めているうちに、姉の気持に悪い予感が
襲來して、弟を呼び返さうと後を追ひますが、弟はすでに馬乗の人
となって月もない夜の闇に消えつつあります。
姉の呼ぶ声は届かない。悲別の時にいつまでも祈るように夜の底に
立ちつくす姉に、弟を思う気持は二筋の歌となってあふれます。
吾が背子を大和へ遣ると小夜更けて暁露に吾が立ち濡れし
二人行けど行き過ぎ難き秋山を如何にか君が一人越ゆらむ

闇路の帰途、葛野王は大和へ行くのは危ない、伊勢に戻って戦う事
を主張しますが、大津皇子は応じない。
登りついた室生の山地は煙霧の時雨となって行く手を悩まし、龍穴
神社の草堂に雨宿りするうち、葛野王は烈しく鋭く反論を試みます
が、大津皇子は「戦はずして国を讓るのも士大夫の選択の道、自分
はどこまでも皇后の御気持に従いたい」と都に戻ろうと立ちあがっ
たところを「行かせぬ」と飛びかかってきた葛野王を当身で気絶さ
せ、大津皇子は一人、飛鳥へ向います。

飛鳥を眼下に望み見る多武峰に現れて、大津皇子は「倭は国のまほ
ろばたたなづく青垣山隠れる倭しうるはし」と魂の白鳥となって愛
する大地に告別します。すでに彼の気持は「国讓り」の行動にでき
あがっています。
折りしも時鐘が響き、それを合図に黄泉路のように道行き下り、皇
宮の朝堂に自首します。持統天皇の側近である忍壁皇子と対坐して
「皇太子への謀反ならば律令の規定により死罪」と自分で自分に判
決を出すようにして「死は自宅で賜りたい」と願ひ、許されて自邸
に戻ります。

翌日を身辺の整理に過し、気持を乱す妃の山辺皇女を「こうなる事
は半ばみずから望んでの事、決して皇后皇太子を恨んではならぬ」
と誡めて、夕刻、自邸の東屋に設えさせた絞首台で自経して、ある
いは聖王となったかも知れぬ王子の二十四歳の生涯が閉じられます。
その後を追うように、愛する君を失って狂乱した山辺皇女が殉死し
てしまいます。

『かなしむちから』第一部『悲別』シネマ化


Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World 
 

2008年5月16日金曜日

:2002:『かなしむちから』シネマ化プロジェクト 企画書

 
『かなしむちから』シネマ化プロジェクト 企画書

平城遷都千三百年記念(私的)事業『きよきまなじり*つよきまなざし』の一部として 


FlashMovieによる構想&造形(白馬がクリックボタン)


 日本のための映画

日本映画の名作が次々と作られていた時代からちょうど半世紀が過ぎました。
1953年には小津安二郎の『東京物語』と溝口健二の『雨月物語』が作られ、
1954年には黒沢明の『七人の侍』と木下恵介の『二十四の瞳』が作られました。

二年前、世界文化賞のために来日したゴダアルはインタビュウに答えて「日本に
は、溝口・黒沢・小津ら何人かの優れた映画作家は存在したけれども、日本映画は
存在しなかった。日本映画とは、日本とは何であり、どうなりたいのかを表現し、
日本という国家、民族全体の顔が見える映画のことだ」と云っています。

日本、その風土に生きた民族と国家、その歴史

豊かな歴史と文化を持ちながら、
それとみずから断絶してしまった現代の日本人

極東の海洋にかこまれた列島、四季豊かな気候のもとで光や風、
色や音、それらにたいする感覚や思考の積重ねが知識となり智慧と
なって、この国はその感受性と表現力において世界に独自の思想と
文化を形成してきました。ところが、それらは失はれてしまいまし
た。詩も歌も物語も、言葉さえも忘れられてしまいました。

今やこの国は、家庭から学校、会社から議事堂、はては皇居にいた
るまで老若男女、日本国民のそのテイタラクぶりたるや、さながら
日本という国家の終焉に立ちあっている感があります。かつては
「菊と刀」の「恥と粋」との文化の国民が、今や恥辱も知らず外聞
も気にせず、恥ずかしき日本 ―― どうして同じ日本人がこれほど
までに変身してしまったのかフシギなくらいです。日本人が日本人
である事を嫌悪して、たとえば茶髪美白の脱亜入欧、日本的なるも
のはミソもクソも一緒くたに否定しさり、伝統の思想どころか感覚
までもうしなって、自業自得の根無草となりながら、その事すら自
覚できない精神となりはてています。その惨状、すでに亡国の民の
如し。
「亡國の戮民も樂(礼楽のガクです)なきに非ざれど、その樂や樂
ならず。故に、樂いよよ侈にして民いよよ鬱、國いよよ亂れ、主い
よよ卑し。即ち、樂の情を失ふ也。」と『呂氏春秋』に云はく。

楽を正せば、民の鬱情は浄化され、この国の錯乱は治まるのであろうか。
試してみるまでもない事でしょうが ……

今こそ「日本映画」を作るべき時である、のかも知れません。

わが日本の現状、そしてその将来の悲観絶望に、
おもいを亡国のかなしみに致して、
亡びし日本の葬送のための輓歌として ――
日本とは何であったのか、日本人とは、
日本の思想と文化とは何であったのかを思い考える
物語の制作を試み始めていました。

日本とは何であったか、素材を日本の歴史に求めて、実在した日本人の
生様死様によって描いてみせる事。歴史の再現をめざすのではなく、世
阿弥や近松の「虚実皮膜」の理論にしたがって虚構を史実を壊さぬ程度
に加え(そこが藝の力)、いわば History を hisStory に昇華させて、
そのすぐれて個別的な生と死とに普遍的な日本人性を体現させ、日本の
「黄金伝説」に仕立てあげて、歴史を史劇へ、記録を記憶へ、情報を情
動へ、と高め深めて描いてみせるのだ。

敗者たちへの日本人の同情共感は殊に特徴的なメンタリティでした。菅
原道真や平将門をはじめとして敗者を(力ある怨霊の)英雄として物語
り、哀悼想起して、鎮魂と顕彰とをおこなってきたのでした。それは勝
者を畏れさせ、誡める力となって働きました。 ……

とんだ大言壮語となっておりますが、我を忘れてパンとサアカ
スにうつつを抜かすばかりのこの時代にたいして、真正面の大
上段から「日本」の姿を示して、日本人特有の心情に語りかけ
る passion の悲劇の力で compassion させて、日本人を肅然
とさせたい。肅然とさせて、その魂魄を淨化し、慰撫し鼓舞し
てやりたい。

―― さうしたシネマ

日本にとって最も決定的な瞬間を
日本にとっての最も根源的な物語へ
  日本人にとっての永遠の記憶とすべく

そのための物語 ――

日本について根源的に思い考えてみるべく、まずは、
西暦七世紀の頃、仏教伝来した欽明天皇の頃に始まり聖徳太子、
天智天武、持統天皇の大宝律令の頃までの百五十年ほどの時代、
まさに激動変革の時代、「東夷の倭国」と蔑まれていたわが国が
「日出づるところの日本」と美称して、中国隋唐を見本に文明国
家へと脱皮変身、七転八倒していた革命維新の時代、
そのために流された多くの血と汗と泪の事どもを、
『日本書紀』『万葉集』『懐風藻』等々に取材して、天武天皇亡
き後の皇位継承をめぐる持統天皇による大津皇子の賜死事件に焦
点、大津皇子とその同母姉の大伯皇女の悲運にみちた生涯を、
日本の悲劇の誕生として構想、『かなしむちから』と題して
『悲別』『悲憤』『悲傷』の三部作に造形――

(この物語の前提となる歴史的状況を簡單に記しておけば)、
大津皇子の時代より百五十年以前の欽明天皇の時代にわが国は
仏教を本格的に招来し、それを契機に物部氏と蘇我氏との間に
新旧の勢力闘争があり、それに勝利した蘇我氏はこの国の近代
化に貢献しながらも馬子・蝦夷・入鹿の三代のうちに大王家をも
しのぐ勢力となっていった。その打倒をめざした大王家の若き
王子、中大兄皇子の一撃が物の見事に蘇我氏を滅亡させ、復権
した大王家を中心に大化の改新が始められ、中国隋唐を見習っ
た律令と官僚とによる日本という国家が構想され、その国体の
精髄として「万世一系父子相承の天皇」という制度が置かれた。
かうして中大兄皇子=天智天皇、大海人皇子=天武天皇、この
兄弟の辣腕と快腕とを中心にわが国は「日本」という国家の創
業と守成に成功したのであった。だが、早くも天皇の父子相承
という理念は天智天皇の時に躓いてしまう。天智天皇の崩御後、
その皇太子の大友皇子と大海人皇子とのあひだに皇位をめぐっ
て戦争がおこった。後にいう壬申の乱。この戦争に勝った大海
人皇子=天武天皇は白鳳時代とよばれる大いに業績のあった十
五年の治世をおこなって崩御した。その後継がまたしても問題
となった。皇后(持統天皇)所生の皇太子草壁は生来の病弱で、
天武天皇がおこなってみせた天皇親政の能力に欠けていた。
それに引きかえ、皇位継承権第二位にある大津皇子は身心に優
れ、摂政職も見事に果して天下の期待を集めている。彼には伊
勢に斎王を務める大伯皇女という姉もいる。大伯大津の生母は
天智天皇の長女であった大田皇女で、彼女は妹の菟野皇女(持
統天皇)とともに大海人皇子の妃となったが、大津を生んだ直
後に亡くなり、母無き姉と弟は祖父となる天智天皇のもとで育
てられたが、壬申の乱の後、すぐに姉は斎王に任じられて伊勢
へ遣られ、姉と生別れとなった弟は(わが子の草壁が万が一の
場合を考えた)皇后によって影の王子として育てられた。そし
て十五年が過ぎ、数えて二十四歳となった大津皇子には事実は
小説よりも奇といった感じの、皮肉にして過酷な状況が作りだ
されていた。母を知らぬ大津に育ての母となった伯母との権力
闘争、それを回避すべく大津は苦慮する。天下の嘱望は自分に
集まり、戦えば必ず勝ってしまうだらう。しかし、さうなれば
皇位を簒奪した事となり、父の時とともに二代つづけて天皇制
はその端緒において父子相承という原則が破られて、新生日本
の国体はその根幹から犯されてしまう事となる。さうならぬた
めにはと苦慮を重ねて大津皇子は「国讓り」という自己犠牲の
考えに傾いていく。皇后も一度は禅譲という事を考えたが、大
津には自分たちが伊勢に追ひやり生埋めにした大伯という姉が
いるのであれば、やるかやられるか、姉の子と戦ふしかないと
決断する。皇后は大津を天皇の病床に呼び、もはや話す事ので
きなくなった天皇の考えを伝える。大津は自分には決して野心
などないと誓約する。皇后は、「汝はさうであっても大伯はど
うであろう」と鋭く問いかける。姉の事は必ず自分が説得いた
します、と大津は皇后に誓う。そして、ついに天武天皇の崩御。
その諒闇の厳肅のうちに、状況は生臭く焦臭く煮詰っていく。
そんな時、大津皇子は都の大和を離れて伊勢へ姉を訪ねて行く。
……

第一部『悲別』
吾が背子を大和へ遣ると小夜更けて暁露に吾が立ち濡れし
二人行けど行き過ぎ難き秋山を如何にか君が一人越ゆらむ
現人神とたたえられた天武天皇の崩御、その直後(十月一日)、
大津皇子は、自分がその中心的存在とされている後継者問題で沸
騰する大和飛鳥を離れ、伊勢に斎王を勤める同母姉の大伯皇女を
訪ね行く。それは、斎王を解任された大伯皇女が都に戻ってきて
摂政の弟と一体になる事を懼れる皇后(持統天皇)の要請を受け
たもので、大津皇子は姉を説得して和解の途を探ろうとするが、
少女の時に斎王にされて伊勢に生埋めとされた思いに天皇皇后を
恨み憎んでいる姉にはげしく反撥され、叱咤され、追ひ返される
ように大和へ戻っていく。
案の定(その事あるを大津は予想し覚悟していた)主人の留守を
衝かれた大津邸は皇太子への謀叛の嫌疑で皇后側に制圧される。
途中でそれを知りながらも、日本という国家を定立させるには父
子相承の天皇制度を実現させなければならぬと思い考える大津皇
子は、仏教の「捨身飼虎(自己犠牲)」の教説にも啓示されなが
ら、持統皇后と草壁皇太子に「国を讓る」事と思い定めて、それ
らの思想を「かなしむちから」として自己劇化すべく、飛鳥に戻
り多武峰より彼が愛する大地に愛惜の告別をなして、自首するか
たちで逮捕され、即刻翌日、自邸で絞首の死罪を賜る。

第二部『悲憤』
神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
見まくほり吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
大津皇子の謀叛事件の一月半後、大伯皇女は伊勢斎王を解任され
て大和へ運ばれて行く。彼女の思い詰める気持は、弟を叱咤して
「大和へ遣つた」事を後悔して、「死へ追いやつた」と自責しな
がら、どこまでも自分の不幸の元凶である叔母の皇后に、彼女が
自分に加えた仕打の数々、十二歳で斎王にして伊勢に生埋めにし、
今また唯一人の肉親である弟を奪った憎き叔母に、せめて一矢は
報いたいと悲憤を発している。
齋王退下奏上の機会、白衣素服の二十六歳の斎王の姪は唐風に盛
装した四十二歳の天皇の伯母に烈しく「かなしむちから」となっ
て対決、「母と子の犯せる罪、吾等が天照大御神は決してお許し
になるまいぞ」と呪言する。慈悲と寛容とを以て臨んだ持統天皇
だが、大伯皇女のあまりの云いように我慢がならなくなり「汝等
は父と子との犯せる罪、生れてきてはならぬ子であった」と、大
伯大津の出生の秘密(真偽のほどは定かでない)を暴露して反撃
する。

第三部『悲傷』
磯の上に生ふる馬醉木を手折らめど見すべき君が在りと云はなくに
うつそみの人にある吾や明日よりは二上山を弟背と吾が見む
その後、大伯皇女はどこかに持ち運ばれた弟の遺骸を搜し求め、
それが二上山麓の当麻の地に埋葬されている事を知り、当麻に行
き、殯に籠る。その服喪の営みのうちに彼女の悲憤は悲傷へと変
っていく。だが、彼女によって発せられた呪言は言霊となって、
草壁皇太子は二年後には病死してしまう。それでも持統天皇は藤
原不比等などを側近にしながら皇統を継続させ、都を藤原京に遷
し、さらに彼女の子孫は奈良へと遷都して匂ふがごとき華麗なる
天平時代を現出させるが、その内実は滑稽にして悲惨、天武持統
の皇統はわづか数代、百年足らずにして断絶してしまう。
大伯皇女の弟に殉ずる純潔な生き様は彼女が常処女の斎王であっ
たという事実も重なって、その存在は神秘な魅惑を以て同時代の
男たちに興味と関心を抱かせた。それらの風聞風説が、やがて香
具夜姫伝説(求婚者の名前などから彼女の物語の時代設定が大伯
皇女の晩年である事が分る)や、中将姫伝説(彼女は当麻寺に来
て出家した織女として創造されている)などのかたちに造形され、
日本の物語の起源となっていった。

日本の悲劇の誕生

この悲運の弟と姉の事に、私は日本の物語の原景=原型を見たおもい
であった。天皇制はもとより、母と子の関係、姉という存在、敗者へ
の共感、そして怨霊思想にいたるまで、ここには日本的なるもののす
べての核心がある。さう確信された。
この究極の素材を日本にとっての根源的な物語に作り、(絵巻や能楽
などの)日本的な表現技法を援用しつゝ、日本人にとっての信ずべき
大きな悲劇へと描きだしたい。

物語はフォトジェニックに、シネマティックに私の脳裏に現前していた
錦秋深き山路を大和から伊勢へと馬で急ぐ大津皇子の孤影
伊勢の斎宮に姉との十数年ぶりの再会、通じあわぬ気持と気持
神風と潮騒が揺らす灯明が照らしだす二つの孤独となった姉と弟
追ひ返すように弟と別れた後、いつまでも夜の闇に立ちつくす姉
大和に戻って「やまとは国のまほろば」と魂の白鳥となって告別
そして、自首して「国讓り」して従容として死に赴くその孤影

描くところは(日本的に)アクションよりもパッション ――
パッション(情熱とともに忍苦という意味があります)、それは日本
人の美学と存在論となっていった情念でした。状況にたいする情理の
葛藤のうち、破局とは知りつゝもみずから進んで窮地に陥り、エロス
とタナトス、死地において危機と戲れるようにしながら救済への不可
能な道を摸索して自己犠牲をも厭わぬ精神。

大津皇子のパトスとロゴス、つまり情理の葛藤を描く日本的悲劇
詩文の才学に恵まれ中国の忠君愛国の思想を教育されて政治家となり、
また(礼楽や伎楽の習得により)音楽家でもあり舞蹈家でもあった大
津皇子に、ロゴスとパトス(ニーチェの『悲劇の誕生』で云えばアポ
ロ的とディオニュソス的)の悲劇的精神を体現させ、王位継承という
最も露骨な権力闘争の場面で、日本神話が強調する「国讓り」という
思想を演じさせて「かなしむちから」というパッションを表現して、
日本の悲劇の誕生を造形してみたい。

事件のその時、大津皇子は数えて二十四歳、身と心の最も充実した年
齢にありました。
文学青年にして政治家歴史家でもあり、また、武人でもあり音樂家舞
蹈家でもあった彼は、葛や藤のように絡みついてくる状況と逃れがた
く挌闘していくうちに、自分が置かれた状況を「國讓り」というわが
国の神話的理想をおこなってみせる千載一遇の「選び抜かれた状況」
と認識していきました。もし自分がおこなわなければその機会は永遠
に失われてしまう事に思いをいたし、或種の野心となって、すべての
状況を天命として受入れるという「パッション」の力によって自己劇
化(自己犠牲)をはかり「選び抜かれた行為」をおこなったのでした。
このように大津皇子によって「始源的な行為」がおこなわれて、日本
という国家は画竜点睛、気韻生動したのでした。
「非常の人あり。然る後に非常の事あり。非常の事あり、然る後に非
常の功あり」という成句がありますが、まさに大津皇子によってこの
ような事が日本のためになされたのでした。
だが、大津皇子の事件の真実は『万葉集』の大伯皇女の絶唱六首のう
ちに悲しくも美しく封印されて、一千三百年のこの方、その真相に気
付く者はありませんでした。 ……

歴史を描く事とともにその風土を描く事もまた映画の重要な仕事です。

やまとは くにのまほろば
たたなづく あをかき やまこもれる やまとし うるはし

『古事記』の日本武尊は異郷の地(伊勢)で死に瀕して、故郷を想い
「やまとは国のまほろば」と懐郷の歌を呟き遺し、息絶えて白鳥とな
って翔け去ります。この歌とその死によって日本武尊はわが国の英雄
の祖型となりました。
大津皇子の「告別」には日本武尊の最期が重ねられます。恣意的な重
ね合はせではなく史実にそくしたうえでの工夫です。日本武尊の話は
『古事記』や『日本書紀』にありますが、その元となった国史制作の
詔勅が出されたのが天武天皇十年、その時、大津皇子は十八歳でわが
国最初となる国史の制作に参加していたと思われます。あるいは、日
本武尊の造形には大津皇子の力が加はっていたかも知れません。
大津皇子は自分自身に日本武尊の運命を感じ想ふ。さうする事で彼は
自分自身を悲劇と英雄とに自己劇化し、運命に従容然たる力を獲得す
る。

このように、大津皇子の事件(およびその弟の非業の死に殉ずる事
になった姉の大伯皇女の事)を、ゴダアルの云う「日本映画」とし
て構想&造形して「日本とは何であったのか」を、その原景におい
て表現して亡国日本の面影とし形見としたい、と私もまた「かなし
むちから」の「非常の人」となって思い考えたのでした。

大津皇子坐像(藥師寺)


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2008年5月12日月曜日

『きよきまなじり*つよきまなざし』 趣意書 02


堀辰雄が『大和路』に書いた旅を奈良にした年は昭和十六年の十月であつた。
この年の十二月八日には、日本側の宣戰布告によつてアメリカとの戰爭が始まった。
そして、三年と九ヶ月の戰爭のあげく、原子爆彈を二發食らひ、敗戰を受諾して、昭和二十年八月十五日、天皇によつて終戰が告げられた。折口信夫はそれを聞いて、

につぽんのくに たたかひまけて ほろびむとす すめらみこと、
そらにむかひて、のりたまふ ことのかなしさ。


と絶唱した。日本の敗北は日本の神々の敗北であつた。折口はひとり眞摯に、深刻にさう思ひ考へた。そして翌年、堀辰雄の阿修羅像についての「なんといふういういしい、しかも切 ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示してゐるのだろう。 それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目 ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ郷愁のやうなものが生れてくる、――何かさういつたノスタルジックなものさへ身におぼえ出 しながら、」といふ日本人としての根源的な疑問、「我々はどこから來て、何者であり、どこへ行かうとしてゐるのか」に答へるやうに 『神道の新しい方向』 といふ日本の未來への祈りと願ひの文章を作った。

それで、われわれはこゝによく考へて見ねばならぬことは、日本の神々は、實は神社において、あんなに尊信を續けられて來たといふ風な形には見えてゐますけれども、神その方としての本當の情熱をもつての信仰を受けてをられたかといふことを、よく考へて見る必要があるのです。千年以來、神社教信仰の下火の時代が續いてゐたのです。例をとつて言へば、ぎりしや・ろうまにおける「神々の死」といつた年代が、千年以上續いてゐたと思はねばならぬのです。
佛教の信仰のために、日本の神は、その擁護神として存在したこと、歐洲の古代神の「聖何某《セントナニガシ》」といふやうな名で習合存續したやうなものであります。われわれは、日本の神々を、宗教の上に復活させて、千年以來の神の軛から解放してさし上げなければならぬのです。こゝに新しい信徒に向つては、初めてそれらを呼び醒さなければならないでせう。とにかくさうしなければ、日本の只今のかういふ風に堕落しきつたやうな、あらゆる禮譲、あらゆる美しい習慣を失つてしまつた世の中は救ふことが出來ません。また、そればかりではありません。日本精神を云々する人々の根本の方針に誤つた處が、もしあつたとしたなら、この宗教を失つてゐた――宗教を考へることをしなかつた――、宗教をば、神道の上に考へることが罪惡であり、神を汚すことだと、さういつた考へを持つてゐたことが、根本の誤りだつたらうと思はれるのです。だからどうしてもわれわれは、こゝにおいて神道が宗教として新しく復活して現れて來るのを、情熱を深めて仰ぎ望むべきだと思ひます。
たゞわれわれの情熱だけで、宗教を出現させることの出來るものでもありません。宗教には何よりもまづ、自覺者が出現せねばなりません。神をば感じる人が出なければ、千部萬部の經典や、それに相當する神學が組織せられてゐても、意味がありません。いくらわれわれがきびしく待ち望んだところで、さういふ人がさういふ状態に入るといふことは、必しも起つて來ることでもありません。しかし、たゞわれわれがさうした心構へにおいて、百人・千人、或は萬人、多數の人間が憧憬をし、憧れてゐたら、遂にはさういふ神を感得する人が現れて來るだらう、おそらくさういふ宗教が實現して來るだらうと信じます。
其ばかりではない。おそらく最近に、教養の高い人の中から、きつと神道宗教の自覺者をば出すことになるだらうと思ひます。それには、われわれは深い省みと強い感情とをもつて、われわれ自身の心から、われわれ自身の肉體から、迸り出るやうに、さういふ人が、啓示をもつて出て來るやうにし向けなければなりません。極端な言ひ方をすれば、われわれ幾萬の神道教信者の中に、最も神の旨に叶つた豫言者たり得るものありやといふことに歸するのです。
われわれのすべきことは、さういふ時を待つ態度であります。もし私が宗教的自覺状態に入つて、深い神の意志を把握する――。さういふ時に至るまでの用意が出來てゐるかといふのです。われわれは、どういふ神を得ようとしてゐるか。われわれはどういふ神をば曾て持つてゐたか。かういふ解決を要する、最後的な疑問を持つてゐるのでなくてはなりません。

このおもひが昭和二十七年二月に開催された興福寺展の時の講演『きよきまなじり』にも反映してゐる。
阿修羅といふ本來の憤怒の相貌に「切ない」悲憤の表情を漂はせてしまつた古代人の造形に、折口は佛教によつて夭折させられてしまつた日本の本來の神々の面影を追った。「佛てふ神」の渡來により未完成靈のまゝに夭折させられた「神々の死」を想った。
そして、この翌年、五月に折口がその才能を愛した堀辰雄が四十九歳で亡くなり、その葬儀で追悼の詩を讀んだ六十七歳の折口信夫はそのまゝ崩れるやうに九月三日に死んでしまつた。

興福寺の阿修羅像に格別のおもひをこめて見詰めた人々は死に逝き、半世紀が過ぎ、その後多くの日本人のまなざしがこの天平の美少年に向けられてきたが、その心は何を感じ思ってきたのだらうか。
この「きよきまなじり」に、私は、日本人にたいして鋭く烈しく見詰め返す「つよいまなざし」をおもひたいのだ。

戰後、まさに阿修羅のごとくエコノミックアニマルと化して働き、カネを稼いで豐かにモノを享受したが、その代償のやうに魂を失ひ、失った事も氣付かぬほどにウツロに呆けてしまつてゐる。今や我々は日本人として、また人間としての精神の危機にあると言はなければならない。
早急なる自省が求められてゐるのだ。
日本人よ、神々とともに甦れ。



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2008年5月8日木曜日

『きよきまなじり*つよきまなざし』 趣意書

奈良遷都1300年記念(私的)事業
『きよきまなじり*つよきまざし』

こんなのはダメだ!

 もつと眞摯に、もつと深刻に



平城遷都1300年記念事業

私的に
亡國日本救済事業

すべく
きよきまなじり
つよきまなざし

なりて

(乞ふ!御期待)


【きよきまなじり】について

折口信夫が昭和二十七年二月の興福寺展に寄せた講演『きよきまなじり』には、師弟關係ができた堀辰雄が昭和十七年に發表した『大和路』で、奈良を訪ね阿修羅像を見て感想した「切ないまなざし」の影響もあるだらう。
その堀辰雄が持病の肺疾患で昭和二十八年の初夏に逝去した時、折口はその葬儀に出席した。その折口も同じ年の初秋には亡き人となる。

>  もう十一時だ。僕はやつぱりこちらに來てゐるからには、一日のうちに何か一つぐらゐはいいものを見てをきたくなつて、博物館にはいり、一時間ばかり彫刻室のなかで過ごした。こんなときにひとつ何か小品で心愉しいものをじつくり味はひたいと、小型の飛鳥佛などを丹念に見てまわつてゐたが、結局は一番ながいこと、ちようど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何處か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になつて見入つている阿修羅王の前に立ち止まつていた。なんといふういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。 それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういつたノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした。それから中央の虚空蔵菩薩を遠くから見上げ、何かこらへるやうに、默つてその前を素通りした。 ‥‥ 堀辰雄『大和路・信濃路』



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