私は散文が得意でない。はつきりと苦手である。文章が續かない、續けられない。二三行も續けるとしどろもどろ、支離滅裂になつてしまふのだ。だから、私は詩人だと云ひたいのではない。
原因は、と淺學菲才は別にして探つてみた。そして、これだと思はれた結論は、私が極度な人間嫌ひで、世間との社界生活を生れてこの方營んだ經驗がないせゐだといふ事になつた。
世間と沒交渉の者に散文は殆ど不必要なのである。報告したり説明したりするために人間はおのづと散文的に場面を記憶していくのであらう。例の、4W1Hで何時どこで誰が何をどうしたと記憶=記録されていくのだらう。
ところが、孤獨者はおのづと夢想家であり、例の意識の流れといふヤツで、それも時間的(それならまだしも散文的である)といふより空間的に一時に多重の想起が錯亂する虹のやうに襲來して、たちまち現實から遊離させてしまふのだ。
孤獨な夢想者には句讀點や段落改行の必要がない、といふか習慣がない。あの時そこにゐた私は何をしてゐたか、よりも何を感じ考へてゐたか。その體驗が散文で記述するにはまるで錯亂した心象の重なり合ひであり、しかもまさに華嚴的に互ひに互ひは多重に關連しあつてゐて、たつた一瞬の事でも「失はれた時」の延々たる再現とならざるを得ず、イモヅル式はたちまち編目模樣となりゆき、やがてつひには収拾がつかなくなつてしまふのだ。しかも、作文中にはあらたに想起連想、修辭が加はるのである。どうして理路整然たりうるだらうか。
そもそも、
机にへばりついて一字そして一行と繼續していく作業が陰氣くさくシンキくさくてやりきれないのだ。作業の持續、氣分の繼續といふのが生來苦手なのである。そんな苦手の苦勞までして書き遺さなければならないやうな事件なり體驗なりはさひはひにも私を訪れなかつた。
ところが、
運命とは皮肉なもので、ボウドレエルではないが、
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Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World 199108