2008年2月29日金曜日

思想と空想:わが写真論のために

 
{2001年の記事から覺書として



寫眞とは「決定的瞬間」だ。
射撃のやうな緊張感においてシャッターは切られる。待つ事。待機して、その一瞬を狙撃する。その營爲が寫眞的行爲なのだ。
カメラといふツウル。一種の武器、もつと云つてしまへば或種の凶器のやうなものとして。
視覺的表現において繪畫的でも映畫的でもない表現としての寫眞表現。

私にとつての「決定的瞬間」とは、見詰める對象に見えないものが見えたと思ひ感じられた瞬間なのである。
そのための待機、瞬きもせず凝視し續けるといふ營爲が、この營爲こそが私にとつて大事なのだ。この營爲によつて、私のまなざしは鍛えられる。カメラは私の視覺を鍛錬する道具なのである。
シャッターを切らないといふ事もまたきはめて寫眞的な行爲でなければならない。30分も構えて遂にシャッターを切らなかつた、切れなかつたといふ體驗がもう一方の體驗として寫眞家には必要なのである。

藝術は技術とともに精神を必要とする。
寫眞が、寫眞のほとんどが藝術となり得ない事の原因の一つはそこに寫眞家の精神が籠められてゐないからである。元々寫眞はさうした作家の個性は表現しにくいジャンルである。豫備知識なしで寫眞を見てその作者を云ひ當てる事は多分できまい。作風は容易に模倣できる。ちやんとした機械とちよつとした技術があれば模倣は萬人に可能である。だから寫眞は安直な表現手段と誤解され、俳句のやうにポピュラーな表現手段となる。

寫眞と俳句
日本人の寫眞好きは、日本人の俳句趣味と同根のものではないだらうか。一瞬の印象の定着。季節感。
最も簡易な表現形式としての俳句と寫眞(殆どが自己滿足にしかすぎないが)

寫眞する事の脳への好影響
Search 對象を搜す→Shoot 構圖を決め機會を窺ふ緊張→See 見る事の快樂
前頭連合野 ミッドα波

昔は、寫眞撮影は「生體驗」の邪魔になるといふ説が多かった。
その次には、ワアプロでは「創作」はできないといふ説がハバを利かせた。
さいはひ、私はどちらの説も信用しなかった。
カメラのファインダーを覗いてゐる時、私は外界にたいして最も意識的であり、シャッターを切るまでの時間、意識は緊張を増していき

&

逆光と微光とが私の寫眞における光學となりつつある。

見えるものと見えないものと、
寫眞でそんな無理な事を私は敢てやろうとしてきた。
寫眞は、私にとつて「虚實皮膜」を表現させるための最も簡便なメディアであつたのだ。
クレイは繪畫を定義して「見えないものを見えるやうにするのが繪畫の仕事」だと言つた。
これが繪畫についての最高の定義であると私は思ふ。
カメラは當然見えるものを正確に記録するための裝置である。そのために開發された。
しかし、カメラが記録したものを人はそれぞれの記憶によつて、自分に引寄せて見る。
記録は記憶によつて解釋される。

私は寫眞に現實の忠實な再現力を求めない。むしろ、見えないもの、アウラの創出に努める。
見えないものを見えるやうに見せる、その意味ありげな營爲こそが藝術といふ事の普遍的な意義だと私は思ふ。



一枚の寫眞からは個性は(作意があらはでなければ)見出せない。同じやうな条件が揃へば同じように撮影できるのがカメラなのだから。
二枚になると撮影者の個性が見えてくる。枚數が増せば増すほど、個性は明確になつていく。
何が云ひたいかといへば、
たとへば、他人の寫眞を私が選ぶ時、それらの寫眞はむしろ私の個性を示す事になるだらう。
映画表現の個性と才能がフィルムの「編集」作業にもっとも現れるやうに、寫眞の才能とは撮影とともに撰擇する能力であり、むしろ撰擇のはうに重要性があるのではないか。

 

2008年2月28日木曜日

WW:思想の花束:

 
たゞ返々、初心忘るべからず。世阿彌

望みを持ちませう。でも、望みは多すぎてはいけません。モウツァルト

人は自分の運命を非難して、責任轉化しようとする。つまり、いつでも運命の女神がいけない事になる。ラフォンテイヌ『寓話』

樂天主義者とは、あらゆる場面で青信号しか見えない人。悲觀主義者は、赤信号。だが、ほんたうに賢明な人は色盲だ。シュヴァイツァー

愉しむ力があるのにその機會に惠まれないのが人生の前半で、後半はその機會に惠まれながら愉しむ力を失ってゐる。トウェイン

ゴルフは體力よりも、主として「耳と耳との間のもの」によってプレイされるゲイムである。bジョウンズ

心の鍛錬、これに盡きると私は思ふ。技術を錬磨する事より心の内奥に深く問ひ續ける事が大切なのだ。中部銀治郎



南海之帝為儵,北海之帝為忽,中央之帝為渾沌。儵與忽時相與遇於渾沌之地,渾沌待之甚善。儵與忽謀報渾沌之德,曰:「人皆有七竅以視聽食息,此獨無有,嘗試鑿之。」日鑿一竅,七日而渾沌死。『荘子』應帝王 第七

莊子釣於濮水。楚王使大夫二人往先焉,曰:「願以竟内累矣!」莊子持竿不顧,曰:「吾聞楚有神龜,死已三千歳矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者,寧其死為留骨而貴乎?寧其生而曳尾於塗中乎?」二大夫曰:「寧生而曳尾塗中。」莊子曰:「往矣!吾將曳尾於塗中。」 『莊子』秋水 第十七



 

2008年2月27日水曜日

比喩と揶揄:ニッポン晩歌:迷走自衛隊の事

イージス艦「あたご」と漁船の衝突事故、その後の迷走

現在防衛大臣と勤める石破といふ、チョビ髭を落書すると史上最凶とされる獨裁者にそっくりとなる顏附き(対照写真、省略)、そして、わざとらしいその訥々(と云へば褒め言葉になるやうだから) ボクボクとしてネチネチとした喋り口(普段は母親にでも教へられたやうなわざとらしい間と見榮を持たせた話ぶりだが少し慌ててくるとコマッタちゃんまるだしの早口になる)の迷走する弁解を聞いてゐると、私などは生理的にイライラしてくる。

しかし、どうしてかうもモタモタ、グズグズした展開になるのか。
さっさと現場責任者を差しだして「切腹打首」といふのが武官の組織と対面といふものであらう。
現場責任者をひた隠しにし、事實もできるだけ隱し、ひたすら事件の終息を待つと云ふのでは信頼も何もあったものではない。
軍隊ではないと云ひ張って始めた自衛隊、平和憲法下の官僚機構に肩身の狭い部屋住みをするうち、(門前の小僧)おのづと周圍の知恵を習ひ覺えて、
官僚を眞似て官僚よりも官僚らしい立居振舞を身に付け、汚職収賄、情報は改竄・隱蔽するは、露顯すれば弁解これ勤めるだけのこの醜態。辻褄合はせようとしては却ってボロを出し、そのシリ拭ひは「上意下達」、責任逃れのこんな組織に國家國民がはたして守れるのか。むしろ、こんなあやふやな組織に頼ってゐては、かへって危うさを倍加させる事になってしまふのではないか、と危惧と懸念ばかりとなってしまふ。あればあったで邪魔になるくらゐならまだしも、それが足手まといの原因で立往生となつてはたまらない。

やっぱり、軍隊といふ組織は時には戰爭させてやらないと(タダメシ食らってユルフン)自堕落になつてしまふ組織なのだろうとさへ思はれてくる。まして、一度も本氣で緊迫緊張した現場經驗のないこの國の軍隊ならぬ自衛隊など、素人に毛の生えた同好会程度と思ってゐたはうがいいのかも知れぬ。いざとなった時、一番恐いのは背後から闇雲に飛んでくる鉄砲玉だ。

こんな組織に自衛してもらふくらゐなら、平和憲法を信心してゐたはうがよほど心強いだらう。
彼等のこのところの一連のテイタラクを見てゐると、そんな笑ひ話が眞劍に心配されてくるのは私だけだらうか。

モノノフもサムラヒもゐず、草莽に大和心は根絶やしとなり

あゝこんな日本が情けない。

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2008年2月24日日曜日

比喩と揶揄:キレイキタナイ:平城遷都1300年記念事業

 
このキモイ ツノ鹿小僧に五百萬、片てのひらに千三百萬



現在、この五百萬圓也の「鹿+佛」君の愛称を「金五萬圓」で公募中
平城遷都1300年祭マスコットキャラクターの愛称を募集!

検索してみたら、こんなのも(こっちのはうがモノスゴイか)昔作ってゐたんだね。


これから、千三百年事業が終るまでの期間、古都奈良のあらゆる場所でこの安直コラアジュの「Nara小僧」と顏を合はせる事になるのかとおもふとウンザリ、なんだかヤリキレナイおもひになつてくる。

尤も、当局は自畫自贊(まさにこんなのを云ふ)して曰く
交流と創造の舞台として、間もなく1300年の時を刻もうとしている平城の都・奈良。「平城遷都1300年祭」のマスコットキャラクターは、この地で育まれたエネルギーの化身として現代に姿を現しました。その様相は、奈良の守り神として多くの人々に親しまれている鹿の角をたくわえた愛嬌のある童子のようないでたちです。悠久の歴史の中で奈良の地を守り育ててきた仁王さまや阿修羅、十二神将、四天王などの使命を受け継ぎ、現代と未来を結ぶ新しいキャラクターの誕生です。これからは、来るべき2010年の祝祭に向けて私たちとともに暮らし、まちのあちらこちらに出没して、訪れる人々を古都のさまざまな魅力に誘うとともに、みんなで手を携えて奈良の新たな歴史を築いていく役割を担います。
だとさ。
鹿の角に愛嬌感じるかね。あれはオスの武器だらう。性的なシンボルだらう、むしろ。小僧さんには最も似つかはしくない代物の一つだろう。

平城遷都千三百年記念の事業と云へば、百年に一度の國家的事業であるはずだ。
それをこんなふざけたママゴトで衆知させていかなければならぬこの現代の日本人とは、と「しか」め面になつてしまふ。頭には角が生えてゐるかも知れぬ。
まあしかし、そんな時代なのだらう。日本中どこもかしこもマンガアニメめいたキャラばかりの亂立、横行闊歩、成人式にミッキイマウス、大の男が人形集め、現代日本人の精神の頽落ぶりを如實に示して、もう何を云ってもムダ、今更ながら亡國の相きはまれりと思ふしかない。

私は私なりに、平城遷都一千三百年、日本建國一千四百年(聖徳太子の時から數へて)を意識しつつ、亡國日本の樣を目の當たりにしながら「見るべき程の事をば見つ」とうそぶいて、言ひたい事口はばったく、はばたいて白鳥の悲鳴遺しておさらばしよう。

口からでまかせにでた「Nara小僧」、平凡だけど、意外とこんなキャラを採用した当局の趣味にちょうど合ってゐるかも知れない。
應募してみようかな ――


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2008年2月23日土曜日

比喩と揶揄:キレイキタナイ:飛鳥公園不正談合事件

 
官人による不祥事、醜聞が引きも切らない。日本誕生の地、飛鳥を舞臺にした不正談合事件が摘發された。
記事スクラップ

飛鳥歴史公園とは今回の事件となつた甘樫丘をはじめ、高松塚や石舞台、キトラ古墳などの古墳周辺5地区からなるさうだ。

この甘樫丘に立って私は悲壯なる氣分に浸り、さかんに日本といふ國家の歴史と將來におもひを致していい氣になつてゐたのであったが、その足元では官民による談合不正がおこなはれてゐたといふわけだ。私としてもなんだか冷水を浴びせられたやうで、この事件には親身に腹を立てた。

まあ、近頃の大きな金額の不正に狎れた感覺では、あはれなほどの少額で、どうしてこのくらゐのカネ欲しさに一生を棒に振るかなと思はれるのだが、そこが日本人のかなしさ、談合しないとなんだか氣持が落着かぬのだらう。工事あるところすべて談合不正ありの感。日本人で惡い事のできる立場のヤカラはすべてなんらか惡行に手を出してゐるやうにも思はれてくる。隣で甘い蜜を吸われてはガマンできなくなるのは分らなくもない。
談合しかり、裏金しかり、この手の手法は日本全國津々浦々まで知渡り、行渡ってゐるであらう。

かういふ毒の囘りきった精神體質の公務員を抱へては、日本の前途は危ういうへにも危うい事となる。


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2008年2月22日金曜日

WW:けふのことのは、あすのわくらば

 
アトランダム、備忘

# 蒲柳の質(晋書顧愷之伝によれば弱い体質のこと。「蒲柳」とはカワヤナギの異称で、秋になると他の樹木に先駆けて葉が落ちてしまうことから言う)

# スタグフレーションはスタグネーション(不況)+インフレーション。

# 「技術的にすごいと感じるところはひとつもない。われわれならもっと安く作れる」。あからさまに嫉妬にとらわれて不平を言う技術者ほど笑えるものはない。

# ギアマン[蘭語でダイアモンドの事]{「金剛」も金剛石、ダイアモンドの事。


# 阿Q的勝利法 {勝利し續けるためには阿Q的でなければなるまい。精神力とはまあさういつた類のものだらう。自己欺瞞の最たるものだが、使ひ道はある。人生は自己欺瞞なしではやってゐられない。孫文的(負けながら大きくなつていく)勝利法もこれに通ずる?

# ファウスト的勝利法=「時よ止まれ、汝はうつくしい。わが地上の日々の事績は永遠に滅びることはない。さう豫感できる幸福感で私は今最高の瞬間を味あふのだ」 {自己滿足。阿Qに大差なし。悟りとは諦めのことであるのかも知れぬ。

# ドンキホウテ的勝利法 {負けたと云はぬかぎりは負けたのではない、とか。

あゝむなしいかぎり。むしろ、何もしない事、傍觀をもつてわが鬪爭とする。神の態度と云ふべきか。拈下微笑、呵々大笑

 

2008年2月20日水曜日

思考と空想:なんとなくアメリカについて

my p(hoto)Log 【やまとまほろば:飛鳥&寧樂:一日と永遠】に記事を付けるために、七年前の日録に目を通してゐる。
時事は殆ど記載しないのが私の常でるが、この年の秋におこった大事件、ニュウヨウクのTradeCenterBuildingへのハイジャックによるアタック、私にはポリティカルな事件といふより、ワアルドワイドに經濟といふ世界語を驅使するビジネスライクな人類たちの「バベルの塔」への鐵槌といふアポカリスティックな印象が強い事件の衝撃は強く、その後も

アメリカの「戰爭」は、或種の使命感によつて本格的の仕掛けられた、大統領が口にしたごとく「イスラムにたいする十字軍」を意識したものである。
イスラムと云ふ後進の、いまだに唯一神を絶對的に信奉する、それゆゑ「ブルウタルでヴァイタル」な精神世界に不安と恐怖を抱いてゐる。かつての黒人にたいするのと同じやうな不安と恐怖が働いて、イスラムを去勢するか撲滅してしまひたいといふ本能なり願望なりが事有る毎に發動すると云はなければなるまい。
いまだにパクスアメリカナに屈服しないのはイスラムだけである。そして、このイスラムだけが強い神を戴いてゐる。それが恐いのだ。
いつかはやられてしまふといふ豫感がそこにはある。
アメリカは勝ちながら負けていくだらう。

などと書付けてゐる。
好戦的な大統領が仕掛けては、次の時代がその尻拭ひといふやうな愚劣な事ばかり、繰り返してゐるやうに思はれる。
民主主義といふ或意味一貫性のない政治體制は、イスラムの神やら北朝鮮の獨裁者やらに對する時、讓歩的になつたり強硬になつたり一貫性に欠けてしまふ事になる。

アメリカは今、みづから悲劇の道を選擇してゐるやうに思はれてならない。
女を選ぶにしろ黒人を選ぶにしろ、どちらにしろ今までのアメリカにとつてはアイデンティティを冒すやうな事とならう。
ホワイト對ブラックの支配權鬪爭がラテンの陽氣なリズムのなかで演じられる事になるのではないか。


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2008年2月19日火曜日

比喩と揶揄:『狂牛病』

 
{旧作披露

『狂牛病』

家畜の第一として人間の生活に付き合ひ、穏和の定評を與へられ、襃め稱へられてきた牛、
名實ともに狂氣凶暴とは最も遠い、最も結びつかない動物、
牛のやうになりたいと少なからぬ人におもはせた動物、
その牛が狂つたのだ。

はじめて「きょうぎゅう」と聞いた時、恐牛と私は漢字をあてた。
スペインやイタリアで無理矢理「恐牛」にされてゐるのを見て知つてゐたからである。
なんでもの靜かな生物をわざわざ恐怖にしあげて「なぶりもの」にするのを苦々しい思ひで見てゐたのである。
ところが狂牛、よくぞ命名したものである。

原因は草食の彼等に肉食をさせたため、と聞いて再び私は唖然となつた。
牛は狂ふべくして狂つた。同類の肉を食はされて、狂はないでゐられるか。
人でさへ人を食へば必ず狂つた。牛を食つた牛が狂はないはずはない。
私は至極納得した。牛よ狂へ。もう人の役に立つな。
今度狂ふのは、豚か鶏か。犬か猫か。人か。
人ならとつくに狂つてゐる。

ゴキブリがわらつてゐる


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2008年2月18日月曜日

比喩と揶揄:女體について

 
うつくしき 乳房のはりも、 腰尻も くづれゆくとき、女はいかに

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2008年2月17日日曜日

比喩と揶揄:祕歌「キレイキタナイ、ヂゴクゴクラク」披露

 
{旧作披露、苦心苦勞の一作であつた。日曜なので特別公開、

悲願なるM字開脚觀音開き、キレイキタナイ、極樂地獄
念願の一首モノして目覺めたる、夢見の迹のあはれなるかな


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2008年2月16日土曜日

WW:『易と曼荼羅』:十一面觀音について

 
十一面觀音菩薩とは{神佛習合的觀點から

十一面觀音菩薩はサンスクリット語で、「エーカーダシャムカ」(十一の顔を持つもの)という。十一面觀音はインドで誕生し、我が國でも多面多臂の觀音として最も古いものである。玄奘はインドへ赴き、十一面觀音に關する經のひとつを漢譯し、十一面神呪心經 (唐 656年)を現している。それによると 十一面觀音像は以下のやうに定義される。
「左手は紅蓮華を挿した水瓶を持ち、右臂を伸ばして數珠を掛け、施無畏印を結ぶ。頭は前の三面を慈悲相に、左邊の三面を瞋怒相に、右邊の三面を白牙上出相に、後ろの一面を暴惡大笑相に、頂上に佛面を作る。各面の冠に佛身を作る。菩薩の身體には瓔珞など種種の莊嚴を具える。」和譯(日本の美術 4「 十一面觀音像・千手觀音像」から引用)

日本に、由緒ある十一面觀音は二百二十體ほどあり、そのうち國寶に指定されてゐるものが七體ださうだが、
室生寺の十一面觀音、長谷寺のもの、そして當麻寺
# 二上山當麻寺 本堂(曼荼羅堂)には、中將姫像や阿彌陀如來像、十一面觀音像が安置されています。本尊、十一面觀音。

現在聖林寺にある十一面觀音は元は三輪神社の神宮寺にあつた。三輪神社はほぼ「太陽の道」上に位置してゐる。つまり、この神宮寺も室生寺長谷寺當麻寺と同じく「太陽の道」上に位置してゐた事になる。
{天照大神との關係
# 飛鳥時代に生まれたこの觀音は、明治維新の神佛分離令で三輪山の麓(今の若宮神社)にあつた神宮寺から追われた。「捨てられていたというのは俗説、實際には人々の手で脇侍や立像と三體一緒にこの寺に運ばれ避難してきたのです」と倉本弘玄住職は話してくれた。 白洲正子『十一面觀音』

日本で、十一面觀音の造像が始まつたのは何時か、

じじつ
こじつけ
ひみつ



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2008年2月14日木曜日

比喩と揶揄:MySelfInterView




2008年2月13日水曜日

思考と空想:夢

 

 高い金を出して參加した講座に歩いて行ってゐる途中、忘れ物?を思ひ出し、(十時四五分の講座開始に遲刻する事になり)どうしやうかと迷つたが、自宅に引き返す。なんだか遲刻の事ばかり考へて、自宅へ戻つて、忘れ物の事を忘れて、家を出ようとする。その時、ふと氣附いて、講座開始時刻は十時丁度ではなかつたのか、と確かめるとその通り。二時間の授業だから、もう間に合わない。今日休んだらずつと休んでしまふやうな氣がして、會場に行く。講座は廣い圖書館の一角を使つて行はれてゐて、既に講座は終つた後の質疑應答?に、長椅子を滑るやうにして潛り込む。潛り込んでしまふといい氣なもので、「叙述スタイルについて」の應答に、野次るやうに「他にも違つたスタイルはあるだらう、例へば倒敍法」と云ふと、「倒敍法?」と誰かが應じたのに「刑事コロンボ」と即答してやる。


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2008年2月12日火曜日

硝子玉演戲:「胴体のブツ切り、全体がヘビ」、憂鬱な希望としてのインターネット

 
インターネットといふメディアは「胴体のブツ切り、全体がヘビ」といふ形式での表現にまことに都合がよい。私は誰よりもまづ私自身にたいして表現を試みるのだから、完成のかたちには拘らない。全体の構想と、その部分の造形の檢討にある程度の見當が付けられれば、私人の用は果せる。
造形は煉瓦を積んでいくやうな(私には氣が遠くなるやうな)作業であり、全体の構想が遠大である場合、完成まではどのくらゐの時間がかかるか分らないし、そもそも完成できるかどうかも分らない。できたところから、また、肝心な部分から、公開して、全体を想像してもらふ。「片鱗」といふ語も東洋には昔からある。
私の戰略と戰術はかうしたものであつた。

私としても(生來が怠け者だから)餘計な苦勞はしたくないし、また生來の「象徴」主義者でもあるから、部分によつて全体を象徴させ、かつ創造的に受手の想像力に任せる、といふのは自分の邪惡なほどの賢明さを自覺させてくれるほどの名案と思はれたのであつた。
私が建設しようとしてゐる建物は、地上の樓閣ではない。空中の寶塔だ。それを見上げて、『農民藝術論』の宮澤賢治が云ふ「銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱」とを感じとり「風とゆききし 雲からエネルギーを」とるための、硝子玉演戲者のための拠点として。

すでに今更、精神の建て直しなどしてみても、この炎上そして灰燼の始まった世界にどれほどの效果もあるまいが、
かの剛直なる宗教改革者、martinルターは「世界が明日終るとしても、それでも私は林檎の木を植ゑる」と云ってゐる。
誕生したばかりのインターネットは未來への希望、パンドラの匣に最後に殘ってゐた「希望」のやうに思はれたものであつたが、実用となるにつれと案の定、現實の世界以上に露骨で、過酷で邪惡なもう一つの現實世界、地上以上の現實世界へとなつてしまつた。人の手が、多くのビジネスライクなミダス王の手が地球を手玉に取り、あの『獨裁者』のチャプリンのやうに風船玉にして玩んで、それがガラス玉のやうに割れやすく壞れやすい事など思ひもしない。

宇宙船地球号、まことにもつて危急船氣球号、
鬱憂船痴愚号


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2008年2月11日月曜日

比喩と揶揄:「龍馬出てこい、出てくるものか」

 
旧作(『東からの知らせ』から)披露

「龍馬出てこい。出てくるもんか。志とは、士の心と書くのだよ。知育偏重偏差値教育、こんな教育現場からは、龍馬はもとより勝さん西郷どん、榎本武揚から福澤諭吉にいたるまで、いかなる士心大志も現われてこない。少年よ大志を抱けと焚きつけながら、神童秀才ワルガキ大將、一人残らずことごとく、人生平凡「しあわせ」行きの貨車に押し込めレイルに乗せて、学歴社会の科挙制度、末は博士か大臣か(ちょっと古いですか)、官僚弁護士お医者さん、ホワイトカラアの我が子の姿、夢に描いて無理算段、尻を叩いて頭を撫でて、なせばなるなさねばならぬ何事も、やればできるのがんばろう、朝から晩まで勉強勉強、ホタルノヒカリマドノユキ、苛酷熾烈な受験戦争競争地獄、ホフク前進一兵卒、気持は滅入り心は朽ちて、長距離レイス終ってみれば、へとへとくたくたバアンアウト、ただでさへ二十歳過ぎればタダの人をよってたかって洗脳去勢、マザコン・ファミコン・ポップコンのオタク坊やに作っておいて、なにが龍馬だ晉作だ。」


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2008年2月10日日曜日

硝子玉演戲:九字マンダラ:天人地思想

宇宙船地球号
鬱憂船痴愚号


天人地の思想
人は天地のあひだに如何にあるべきか
感じ、思ひ、考へよ



多くの口と目、多くの腕と足、多くの胸と腹、多くの歯を恐ろしげに剥きだす巨大な汝の姿を眺める時、世界と私は震え戦く。
大きく口を開き、大きく目を開いて、さまざまな色に光かがやいて、天に手を触れている汝の姿を見る時、私の魂は震え戦く。
『バガバッドギーター』(インドの古典)



人類の現在はこのやうな状況にある




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2008年2月9日土曜日

AA:一日と永遠:雪

奈良は朝から雪が降りつづいてゐる。關西には大雪、風があればさぞかし吹雪だらうが風はない。しづかに、しんしんと降ってくる。
窗邊に立って降る雪を眺めてゐると、「降る雪や、明治は遠くなりにけり」といふ中村草田男の名句が呟かれた。明治大正どころか、昭和の時代もはるかに遠い、日本も遠い。そんな感じの國になつてしまつた。なにかしら、さういふ思ひをさせる、古都に降る雪。

芭蕉の句で「いざ行かん雪見にころぶ處まで」と思ひながら雪のやむの待つうち、暗くなってしまった。
暗くなつてはしやうがない。さて、雪月花、いづれもわが酒の友、

來しかたを雪にもの思ふひとり酒

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2008年2月8日金曜日

WW:pValery『覺書と余談』 讀み返す事

 
読み返す事、忘れた後で読み直す事。自分との血縁を認めずに、自分を読み直す事。冷淡さと批評的鋭敏さで、嘲笑と軽蔑を浴びせようとする恐ろしいほどの期 待感で ‥‥ それは自分の仕事をまったく違ったふうにやり直す事、もしくはやり直すだろうと予感する事。やり直す労苦に値するだけの仕事。


病は氣から「やまひはきから」病は力

2008年2月6日水曜日

WW:勝海舟と福澤諭吉:「亂世草莽、英傑をいだす」

 
勝海舟192399曰く「やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。」
{そうだね、そのとほりだ。この人も一身を(江戸から明治維新といふ大變革の)二世に生きて、云はば無血の革命を演出して日本を救ひ、「爲して居らず」の精神、そのみごとな出處進退ぶり、あざやかな「硝子玉演戲」であつた。
咸臨丸で一緒に太平洋を航海して、勝の事を嫌惡するやうになつた福澤諭吉183501は、明治時代になつて勝が明治政府から爵位を受けたりして、二君に仕へるやうな「變節」を『痩我慢の説』で露骨に批判したが、



勝はすずしげに、
自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどの者でもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ないとして、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分は預かり知らぬことと考えています。) Wikipediaより引用
と應へて、體をかはした。信条の「獨立自尊」を戒名にまで用ゐた諭吉の硬骨漢ぶりも私は嫌ひではない。

亂世草莽、英傑をいだす。
{でも、その草莽[くさむら]がなくなつた。どこもかしこも全國均一の公園と化して。


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2008年2月5日火曜日

WA:時事隨想:「人造牛肉」→スヰフト→魯迅→中國→世界の炎上滅亡

 
「人造牛肉」なるものが出囘ってゐるさうだ。
またしても、イカサマ加工食品の摘發のニュウスであったが、私はその字面を見て、一瞬「つひに人の肉まで食ふやうになったか」と背筋に惡寒が走った。
いづれは、人は(かの『ガリヴァ旅行記』の作者である辛辣家のスヰフトが想像してみせたとほりに)人の肉を食ふやうになるであらうと(文學者を氣取って想像もするし)、すでに知らず知らずのうちに食ってゐるのかも知れぬ(と想像を逞しくもしてみる)。最近の食物騷動に接してゐると、想像はどうしてもそこまで行ってしまふのである。

魯迅はその短篇、『狂人日記』で、中國人は人肉を食ってゐるといふ「妄想」にとらはれた狂人の話を書いてゐる。そこまで思ひだしたら、騷動前に食った中國製(安價だつたからさうだらうと思ふ)のギョーザを吐きだしたくなつたが、しかし、これは(魯迅と中國の名譽のためにも云ってをくが)金持の搾取と贅澤を人肉食にたとへたもので、云はば(魯迅の當時の)眠れる中國萬民を目覺めさせるべくかういふ衝撃的な話に仕立てたのである。
さうした魯迅の獻身もあつて中國は目覺めていき、その後奇怪とも思はれる足取りでその巨體を運び、今や世界有数の経済大國へと急成長してゐる。
古來より中國は(中國もと云ふべきか)君子の國であると同時に小人の國でもあつた。中國の歴史に名を殘す文化人(その大半は政治家であつたが)は小人どもに挫折させられてゐる。『史記』ははやくも、英雄や賢臣の傳記とともに貨殖や奸佞なる者の傳記も作ってゐるのである。

十二億?の人口の中國といふ龍が世界を席巻して、その目覺めたばかりのその壯んなる欲望と行動とによつて、世界の歴史は中國に始まって中國に終る事になりさうな氣配を私は感ずる。だからと云って、それはこの世界の歴史のおのづから赴くところ、誰にも押しとどめる事はできない。
みんな、物の豐かさを體驗し幸福を實感して、それで世界が炎上消盡するのならば、それも致し方ないであらう。地球は人類といふ癌細胞に冒されたとでも諦めるしかあるまい。
自分の繁榮がすなはち自分の破滅となるといふ癌細胞の存在矛盾を嘲笑しつゝ。


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2008年2月4日月曜日

WW:『徒然草』第六段、聖徳太子「子孫あらせじ」

 
昨今の世界状況に、その炎上ぶりに未來に思ひをいたすうちに、ふと兼好法師の『徒然草』の文章をおもひだしてゐた ――
わが身のやんごとなからんにも、まして數ならざらんにも、子といふものなくてありなむ。先の中書王、九條のおほきおとど、花園の左大臣、皆、族絶えん事を願ひたまへり。染殿大臣も「子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれたまへるは惡き事なり」とぞ、世繼の翁の物語にいへる。聖徳太子の、御墓をかねて築かせたまひける時も「ここをきれ、かしこを斷て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。『徒然草』第六段

よくぞ未來なきが如きこんな時代に子供が生めるものだと私などは思つてしまふ。すでに世界は地獄と化してゐるだらうに。兼好の時代もさうであつたのだらうか。天皇が南北に分れて、京都と吉野とに對立してゐた國難の時代、未來はなきが如くに思はれたのであらうか。

それにしても聖徳太子が「子孫あらせじ」と云ったとする話はどこから出てきたのであらうか。
『日本書紀』には無論、そんな記事はないし、もう一つの原典的資料である『上宮聖徳法王帝説』にもない。たゞ、『上宮聖徳法王帝説』にある「世間虚假、唯佛是眞」のうちの「世間は虚仮なり」と、彼の子孫、嫡男の山背大兄王が蘇我入鹿(および王族一同)に一族諸共亡ぼされた史實とが結びついて、「子孫あらせじ」の傳説となつたのであらうか、と調べもせずに思ってゐる。
飛鳥の京から遠く離れた斑鳩に隱棲する山背大兄王を粛清する必要は殊更になかつた。邪魔と云へば邪魔な存在であつたらうが、すでに出家佛道に近い生き方を選んでゐる孤獨な存在である。ほとんど無辜の血祭に等しい暴擧であつた。その罪障感がわが國特有の怨靈(鎭魂)思想となつて、『日本書紀』で聖徳太子を創作させたのではないかと私は思ってゐる。日本といふ國家を創成した者、天皇家にせよ有力氏族にせよその祖先が山背大兄王殺しに關係してゐたのだから。
日本人は昔から、邪魔者は消して、その祟りに惱まされ、怨靈を神に祀つて御靈とする、といふきはめて生者に都合のよい信仰思想を持ってゐたのである。

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2008年2月3日日曜日

  





2008年2月2日土曜日

比喩と揶揄:ニッポン晩歌:

{制作中

もはや
よろしき時代は過ぎてしまつたのだ
ふくよかにもの優しくおとなしげなる
飽食と好色との美くしきヒツジどもよ
 希望を抱きつづけるといふ罰を受け、
 あきらめ顏にて下りゆく道を歩き行く
 ←Baudelaire "Spleen de Paris"
よわり目たたり目、踏んだり蹴つたり
水に落ちたイヌであることもおもはず
うしなはれた十年を二十年に引き延し
魂拔かれて、おもふは命ばかりとなり
三十年でも四十年でも覺めやらぬ夢に
懷のカネなくなるまでに現をぬかして

榮枯盛衰、諸行は無常。因果はめぐる「火の車」
禍福はあざなはれて、まだらのヘビのとぐろ卷き
自繩自縛の緊縛プレイ、龜甲模樣のエクスタシイ





2008年2月1日金曜日

WW :Baudelaire「胴体のブツ切り、全体が蛇」

Art of Heart {FICT 69 FACT} Word of World
「胴体のブツ切り、全体がヘビ」


Baudelaire Cube

Tout enfant, j'ai senti dans mon coeur deux sentiments contradictoires : l'horreur de la vie et l'extase de la vie.
(Mon coeur mis a` nu) Baudelaire
{人生にたいするわが矛盾する二つの感覺、恐怖と恍惚と。
{(若い大宰治が座右銘にしてゐた)「選ばれたる者の恍惚と不安、二つ我にあり」と云ったのはボウドレエルではなく、「巷に雨の降るごとく」のヴェルレエヌ。でも、剽窃に近い感じもするな


"LesFleurs du mal"
      'To the Reader'

Stupidity, delusion, selfishness and lust
torment our bodies and possess our minds,
and we sustain our affable remorse
the way a beggar nourishes his lice
Our sins are stubborn, our contrition lame;
we want our scruples to be worth our while-
how cheerfully we crawl back to the mire:
with few cheap tears washing our stains away!
Satan Trismegistus subtly rocks
our ravished spirits on his wicked bed
until the precious metal of our will
is leached out by this cunning alchemist:
the Devil's's hand directs our every move-
the things we loathed become the things we love:
day by day we drop though stinking shades
quite undeterred on our descent to Hell!
Like a poor profligate who sucks and bites
the withered breasts of some well-seasoned trull,
we snatch in passing at clandestine joys
and squeeze the oldest orange harder yet.
Wriggling in our brains like a million worms,
a demon demos holds its revels there,
and when we breathe, the Lethe in our lungs
trickles sighing on its secret course.
If rape and arson, poison and the knife
have not yet stitched their ludicrous designs
onto the banal buckram of our fates,
it is because our souls lack enterprise!
But here among the scorpions and the hounds,
the jackals, apes and vultures, snakes and wolves,
monsters that howl and growl and squeal and crawl,
in all the squalid zoo of vices,
one is even uglier and fouler than the rest,
althoug the least flamboyant of the lot;
this beast would gladly undermine the earth.