2008年1月31日木曜日

時事速報:ポータルサイト「あらたにす」始動

今日の一面「あらたにす」、朝日・日経・読売の共同ポータル始動



いつたいどういふつもりなんだらう。毛色もちがふ奴等が、くるしまぎれに、
毛利元就に習って「一本の矢は折れても三本になると折れぬ」とでも思ったのかね、
三人の内、少しにても欠け隔て候はば、たゞ三人御滅亡と思召さるべく候

だがね、ほんたうのところは
―― ある時、元就は三人の息子の隆元、元春、隆景を呼び出し、矢を一本与えてこれを折ってみよと命じた。息子達が難なくこれを折ると元就は今度は三本の矢を与えて折ってみよと命じた。一本の矢は脆くとも三本合わさればそう簡単には折れない、という教訓を息子達に与えようと思っていたのだが、猛将である次男吉川元春は力ずくで三本の矢を纏めて折ってしまい、知将である三男小早川隆景は『一本ずつ折れば例え三本でも造作も無い事』と言って一本ずつ矢を折ってしまった。一気に場の空気は白けてしまったが空気の読める人だった長男隆元はその気まずい雰囲気を察すると渾身の力を振り絞っても三本の矢を折ることが出来ない演技を見せ、元就を感心させた。元春も隆景もこれを境に、例え武勇の誉れ高く知恵者であっても、空気が読めなければ生き残れないという事を学んだ。
(これは私の説ではないです。Wikipediaでもないです。それをパロッたパロディサイト、検索で偶然見付けた。なかなか上出來。

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2008年1月30日水曜日

比喩と揶揄:ニッポン晩歌:

―― 希望を抱きつづけるといふ罰を受けた者たち、あきらめた表情で下り坂の道を歩いていく ‥‥  cBaudelaire "Spleen deParis"

一月三十日夕刻、JTの緊急記者会見で、中国から輸入のレトルト加工食品に農薬が混入してゐた事實を公表。その後、JTのみならず、日本の大手食品メーカーも次々と該当商品を公表する。
國會は、ガソリン特別措置法の扱ひを巡って、「つなぎ」なる自民黨の姑息的な延長法が衆參兩議長の斡旋で取下げられ、急轉直下の和解、決着を先送り、混迷をさらに續けていくかたちで小康状態となる。「大山鳴動」鼠一匹も出ず。いつもながらの先送り。どうなる事やら「ヂゴクゴクラク」

弱り目に祟り目、一難いまだ去らぬと云ふにまた一難、そして二難三難、陸續として難問難題が襲來してくる。
さながら水に落ちた犬に石をぶつけるやうに。
(途中

2008年1月29日火曜日

比喩と揶揄:むらさきづくし:WhoAmI?

 

  • 植物ムラサキの根(紫根)を染料にしたことが紫の名の由来。栽培が困難だったため珍重され、古代中国、ローマ帝国、律令時代の日本などでは、紫は高位を表す色とされた。一般に、紫は「優雅」や「高貴」を表す事が多い。{まあな、精神の貴族(貴族の精神じゃないぞ。今時、貴族の精神のはうは俗惡も俗惡、女性週刊誌と同じくらゐ俗惡。「精神の貴族」イコウル硝子玉演戲者{でも、ホントは紫は好きな色ではない。紫も紺がかれば(ナス紺)大好きだけど。
  • 京都市では、都市のイメージ色として紫が用いられている。例として、京都市営バスの方向幕は、下地の色が紫となっている。{勝手に使ふな。たかだか三番目か四番目の京のくせに。蘇芳くらゐでガマンしてろ。

  • 同性愛者の国際的なシンボルカラーは紫である。{勝手に使ふな。私は同性愛じゃないからな。女も好きじゃないが、男はもっと好きじゃない。事實、私はずつと獨身者、それも絶對孤獨の獨身者であつたのだから
  • 俗に「紫」の字を分解すると「此」と「糸」になるところから、「此の糸」と呼ばれることがある。又、これは紫式部を指す語でもある。{知らなかった。パスワアド作る時の參考としよう。
  • 紫ババア;学校のトイレに現れる老婆の妖怪で、全身紫色の着物を着ている。襲われた者は金縛りにあったり、心臓を抜き取られたりする。「ムラサキムラサキムラサキ」と三回続けて唱えると退散すると言われる。{オレじゃないからな。それにしても、なんといふ惡趣味、今のガキどもはなんたる色彩感覚とネイミング能力、こんなところにも國語力の低下が如實に示されてゐる。それに歴史を學習しろ。かかなくていい恥はかくな。

  • 紫香樂宮 {今、聖武天皇の天平時代を「調理」してゐるところなので、話したくない。ので、スルウ
  • 紫微中臺 {上に同じ
  • 紫式部{わが好敵手と云ふか、私は彼女が作ったとされる『源氏物語』がわが國日本文學の最高傑作といふ評價が揺るぎない事がガマンならなかったのだった。『源氏物語』の主人公、光源氏およびその周圍の男性は日本男子=男性を代表もしてゐなければ象徴もしてゐないと斷定して憚らぬ私は、女が書いた物語を凌駕するするには、それを凌駕する作品を作ってみせるしかないと(作品の構想はできあがってゐたので自信たっぷり)挑戰へと打って出たのであつた。時節到來と云ふか好機到來、奇しくも今年は『源氏物語』が完成?して一千年目と云ふ事で、ま、順風滿帆と云ったところだ。ところで、『論語』の孔子に「朱を奪ふもの」として紫色を蔑視した發言があつたと思ふが、ま、たいした事ではないが。{カネにもならぬ駄文などに冗漫してると、おのれどバルザックに鳧を入れられるぞ。

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2008年1月27日日曜日

世界の言葉: 『萬葉集』 大伴卿讃酒歌

 
現代の醜聞に付合ってゐたら、なんだか氣が荒れてきたやうだ。
荒魂になるのは一向かまはないが、こんな相手は御免こうむる(またすぐやるけどね)。口直しになにか、腹も減ったし、寿司でもつまみたいところだが、しばらく「寿司」は鬼門、スキヤキでもつつきながら、辛口の酒に乘って古代へと歸っていかうか。
スキヤキは空想で食って、旅人(大伴旅人のことです)の「酒の歌」でも肴にして、冷酒噛みしめ大寒中をしのぐとするか。
旅人も千三百年ほど前に、この平城京の佐保の地に住んで、濁酒に鬱憂を紛らはしてゐたと思へば、醉つた彼の呟きのやうな歌が身近になる。

 大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
驗なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし
酒の名を聖と負ほせしいにしへの大き聖の言の宣しさ
いにしへの七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし
賢しみと物言ふよりは酒飲みて醉ひ泣きするしまさりたるらし
言はむすべ爲むすべ知らず極まりて貴きものは酒にしあるらし
なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ
あな醜く賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
價なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも
夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るにあにしかめやも
世間の遊びの道に樂しきは醉ひ泣きするにあるべくあるらし
この世にし樂しくあらば來む世には虫に鳥にも吾はなりなむ
生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は樂しくをあらな
默居りて賢しらするは酒飲みて醉ひ泣きするになほしかずけり

さかしらすつもりはなけれど ひとり酒 もだをりゆくは、きみをおもひて 

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2008年1月26日土曜日

比喩と揶揄:ニッポン晩歌:狂歌的に、追加

 
追加、

|アメリカも日本の國の指導者も、よく見ざるとも「サルにかも似る」

戲事にうち興じてゐるうち、去年の夏頃、同じやうに興じて作った落首を思ひだした。
あまりに見事な發見にまるでナゾでも解いたやうな、EdgarAllanPoeの名探偵、AugusteDupin にでもなつたやうな氣分で愉快を覺えた事を。
 
仮に題して「マダム寿司のナゾ解き」

|うれしくてライスにこびり「マダム寿司」 たはむれことば 暴露となれり
|そのわけは、「マダム寿司」とは「マムシ」なり。一字とばしに讀んでみなはれ
|謎解きはいとも簡單「マダム寿司」一字とばしのアナグラムなり
|小池なる水面にうつる百合の花、その本身は蛇身なりけり
|あぶらぎる年増女の舌先の、毒々しさはまさしくマムシ
|氣を付けよ、絡みつかれて咬みつかれ、命落すな、マムシ女ぞ
|マムシ(or蛇身)なることを暴かれ、憤り、人を怨むな、自白(自爆)であれば


{謎解きに得意になつて「マムシマムシ」と惡口雜言、今年の夏は「蝮」が恐い(やまとまほろばの撮影に歩き囘るので)が、 ―― しかし蝮さん、言ひ譯になりますが、マムシとは動物としての蝮さん御自身の事を云ってゐるのでは決してなく、日本人があなたに咬まれる事が重なり(勿論、惡いのは人のはうなのです)、あなたの事を「猛毒」とか「凶惡」とかのタトヘ、比喩として使用してゐるつもり(ですからマムシとわざとカタカナで表記、と申せば今度は片假名さんが怒りだしそうですが)、その俗習にしたがつたまでで、私に殊更あなた樣に嫌惡感があつたわけではありませんので、どうか私にたいして惡意をおこさないでください。おねがひします。{もとはと云へば、あの毒女惡女のせゐで、なんでこのオレが平謝りしなければならぬのか! 畜生、かうなつたらオレもマムシになつて ‥‥


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2008年1月25日金曜日

比喩と揶揄:ニッポン晩歌:狂歌的に、日本人へ

 
{なぜだか、かなりアタマに來てゐるらしく、いくらでも(狂)歌ができる ――

|たましひもこころもなくし いのちだけ、後生大事にちぢこまりゆく
|年寄と女子供がゐるだけの國とはなりぬ「オダブツニッポン」
|疫病神あつめたごとし、大臣のツラ見て失望、絶望となる
|無益なるタワゴトばかり聲高となりてむなしきマスコミジャパン
|キチ兆も朝チウ龍もみな許す、やさしき國のもの忘れ人
|元凶は日本人そのもの、呆け惚け、欲ボケ色ボケ、善男善女
|日本人すべてを敵に囘したし、ほろぼされたる大和心で

  かへし(ちょっと眞面目になつて

|しきしまの大和の國はたそがれて、しづみゆく日にこころものもふ

|もののふの八十氏神よ、この國の存亡危急、神風となれ


ついでだから、「比喩と揶揄」とについて、

|わがうたは、獅子吼龍吟、比喩と揶揄、「キレイキタナイ、キタナイキレイ

|わが思想=思考と空想、垂流す、キレイキタナイ、キタナイキレイ



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やまとまほろば:飛鳥&寧樂:一日と永遠  


 

2008年1月24日木曜日

硝子玉演戲者:定義、西郷隆盛による

 
『南洲遺訓』より

21 道は天地自然の道なるゆゑ、講學の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は「毋意毋必毋固毋我」『論語』と云へり。総じて人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。よく古今の人物を見よ。事業を創起する人、其事大抵十に七八迄はよく成しえれども、残り二つを終る迄成し得る人の稀なるは、始はよく己を慎み事をも愛するゆゑ、功も立ち名も顯るる也。功立ち名顯るるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒愼の意弛み、驕矜の氣漸く長じ、その成し得たる事業をたのみ、苟も我が事を仕遂んとてまづき仕事に陥り、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己に克ちて、諸ず聞かざる所に戒愼するもの也。

24 道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛する也。

25 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を盡て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。

29 道を行ふ者は、固より困危に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに少しも関係せぬもの也。事には上手下手あり、物には出来る人出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むにも上手下手もなく、出来ざる人も無し。故にひたすら道を行ひ道を樂み、もし艱難に逢うて之を凌んとならば、いよいよ道を行ひ樂むべし。予、壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事にであふとも、動揺は致すまじ、それだけは仕合せ也。

30 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬ也。それとも、かようの人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付、『孟子』に「天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賎も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ひしは、今仰られし如きの人物にやと問ひしかば、如何にもその通り、道に立ちたる人ならでは、かの気象は出ぬ也。


2008年1月23日水曜日

硝子玉演戲者のための定式、試作


記号による図式的(思考と空想)   
(試作、わが硝子玉演戲として)   

思想   
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gifAnimeだが動かない、透明背景にもなってゐない、Bloggerのせゐ 

Art of Heart { FICT 69 FACT } Word of World
↓↑  
Art of Heart { 文學 69 歴史 } Word of World
↓↑  
Art of Heart { myStery 69 hisStory } Word of World
↓↑  
Art of Heart { 易 69 曼荼羅 } Word of World
↓↑  
Art of Heart { noWhere 69 nowHere } Word of World
↓↑  
Art of Heart { 金剛界 69 胎藏界 } Word of World
↓↑  
Art of Heart { 諸行無常 69 諸法實相 } Word of World

    

硝子玉演戲者のための、身心理論

Art of Heart { 金剛界 69 胎藏界 } Word of World
Art of Heart { 身 69 心 } Word of World
Art of Heart { 身 6(義()技)9 心 } Word of World
Art of Heart { 用 6 無 9 體 } Word of World

 

{感ずる人は感ずるであらう、分る人には分る(これはとんだ同語反復となったが、ともあれ、まづは記号が動き始めるほどまで凝視して、さういふかたちで瞑想に入り、感覺受容の境地となってみる事だ。種子曼荼羅の一應用

open Mystery / natural Ecstasy

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2008年1月22日火曜日

やまとまほろば:寧樂:080121 雪

 
徹夜して、明けると外は一面の銀世界となつてゐた。


温暖化の昨今、有難くもたっぷりした雪景色となつて、これで一年のうちに、春日山來迎圖「雪月花」三幅對 が撮影できた。こんな事が何よりも嬉しい。


ちなみに、こんな日もあつた。


やまとまほろば:飛鳥&寧樂:一日と永遠    
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2008年1月20日日曜日

硝子玉演戲:構想:理念、Pascal による

 
{自分用の集語と成語。暫くの間は、かういふ一人芝居の形で繼續させていくしかあるまい。長距離ランナーの孤獨

Blaise Pascal "Pensées"

Le cœur a ses raisons que la raison ne connaît pas.

"The heart has its reasons, of which reason knows nothing"

心情は(理性が何一つ知らぬ)それ自身の理性を持つてゐる。

{「本能は誤らない、理性が誤らせるのだ」と誰かが云ってゐたはずだが、小林秀雄だつたか、

{暗黙知、潜在意識、直感&直觀 阿頼耶識的、胎藏界的理性(非理性的、「世界」的な理性を超えた「宇宙」的理性




パスカルの死後、彼が一冊の本に纏めるべく書き遺した文章が編集されて『パンセ』と題して出版された。

その冒頭は、「幾何學的な精神」と「繊細な精神」(私が最初に讀んだ本ではさう譯してあった)との比較檢討から始まる。

   1. The difference between the mathematical and the intuitive mind.—In the
one, the principles are palpable, but removed from ordinary use; so that for
want of habit it is difficult to turn one's mind in that direction: but if
one turns it thither ever so little, one sees the principles fully, and one
must have a quite inaccurate mind who reasons wrongly from principles so
plain that it is almost impossible they should escape notice.

But in the intuitive mind the principles are found in common use and are
before the eyes of everybody. One has only to look, and no effort is
necessary; it is only a question of good eyesight, but it must be good, for
the principles are so subtle and so numerous that it is almost impossible
but that some escape notice. Now the omission of one principle leads to
error; thus one must have very clear sight to see all the principles and, in
the next place, an accurate mind not to draw false deductions from known
principles.

All mathematicians would then be intuitive if they had clear sight, for they
do not reason incorrectly from principles known to them; and intuitive minds
would be mathematical if they could turn their eyes to the principles of
mathematics to which they are unused.

The reason, therefore, that some intuitive minds are not mathematical is
that they cannot at all turn their attention to the principles of
mathematics. But the reason that mathematicians are not intuitive is that
they do not see what is before them, and that, accustomed to the exact and
plain principles of mathematics, and not reasoning till they have well
inspected and arranged their principles, they are lost in matters of
intuition where the principles do not allow of such arrangement. They are
scarcely seen; they are felt rather than seen; there is the greatest
difficulty in making them felt by those who do not of themselves perceive
them. These principles are so fine and so numerous that a very delicate and
very clear sense is needed to perceive them, and to judge rightly and justly
when they are perceived, without for the most part being able to demonstrate
them in order as in mathematics, because the principles are not known to us
in the same way, and because it would be an endless matter to undertake it.
We must see the matter at once, at one glance, and not by a process of
reasoning, at least to a certain degree. And thus it is rare that
mathematicians are intuitive and that men of intuition are mathematicians,
because mathematicians wish to treat matters of intuition mathematically and
make themselves ridiculous, wishing to begin with definitions and then with
axioms, which is not the way to proceed in this kind of reasoning. Not that
the mind does not do so, but it does it tacitly, naturally, and without
technical rules; for the expression of it is beyond all men, and only a few
can feel it.

Intuitive minds, on the contrary, being thus accustomed to judge at a single
glance, are so astonished when they are presented with propositions of which
they understand nothing, and the way to which is through definitions and
axioms so sterile, and which they are not accustomed to see thus in detail,
that they are repelled and disheartened.

But dull minds are never either intuitive or mathematical.

Mathematicians who are only mathematicians have exact minds, provided all
things are explained to them by means of definitions and axioms; otherwise
they are inaccurate and insufferable, for they are only right when the
principles are quite clear.

And men of intuition who are only intuitive cannot have the patience to
reach to first principles of things speculative and conceptual, which they
have never seen in the world and which are altogether out of the common.


パスカルはかうも言ってゐる。
君は賭けなければならぬ。撰ぶ事はできぬ。



2008年1月19日土曜日

硝子玉演戲:構想:理念、ニーチェによる

 
演戲=遊戯について、ニーチェの考察

> この遊戯をアイオーン(永劫の時)は自分を相手に戯れるのである。……… なぜそうなるのかということは、なぜ火が水や土になるのかということと同様、問題とされていない。ヘラクレイトスはそれどころか、この世界が最善最良の世界でさえあるということを証明しなければならない理由(ライプニッツが抱いていたような)を持っていなかった。世界は永遠なる時の美しく無邪気な戯れであるということで、彼には十分であったのだ。……… なぜ土は存在するのか、なぜ水は存在するのか、この問いはヘラクレイトスにとって、なぜ人間というものがこれほどにも愚昧劣悪であるかを問うよりも、遥かに真剣な問いであった。最高の人間にも最も馬鹿げた人間にも、現われて来るのは同じ内在性と正義であろう。しかしもしもヘラクレイトスに向かって、なぜ火は必ずしも火ではないのか、なぜ火はあるときは水であったり、あるときは土であったりするのか、という質問を突き付けようとしたならば、彼は結局はただ、「それは一つの遊戯である。あまり思いつめて考えてはならない。とりわけ道徳的に考えてはならない!」と答えるにとどまったであろう。……… ヘラクレイトスの一語一語には、真理の―― しかし直観で捉えられた真理であって、論理の縄梯子に攀じ登って得た真理ではなく――誇りと威厳が表されている。ヘラクレイトスは巫女のような全身法悦の境地で観るのであって、窺い探るように見るのではない。つまり認識はするが、計算はしない。『ギリシア人の悲劇時代における哲学』

> 「時間とは、遊びに興じる子供。王国は、そして、子供のもの」(ヘラクレイトス 「断片」52)

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2008年1月18日金曜日

硝子玉演戲:構想:理念、『老子』による

硝子玉演戲者となるための金科玉条を、『老子』から拾ってみる。

面倒くさいから結論だけ、

無名素樸
被褐懷玉

慈・儉・譲」の三德を体得する事

「無名素樸」
『老子』37に「道常無爲而無不爲。侯王若能守之、萬物將自化。化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。無名之樸、夫亦將無欲。不欲以靜、天下將自定。 」 道の常は無爲にして而も爲さざるは無し。侯王、若し能く之を守れば、萬物、將におのづから化せん。化して欲作れば、吾れまさに之を鎭むるに無名の樸を以てせんとす。無名の樸は、夫れ亦た將に無欲ならんとす。欲せずして以て靜ならば、天下はまさにおのづから定まらん。{事あれば「草莽の志士」となり、事終れば元に戻って隱者となる ‥‥

『老子』22に「曲則全、枉則直、窪則盈、敝則新。少則得、多則惑。是以聖人、抱一爲天下式。不自見故明。不自是故彰。不自伐故有功。不自矜故長。夫惟不爭。故天下莫能與之爭。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而歸之。」
曲なれば、すなはち全し、枉ればすなはち直し、窪めばすなはち盈つ、敝yabuるればすなはち新たなり。少なければすなはち得、多ければすなはち惑ふ。是を以て聖人は、一を抱きて天下の式となる。自ら見arahaさず、故に明らかなり。自ら是とせず、故に彰araわる。自ら伐らず、故に功有り、自ら矜らず、故に長し。それたゞ爭はず、故に天下も能く之と爭ふなし。古のいはゆる「曲なれば則ち全」とは、豈に虚言ならんや。誠に全くして之を歸す。{この「微妙玄通」の感じ

同じやうな思想を、『莊子』逍遥遊篇も言ってゐる。
惠子、莊子に謂いて曰く「われに大樹あり、人これを樗と謂ふ。その大木は擁腫にして縄墨に中らず、その小枝は卷曲にして規矩に中らず。これを塗に立つるに匠者も顧みず。今の子の言、大にして用なし。衆の同じく去るところなり。」
莊子答へて曰く「・・・略・・・。今、子大樹ありて、その用なきを患へば、なんぞこれを無何有の郷、廣莫の野に樹ゑて、彷徨呼としてその側に無爲に、逍遥呼としてその下に寢臥せざるや。斤斧に无せられず、物の害することなし。用ふべきところなきも、いづくんぞ困苦するところにあらんや。」と。

「被褐懷玉」
70「吾言甚易知、甚易行。天下莫能知、莫能行。夫唯無知。是以不我知。知我者希。則我者貴。是以聖人、被褐懐玉。」
吾言、甚だ知り易く。甚だ行ひ易し。(だが)天下能く知るは莫く。能く行ふは莫し。それたゞ知る無し。是を以て、我を知らず。我を知る者は希なり。我に則る者は貴とし。是以、聖人は。褐を被て玉を懐く。{現實を超脱できる力を持った思想を懷くといふ事。

48「爲學日益。爲道日損。損之又損。以至於無爲。無爲而無不爲。取天下常以無事。及其有事。不足以取天下。」
學を爲せば日に益す。道を爲すは日に損す。之を損じて又損じ、以て無爲に至る。無爲にして爲さざるなし。天下を取るは常に事とする無きを以てす。其事とする有るに及んでは。天下を取るに足らざるなり。

63「爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事、必作於易、天下大事、必作於細。是以聖人、終不爲大、故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難矣。」
無爲を爲し。無事を事とし。無味を味わう。小を大とし少を多とす。報怨以徳。難を其易に圖ハカり。大を其細に爲す。天下の難事、必ず易きより作オコり。天下の大事、必ず細なるより作る。是以、聖人は、終に大を爲さず。故に能く其大を成す。夫れ輕諾するは必ず信寡なく。易多ければ必ず難多し。是以聖人猶之を難とす。故に終い難無し。

「慈儉譲」
67「 ‥‥ 我有三寶、持而保之。一曰、二曰、三曰不敢爲天下先。慈故能勇。儉故能広。不敢爲天下先、故能成器長。今舎慈且勇、舎儉且広、舎後且先、死矣。夫慈、以戰則勝、以守則固。天將救之、以慈衛之。」
‥‥ 我に三寶有り。持而保之。一に曰、慈。二に曰、倹。三に曰、敢て天下先に爲らずと。慈なるが故に能く勇。倹故能広。不敢爲天下先。故に能く器の長を成す。今、慈を舎スてて且マサに勇ならんとし。舎儉且広。舎後且先。死せん。夫れ慈は。以て戰かへば則ち勝ち。以守則固。天將救之。以慈之を衛る。



硝子玉演戲 Das Glasperlenspiel の發想原作者である Hesse は、物語の主人公となる硝子玉演戲者を Knecht [仕人,下僕] と名付けた。それはガラス玉演技者の本質を意義させた命名であつたらう。だが、そこにはJesus-Chritianityの感傷が色濃く影響してゐると云はなければなるまい。私が彼の『 Das Glasperlenspiel 』から受けた感銘と影響は、 Glasperlenspiel ガラス玉演技といふ美しい響きの命名と、その思想理念を古代の東洋に求めた点にあり、ガラス玉演技自体の造形には演技者の造形とともに滿足してゐるわけではない。Hesse の硝子玉演戲者では、新たな聖職(と云ふより僧職的有閑階級)ができるだけの事だらう。だから、極東(丸い地球おのづと極西)に後生した私は、 Das Glasperlenspiel といふ西洋の悲願を實用のものとすべく思想、私の思考と空想を錬金術的に試みてみたのであつた。
約束することのできる動物を育成すること」と『道徳の系譜學』で言ったニーチェなどによつて、その體質を改善強化しなければなるまい。と云ふと、今度は力強くなりすぎる感じもする。私は日本人が古來より理想にしてきた「文武兩道」といふ陰陽循環的身心構造を豫定してゐるのだが。

ニーチェはかうも言ってゐる「偉大な任務を相手として取り組むのに、遊戯以外の方法を私は知らない。遊戯こそは偉大を現わすもので、その本質的な前提の一つである」。
『老子』も冒頭、第二章で「聖人處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居」と言ってゐる。「生じて有せず、爲して恃まず、功なりて居らず」、トリックスタア的、スキゾキッズ的、ヘルメスティックな puerAeternus 、遊戯する永遠の少年が、硝子玉演戲者についての私のイメジでありビジョンだ。
だが遊戯ばかりといふわけにも行かぬだらう。
戯(play)技は、義へと通じていなければなるまい。

「仕人」ではなく「士人」と、本質定義してをく。
以上の『老子』三德によつて裏打された「自利利他」の精神

『老子』15の士人論「古之善爲士者、微妙玄通、深不可識。夫唯不可識。故彊爲之容、豫兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、儼兮其若客、渙兮若氷之將釋、敦兮其若樸、曠兮若谷、混兮其濁。孰能濁以靜之徐清。孰能安以久動之徐生。保此道者、不欲盈。夫唯不盈。故能蔽不新成。」(和譯英譯はInternet上に澤山あります)を、硝子玉演戲者の定義とする。と云っても、老子自身、士人の何たるかは深く識ることはできぬと云ってゐるのだが、ま、紳士君子論の究極の理想として掲げてをく。

ついでに(話を落すやうに附け加へれば)、『老子』は士人の程度を上中下に分けて、皮肉を云ってゐる。
41「上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。 ‥‥ 」 上士は道を聞けば、勤めて之を行なふ。中士、存するが若く亡ずるが如く。下士、大いに之を笑ふ。笑わざれば以て道と爲すに足らず。 ‥‥
私もおほいに笑はれる事になるのだらう。

「信言は美ならず、美言は信ならず」と『老子』はエピグラムとして言ってゐる。
續けて「善者不辨、辨者不善。知者不博、博者不知」と。
そして、最後の最後に「聖人之道、爲而不爭」と。
私も聖人を氣取って「爲して爭はず」、「呈示して説得せず」の心意氣で世界をよぎる流星とならう。

私は此處にかうして集め置いてをく。それが「遺産」なのかどうかは、私の關知するところではない。
私は私の硝子玉演戲をおこなふだけ。愚公となつて、あるいはシジュホスとなつて、石を運ぶだけだ。山となすべく

私においては、Ethics と Aesthetics とは、隣合ってゐる。
『老子』の思想をダンディズムとして理解する事。
清貧を禁欲などと思ひ考へてゐるうちはダメだ。

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やまとまほろば:飛鳥&寧樂:一日と永遠 
おことわりとおねがひ 

   


硝子玉演戲:構想:理念、宮澤賢治『農民藝術論』

Das Glasperlenspiel
for Still Revolution


宮澤賢治『農民藝術論』
「いかに着手しいかに進んで行つたらいいか」

世界に對する大なる希願をまづ起せ
強く正しく生活せよ 
苦難を避けず直進せよ
感受の後に模倣理想化冷く鋭き解析と熱あり力ある綜合と
諸作無意識中に潛入するほど美的の深と創造力は〔加〕はる
機により興會し胚胎すれば製作心象中にあり
練意了つて表現し 定案成れば完成せらる
無意識〔部〕から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ
風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

{魂振、しかし魂なき者をいくら揺すぶったって ……

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『易と曼陀羅』:硝子玉演戲者のために:制作と觀相


宇宙と世界


諸行無常にして諸法實相





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2008年1月15日火曜日

おことわりとおねがひ

 おことわりとおねがひ 

* Art of Heart ∈ 思考69空想 ∋ Word of World の記事は、まさに思考と空想(シコーとクーソーと早口で九回ほど繰り返してみてください)、あることないこと日々の排泄物にすぎません。
 MindUpのためのWarm(Wormイメジ)Up、或種の MindMap の試み、シュトルムウントドランクの BrainStorming 、地口輕口鴃舌毒舌のWordArt、一人稽古のPassionPlay、獅子吼龍吟獅子奮迅、パワフル阿修羅の金剛力となつて大道藝に硝子玉演戲を試みるための自己劇化を目的としたものです。ですので、信用したり引用したりなされるのは勝手ですが、青くなつて赤っ恥を掻く事になるやも知れませんので「使用は各自の責任で」とお断りしてをきます。
* 情報よりも情動(情操と云ったら、私の語感では露骨になる)、私の目的は魂振、魂を揺さぶりたいのだ(魂がまだあるならば
* 私は説得しない、呈示するだけだ。誘惑にみちて、
*
* 義援喜捨、貧者の一燈(じゃなかった)貧者に一燈、謹んでお受けします。
 日本のため、世界のため、御支援ください。
*


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2008年1月14日月曜日

日録:080113 奈良若草山燒

今夜六時、若草山の山焼き、仕事に没頭してゐると、爆裂音が窓を搖るがした。「さうだつた」とベランダに出ると、花火が冬夜に開いては散つてゐる。去年、撮影がてら見物に行って、寒中人中に開始の時を待つた事が出不精に思ひ出されて、今年はどうしようと半分半分の氣持であったが、昨日からの寒氣到來とこのところにはかに多忙となった仕事を理由にして中止にした。
華麗な花火の後の山燒きはたんなる野燒きの感じとなって、花火は山燒きの演出としてまちがってゐるだらう、と去年も思ったが、遠くから眺める今年はさらにさう思った。

これで、次は東大寺のお水取りなど次々と春迎への行事があり、奈良では人のはうから強引に春を迎へに行くと云った感じで、年の暮より慌ただしい氣分が他國から移り住んだ私などにはする。

追伸、今年は前日の雨のせゐで「五分燒き」程度であったさうだ。翌朝、眺めると燒けた跡などどこにもない。去年は眞つ黑になった。燒けたがいいか、燒けぬのがいいか、若草山の燒け方で今年を占ってみる風習などあるのだらうか。

→去年の若草山燒き (『やまとまほろば:飛鳥&寧樂:一日と永遠』)



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2008年1月13日日曜日

比喩と揶揄:硝子玉演戲者としての私自身へ

この一年を、私は流星となつて世界を過ぎよう

燃える車輪となつて
走れ
時空の斷崖へ(墜落も衝突までは或種の飛翔)
飛べ
白鳥の悲鳴となつて

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2008年1月12日土曜日

比喩と揶揄:日本人、キレイはキタナイ、

比喩と揶揄  

大相撲初場所初日、あの横紙破りのモンゴル横綱復歸で滿員札止、緒戰に史上最多の懸賞枚數!讀賣新聞
{どうして、かうまでバカげて日本人はお人好しなのかねえ。なんでもかんでもお湯に浸かって水に流して、去年の事なぞもう粗方忘れてるんだらう。

成人がミッキーマウスとたはむれて「なにが日本だ成人式だ (いちおう狂歌のつもり)。→

日本人、これもなんだか、キレイはキタナイ、キタナイはキレイ
アブナイアブナイ
  


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2008年1月11日金曜日

Word of World :「パンとサアカス」

{すべて InternetWikipedia からの収集、それにいい加減な和譯を加へたものです。ちなみに私はラテン語を殆ど解しません。

( ユヱナリウス『風刺詩集』第10篇77-81行) ラテン語原詞
... iam pridem, ex quo suffragia nulli
uendimus, effudit curas; nam qui dabat olim
imperium, fasces, legiones, omnia, nunc se
continet atque duas tantum res anxius optat,
panem et circenses...

英譯)
... Already long ago, from when we sold our vote to no man,
the People have abdicated our duties; for the People who once upon a time
handed out military command, high civil office, legions - everything, now
restrains itself and anxiously hopes for just two things:
bread and circuses

和譯、英譯からの)
すでに遠い昔、おのれの参政の權利を売払ってしまひ、
以來、市民の義務を忘れてしまつたロウマの市民たち
かつて、國軍、國政、すべてを掌中にしてゐた彼等が、
いまや、ひたすら欲ひ願ふはたゞ二つのこと
パンとサアカスと

LinkList)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bread_and_circuses
Ancient History Sourcebook: Juvenal and Persius: Satires http://www.fordham.edu/halsall/ancient/juvenalpersius-intro.html


2008年1月9日水曜日

日録:出版不況

出版社がバタバタと倒産してゐる。
今年最初の出版社倒産は、自費出版關係でとかくの噂があった新風舎といふ出版社で、負債額は二〇億、計画倒産じゃないのかと私などはは疑ったが、ワンマン社長の放漫経営が主な原因であったらしい。
これに連鎖するやうに二件目は、一時期ベストセラーを連發してゐた(一時期流行語にもなつた『清貧の思想』もこの出版社が出したものだったさうな)草思社で、こちらは深刻な出版不況のせゐらしい。
ま「因果は巡る火の車」とでも云った感想しか湧いてこないが、この國の出版不況の現状は凄まじいらしく、今後、陸續と倒産が續く事になるらしい。→ニュウス記事

大衆消費社界となつて、今や持てあます時間の相手をしてくれるメディアは、ラヂオもあればテレビもある、映画もあれば劇場もある。そのうへ、インターネットといふチョウ便利なメディアも加はった。
當然、讀書といふような自發性と或種の忍耐を強ひられる本といふメディアが、大衆社会においてジリ貧になりゆくのは目に見えてゐる。
しかも、戰後の國語教育のおかげで、現代日本人は今や字そのものが讀めなくなってゐる、らしい。→
私が聞いたあたりでは、鴎外は無論の事、漱石や龍之介の文章も「飜譯」しなければならぬと云った有樣であつたが、今はどこまできてゐるのだらうか。潤一郎や康成、三島由紀夫あたりまで來てゐるのだらうか。半世紀前の同じ日本人が書いた文章を、それもたかが小説の文章を、飜譯してもらはなくては讀めないなどとは、にはかには信じがたい事ではあるが、
「分りやすさ」といふ誰にも分りやすい理念を掲げた戰後の國語改革、それを鵜呑みにした出版界、一億總白痴化させてしまふ教育的裝置としてのラヂオ&テレビ、それらによつて普段に教育されて、新しいスタイルの野蠻人とでも云った感じの怪物と化した日本人が、出版不況を現出させたといふわけだ。

かうして、精神の根本的なところで日本人は自壞するやうに日本を滅ぼしていったのだ。
國語破壞の前には、明治時代に音樂の自失といふ事がおこなはれた。文明開化の日本は西洋音階の音樂ばかり鳴り響かせて、日本人の心情は真底から衰弱していった。
なし崩し的に、無自覺的に、自前の音樂を棄て、國語を捨てられては、日本は(精神として)滅亡するしかない。

私はきはめてヘソ曲りにツムジ曲りにできあがってゐるから、こんな現代日本と同道する事を拒絶した。



わが「易と曼荼羅」としての:wPage と bLog :

ブログと同時にホウムペイジの制作も始めてゐる。そのうへ、広告にまで手をのばしたために、いろいろさまざま多忙なおもひをしてゐる。

身心學道のために、『易と曼陀羅』といふ東洋思想に興味と關心とを持ってその体得に励んできた?私は、なんでもかんでも陰陽一對、相補性といふ構圖でみたがるクセがついてゐるやうだ。

陰陽循環の「理論家」としてウエッブペイジを觀察、分析すると、從來にないその最大の特徴=特長は「道中」性にあるやうに思はれる。
『ドンキホウテ』で、セルバンテスは「宿屋よりも道中がおもしろい」と言ってゐるが、結果よりもその過程、制作の過程、メイキングのプロセス、そのカット&トライ、發見と冒險、その全部が、云はば「航海日誌」として、(こんな事を書かうと思ってゐたのではなかった。

無名な者の、譯も分らぬ文章など見てる人などゐないだらうから、といふ事にして、ヲウムアップの感じでいまのところは自由氣儘に書きっぱなしにしてゐる。

2008年1月8日火曜日

『かなしむちから』:構想と造形:日本のために

(つづき{速筆草稿のまゝ、
私への「偶然」は續いた。
嫁いだ姉が新居を求めた所は、三重県の名張市であつた。
なんと、そこには大伯皇女が待ってゐたのある。
『日本書紀』にも『萬葉集』にも出てくる、歴史の深いこの地を訪ね歩くうちに、「夏見廢寺」といふ私にはもつとも魅惑的に響く語感の廢墟を訪れて、その廢寺は本來「昌福寺」と云って、『萬葉集』で有名な大伯皇女が父上天武天皇の供養のために創建したといふ事實に遭遇したのであった。
まさに私にとつて「青天の霹靂」カミナリに打たれた衝撃であった。
市民のための運動公園の一角に整備され、端正に再現された廢墟の趾は、堂塔伽藍を想像させるに充分、ちょうど適當(あんまり實物再現されるとかへって風情風趣が失せる)、
私は一人(その後も何度も訪れたが人の姿を見掛ける事はほとんどなかった)樹木に圍まれた境内を歩き囘り、基壇を眺め、心礎を見詰め、空を見上げ、歴史の時間へと飛翔した、 ……
それから大分な時間が過ぎた。

夕暮時の廢墟に佇みつづけ、私は天命を思った。思はざるを得なかった。
二人の物語はまだ作られてゐない。まるで私のために手付かずで殘されてゐると妄想は誇大となっていく。
文學の才能が私にあらうとなからうと、私は二人の顯彰、そして鎭魂のための作品を作らなければならぬ。
「かなしむちから」の作者となる、私は天に誓った。
多少の自己劇化は私にも必要であった。
懷胎の時間、淺學菲才の者が獨立獨歩で一から始めなければならぬ、長い勞苦がおもはれた。
隱された主題は日本、日本とは何であつたかといふ自問自答。
都合がいい事に、大津皇子は「日本」の原點に位置してゐた。
大津皇子の「國讓り」によつて父子相承を原理とする天皇制が成立し、日本といふ國家が定立した。
歴史的な事實によって大津皇子の構想と造形を繰り返すうちに、結論はさういふ事になってゐた。
『日本書紀』の思想的核心は「國讓り」にあるやうに、私にはおもはれた。
大津皇子は國を讓ったのではない、と直觀された。
それですべてが解けた。しかも、もっとも美しいかたちで謎が解けた、おもひであつた。
『日本書紀』の原點となる國史編集の事業が始まったのが天武天皇の十年、その時、大津皇子は數へで十九歳でわが國初となる文華事業に立会ってゐたのである。
『日本書紀』を通じて、手を替へ品を變へ繰り返し語られる「國讓り」の史實、大國主に始まり、菟道稚郎子、そして、蘇我入鹿に圍まれた山背大兄王に「卿が言ふ所の如くならば、其の勝たむこと必ず然らむ。但、吾が情に願はくは、十年百姓を役はじ。一身の故を以て豈に萬民を煩はしめむや。又、後世に、民の吾が故に由りて己が父母を喪せりと言はむことを欲りせじ。豈にそれ戰ひ勝ちて後にまさに丈夫と言はむや。それ、身を棄てて國を固めば、また丈夫にあらずや」「吾、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たむこと定utumunasi。然るに、一身の故によりて百姓を破り損ふことを欲りせじ。是を以て、吾が一身をば入鹿に賜ふ」と遺言させて、そのやうに構想を造形して、國史は過去を鎭魂しつゝ現在に生かし、未來への原點たる意義を持ったのである。
この構想と造形に大津皇子が係はってゐた可能性はきはめて大きいだらう、と私は推測する。『日本書紀』(および『懷風藻』も)は、大津皇子を當代随一の文學の持主だと記してゐる。國史において、謀反死罪の者にたいする異例、格別の取扱であるが、それはともかくとして、當時文學において最も有能であつた彼が國史制作の事業を默って見てゐるわけがない、必ず彼はこの事業の中心になってゐたにちがひない。
すると、かう推測しなほしてもいいわけだ。大津皇子の思想が國史に反映されて「國讓り」の思想が強調されるやうになった、と。
その大津皇子に、皮肉にも後継者問題で自分自身に國讓りの難問が突付けれた時、彼は「思想」を演じてみる氣持にならなかったか。自身を犠牲にして國讓りの實例を演じてみせてやる、といふ着想が彼の野心となってゐかなかっただらうか。
日本といふ國家は、大國主の始まり大津皇子にいたる自己犠牲の、謙譲美徳によってできあがっていった。
まさに「和を以て貴とする」
日本人はなんといふ素晴しい國史を與へられた事か、そして、その後、曲りなりにも平和な國家として持續し、しかし、この百年のうちに西洋帝國主義の優勝劣敗、弱肉強食の思想に毒され、國風を臺無しにしてしまった。
だが、有難い事には、戦争放棄の平和憲法を與へられるといふ僥倖があり、
このお仕着せの平和思想を、傳統の「和を以て貴とする」思想で換骨奪胎して、世界の未來に率先、範を示すべきであつたのに、
敗戰後の日本人はひたすら拜金主義のエコノミックアニマルと化して、マモイズムとフェティシズムの羨望欲望にアワアワと身心淀み濁らせるばかりで、タテマヘとホンネ、自由主義を履きちがへ、個人主義は身につかず、民主主義も資本主義も、脱亞はできても入歐はできず、傳統は自失して、背骨もなければ甲冑もない素裸同然、寄る邊なき根無草となつて今や蒼惶喪家の狗、まさしく亡國の相と斷じなければなるまい。
(廢品回収のスピイカーが入れ替はり立ち替はり、煩いったらない。つづきは別の所で


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2008年1月7日月曜日

硝子玉演戲:硝子玉演戲者に


とべ

墜落も衝突までは或種の飛翔だ

とぶな

鳴かず飛ばずならば貴方も鳥だ





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2008年1月6日日曜日

やまとまほろば:一日と永遠:

2008/0106 天晴、蒼穹虚空たり。

高圓山の麓、平地になりゆく邊り、古市。その古い墓地。此處には、北浦貞政の墓がある。江戸時代の末期に奉行を勤めた人で、當時完全に忘れ去られてゐた陵墓や平城京を、獨自にきはめて正確に調査したとその功績を顕彰する碑が墓所の入口にある。@


 「やまとまほろば」の中の墓地、そこに陰を作る樹(その左に二上山が見える)



 高圓山


圓照寺のあたりから春日山や若草山の方向を望む

墓地は稲田に圍まれ、ひろびろと「やまとまほろば」をはるかに見渡して、昔は飛鳥の邊りも見通せたであらう。今でも建物のあひだに、まさに唐突と云った感じで見える小さな三角錐の影が、大和三山の「みみなしやま」。「うねびやま」もその右に見える。「あめのかぐやま」は山の形には見えない。この山はどこから見ても山には見えない。多武峰の尾根の一つだ。
その背後には、大和と吉野を隔てる山脈、それに抱かれるやうにして「とぶとりの」明日香の里がある。ここで日本の歴史が始まったのかと思へば、不思議なくらゐに小さな盆地だ。
その右、西方には金剛葛城が重厚に蹲り、その北端となる山が「ふたかみやま」だ。奈良からだと、雄岳雌岳は重なって、一山の平凡な山容となり、おそらく、あれが二上山ときづく人はさうはゐないだらう。
二上山で一旦山脈は終り、ふたたび生駒山へと高まりゆく山塊のあひだに、「こもりくの」泊瀬=初瀬を源流とする初瀬川などを主流に飛鳥川や蘇我川などが合流して、大和川となって大阪へと流れてゐる。
その邊りに、聖徳太子の斑鳩の地がある。
(つづく

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* memo
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2008年1月5日土曜日

比喩と揶揄:ニッポン晩歌:もののふ

「ニッポン晩歌』制作の雰圍氣釀成のために、
まづは『萬葉集』は柿本朝臣人麻呂の名作から

もののふの八十氏河の網代木に いさよふ浪の行方知らずも

淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに古おもほゆ

  • もののふ」とは、この歌の場合「八十」の序詞だが、「もののふ」の「もの」は「こと」とともに、日本語の最も重要な語で、 もの、ものいひ、ものいまひ、ものいみ、ものいみ、ものいり、ものいろ、ものうし、ものうち、ものうらみ、ものおぢ、ものおぼえ、ものおもひ、ものがしら、ものかたし、ものがたり、ものがなし、ものがら、ものぎは、ものくさ、ものぐるはし、ものぐるひ、ものごし、ものごのみ、ものさた、ものざね、ものさび、ものし、ものしり、ものずき、ものすごし、ものつくり、ものとひ、ものども、ものならひ、もののあはれ、もののえう、もののぐ、もののけ、もののふ、もののべ、 ‥‥ ものわすれ、ものわらひ、
  • もののふ=士=侍=さむらひ、となるのだけど、サムライは宮本武藏の『五輪書』や黒澤明の「Seven Samurai」あたりから世界語となり、あまりに流通し俗化し、いまでは政界財界、ヤクザやスポウツ業からヤクザ業まで、サムライを自称するやうになつて、今やその高貴な精神性を内包できなくなつてゐる。ので、私は「もののふ」を以てわが「硝子玉演戲者」を「もののふたれ」と簡潔に定義したのであつた。


2008年1月4日金曜日

比喩と揶揄:ニッポン晩歌

明くれば、やっぱりドカンときました。
日本丸のドテっ腹に一撃貫通、爲す術もなく、母艦ヤマトの轟沈が始まる
【日経平均、700円超の急落=米国株下げ、円高で全面安(時事通信)】

今こそ日本人を励まさなければならぬ。←樽転がしのディオゲネスふうに
その前に、叩きのめさなければならぬ。←水に落ちた犬を助けだすために

これからつくる『ニッポン晩歌』について

  • 晩歌は、ほんたうは挽歌あるいは輓歌と表記すべきだらうが、葬送の時に随伴して悲哀する歌といふ意味だから、まだ挽歌を稱するのはちょっと早い。で、お通夜の前の、臨終の暮方における感慨とでもいつた氣分を、語呂合ひで「晩歌」とした。


夜、TVで地球環境の現状を見た。
エヴェレストの氷河が溶けだし、北極の海も溶けだした。大氣は流れを變へ、海流もその流れを變へた。地球環境を被ひ守る成層圏にはオゾンホウルの穴があちこちで増えてゐる。
異常氣象と云ふけれど、氣象に異常などない。正常な、これが現在のありのままの状況なのだ。異常と云へば、まるで地球が狂ったかのやうな言ひ草。異常なのは人類、狂ってゐるのは我々自身だ。もう人類など亡びたはうがいい、まったく以て酷いイキモノだ、と慨はれてくる。
あゝそれにしても、後何年持つのかと差し詰った氣分になってくる。これでまだ間に合ふのか。私などはもうどうでもいいが、若い人たちには居たたまれなくなる事實の數々、世界の未來だらう。
宇宙船地球号危急船痴愚号
何をやつても間に合はない、
世界全體間に合はない
宮澤賢治189633


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2008年1月3日木曜日

平城寧樂奈良:いまだ松の内

大和來て日本を懷ふ、今昔や、終りの時を今に慨ひて

紫式部が『源氏物語』をものして一千年となる今年の日本、沈没へとおほきく傾きゆく事となるであらう。
今年の幕開き、ニューヨーク相場は油が高騰、株価は急落。
明日の日本、
まことに以て危急存亡、國難の秋であるが、これを救ふに人がゐない。たとへ叫ぶ人ありとも、応ずる人なし。とっくに暴動おこってもいいだらうに、みごとにおとなしく、みづから羊の群となつて、多婬多食の酒地肉林、パンとサーカスとの「たのしければいいじゃんみたいな」洗腦された裸の王様、脂血糖尿のメタボ怪物と化して、文部省とマスコミとのもののミゴトな教育成果だが、それが日本の命取りとなる。
日本終了、世界も炎上。終りはすぐそこに近づいてゐる。
むしろ、このまゝ「醉生夢死」がいいのか知れぬ。

ブランド志向かと見れば福袋にむらがり、
 これはなんだか、キレイはキタナイ


【食乱、何たべてるの(中日新聞)】
【】

やうやく温暖な感じで晴渡ったので、午後、初詣がてら春日山の方へ出掛けてみる。
さすがに春日大社、三日と云ふのに、すごい人出だ。


東大寺もすごかつた。景氣のせゐもあるのだらうか。
春日野の鹿の遊び場、飛火野で、家族の揚げる凧を見上げて、春日の山の神佛に「日本と日本人を護りたまへ」とお祈りしてきました。


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2008年1月2日水曜日

平城寧樂奈良:初夢

 ‥‥ wane 衰弱 bane 破滅 castration 去勢 excrement 排泄物 embroidery 刺繍 mausoleum 陵廟 decapitale頭を切り落す adage 金言 apprehension 先の心配 frailty 弱さ ‥‥

danse macabre、mement mori
六道、九想

Vado mori (I prepare myself to die)
死をもてあそぶなかれ 
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2008年1月1日火曜日

memo:

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平城寧樂奈良:謹賀新年

新しき年の始めの初春の今日降る雪のいやしけ壽事  大伴家持

このめでたい言葉ばかりでできてゐるのに、なぜか(その後の家持の運命を識つてゐるせゐか)かなしさの響いてくる歌を呟きつゝ、
年明けの酒を支度してゐると、寒風にかさなつて除夜の鐘の音が聞えてきた。東大寺だらうか、興福寺だらうか。さらに耳を澄ますと、今度は夜汽車の音が聞えてくる。幻聽かとおもふほどの近さで、零時過ぎだぜと一瞬ハッとしたが、あるいは初詣に特別走らせてゐるのかも知れぬ。
遠離りゆく夜汽車の音が消えたところで、また鐘の音。感慨しきりとなつて、それを肴に思ひ出酒となる。

走馬燈、酒は泪か溜息か、森羅萬象、煩惱の聲

付録」年末年始、去年今年「昔の人々と

ゆく年の惜しくもあるかな増鏡みるかげさへにくれぬとおもへば
 紀貫之087045

年暮れて我が歳yo更けゆく風の音に心のうちのすさまじきかな
 
紫式部

をのづから云はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮なる

 西行111890


年の内に春は來にけり一年を去年とや云はむ今年とや云はむ
 在原元方

門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり めでたくもなし

 
一休宗純139481

大晦日愚なり元日猶愚なり
 子規{子規は元方の歌を貶したが子規の句も ‥‥ 、で口直しに
今年はと思ふことなきにしもあらず

去年今年貫く棒のごときもの

 虚子


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